第22話 不穏(1)

放課後の補習は、また少し人数が増えた。大学進学志望者が入ってきたほかに、口コミでわかりやすい、というのが広まったからである。

授業中寝てたやつも、「個別の進度にあわせて」というのに惹かれてか、放課後にはのこのこやってくる。

聡は一人一人に、どこでつまづいたかテストをし、遡って説明しなくてはいけないので大忙しとなった。

将ときたら、いよいよほったらかしにされて不満である。

新規参加組にチャミとカリナもいた。

彼女たちは、前に座った聡の顔を見て「先生、こないだはごめんね」と謝った。聡が暴行されそうになったとき、井口ら不良グループを手引きしたことを言っているのだ。

「うちら、アイツらに脅されて……。先生、ヤられてないよね」
「大丈夫よ」

聡が答えると、二人とも両手を顎の下で握り締めて

「よかったー。学校来てたから大丈夫だとは思ったけどぉ、でも心配でぇぇ」

と顔を見合わせた。

「でも何で助かったの?あいつらツるんでたでしょ」

聡はちらっと将のほうに目を走らせた。するとこっちを見ていた将と目が合った。呆けたような顔が、聡と目があったとたん、ニッと笑う。

「人が偶然来てくれてね」

聡はあわてて視線を戻したが、チャミとカリナは将とのアイコンタクトに気付いたようだ。

「鷹枝くんと先生って仲いいよね」

さすが女子高校生、前触れもなくズバリと突いてくる。

「え、フツー、だけど」

聡はあせって答えた。

するとチャミは急に声をひそめて、聡だけに聞こえるように言った。

「だけど先生、鷹枝くんのこと、怖くない?」
「?」

「鷹枝くんってね……。人殺ししたって噂流れてるんだよ」

聡は一瞬ぞくっとした。

『俺は何をしたって許されるんだ。人を、例え、刺し殺したとしても』

と土曜日に将が言ったセリフを思い出す。

「よしなよ、チャミ。噂でしょ」

カリナが制止する。聡は、勉強に戻るよう彼女らにうながすしかできなかった。

 
将は暇でしかたなかった。こんなんなら、夕陽を見に海へ行ったほうがマシかもと思ったが、最近いよいよ日暮れが早くなってきている。

授業が終わって車を飛ばしたとしても間に合うかどうかである。

将は、松岡のことが気になって、彼を見る。反対側の頬しか見えないので、特に異変はないように見える。

しかし。なんとなく嫌な予感がしていた。将は聡の顔と松岡の腕の傷を交互に眺めていたが、次第にうつらうつらしてきた。

昨日は久しぶりに、井口らと夜遊びに出たのだ。たいして出たくもなかったが、井口が、

「オヤジガリガリしようぜ」

というのでしぶしぶ外出したのだが

(ちなみにオヤジガリガリ、というのはオヤジ狩りをする、自分たちより弱そうな不良を狩る、という正義の味方ごっこである)、

実際に行ったのは踊るほうのクラブだった。

将がいると女の子が寄ってくるという井口の計算だったが、なるほどブスっとしている将はクールな雰囲気で女受けは悪くない。

平日のクラブはほとんど高校生と大学生ばかりで、12時すぎに2度目の盛り上がりのピークを迎えた。それに便乗してバカ騒ぎをした……。

「……くん、鷹枝くん」

聡の声で将は目が覚めた。

「んあ?」

将は寝ぼけて頭をあげると前に聡が立っていた。いつのまにか机につっぷして寝ていたらしい。
教室にはもう誰もいない。

「下校時間よ」

いまいち頭がはっきりしない。ボーっとしている。どれぐらい眠っていたんだろうか。教科書を閉じた将は、あ、と気付いた。

「センセイ、松岡くんは?」
「帰ったわよ」

ヤッバ、とつぶやくと即座に「先生さよなら!」と教室をダッと駆け出た。

「教科書出しっぱなしよ!」と聡の声が背中に聞こえた。

将は校門を出ると、学校近くの公園に走った。

桜並木に囲まれ、砂場と鉄棒、ジャングルジムにブランコ、そしてベンチがある、子供を遊ばせるためのような公園だが、夕暮れで薄暗い今の時間には誰もいない。

将はコンクリート製のトイレの裏にまわった。

――やっぱり。

そこにはトイレの裏の壁に張り付くように財布を手にした松岡、その前に前原がいた。

「何してんだ!」

走ってきた将は息をきらせながら叫んだ。前原は将の姿を見るとギョッとしたようだが、すぐに居直った。

「見りゃわかるだろ。邪魔すんな……」

と前原が言い終わる前に将は彼に殴りかかった。その濃い顔にパンチをくらわせる。次の瞬間には前原は赤っぽいカタバミの葉が生い茂る湿っぽい地面になぎ倒された。右頬が次第に赤くなり、分厚い口の端から血が流れていた。

「おまえ、何様だァ……!」

前原は隈取をしたかのように見える大きな目を歪ませて将を睨みつけると、ポケットからナイフを取り出した。壁に張り付いていた松岡がふるえあがった。

ナイフを振りかざして前原は突進してくる。将はそれを素早くかわすと膝で前原のみぞおちを蹴り上げていた。

前原は貯水タンクの地面を固めるコンクリートの上に飛ばされた。横向きに丸まり、ゴホッゴホッと咳き込んでいる。

「大丈夫、松岡くん」

将は松岡を振り返った。

「……ありがとう」

松岡は壁にはりついたまま小さな声を出すのが精一杯だった。

「で、いくら取られたの?」
「全部で……5万、それとカード」

松岡は倒れている前原をチラチラ見ながらさらに小声で言った。将は再び倒れている前原のところへ近寄ると、

「金とカード、返せよ」

と上から言った。前原は苦しそうに咳ばかりをしつつも将には

「なんのことだよ」

としらばっくれる。将は前原からナイフをとりあげた。そして彼を靴先で転がして仰向けにさせると、その長い足で彼をまたいで、両手のひらを足で踏んで固定した。

前原の指の骨は固いコンクリートと将の体重が掛かった靴底に挟まれてギシギシと悲鳴をあげた。あまりの苦痛に前原がうめく。

「松岡くんからとった金とカードは?」

両手を踏みつけたまま、前原の顔を見下ろして、もう一度訊く。

「し、しらねえよ」

将は、そのままの体制でナイフの刃を再び出した。それは今から果物でも剥くのかと思うような日常的な出し方だった。

「知らないはずはないんだけど」

といいながら、将はナイフを高くかざす。前原が見上げた将は、能面のような無表情だった。

明るいところでは茶色っぽく見える将の瞳が薄闇のせいで光のない真っ黒に見える―――TVで見たホオジロザメの目のように。それが冷酷さを極めた顔であるというのを彼は知らない。

「おかしいなぁ」

将は無表情のまま、あまり抑揚もなく言うと、その刃を一気に前原の胸に向かって振り下ろした。

松岡ですら、その恐ろしさに、顔を壁に向けて目を閉じたほどだ。

「ギャアアアアア!」

夕闇せまる誰もいない公園に前原の悲鳴が響き渡った。

   ◇

補習を終えた聡は、職員室に一人残り、残業をしていた。新人教師の聡は、授業が終わるといろいろとやることがある。

プリントの作成や会議のレポートをまとめたり、研修資料をつくったり、コピーを何十部もとったり。補習をしなくても忙しいのに、放課後に補習を1時間入れたばかりに、仕事はたまりにたまっていた。

英語の授業が映画鑑賞に変わった件について、生徒にはおおむね好評のようだった。もちろん聡は映画鑑賞だけで終わらせるつもりはない。ここから中学レベルでもできる日常表現を抜き出して、文字列に頼らずに耳と口で覚えさせるつもりだった。

実際、聡はアメリカ・サンフランシスコに1年間留学したことがあるのだが、発音がクリアーではない西部だったせいもあり、そのとき向こうで出会った日本人留学生は日本でTOEFL対策でやったヒアリングなど、日常ではほとんど役に立たないも同然だと言っていた。

聡は両親が日本人学校の教師をしていた都合で小学生から中学生にかけてカナダのバンクーバーにいたのでそれほど苦労しなかったのだが、外国語を習得するには、結局「字」に頼らない体験にまさるものはないのである。

それと、友人の美智子は高校の勉強の意義の1つを「忍耐力の養成」と言った。そして勉強の退屈が「世代を超える共通体験」とも。

しかし、せっかく頭の働きが一番いいときに、興味のない授業の忍耐で時間をつぶすのはもったいない、と聡は思った。

教育要項には英語の重要な役割に「国際人の養成」とあった。それだったら、つまらなくてレベルばかり高い英語の教科書よりも、英語にひっかけて、映画でも見たほうが、よほど一般教養にもなるし、海外の文化の勉強にもなると思う。

英語は将来忘れても、感動した映画のストーリーは容易に忘れないだろうから。英語の他にも、聡はいずれ英語のカラオケをさせる予定もあった。

流行の英語の歌をカラオケで歌えればカッコイイ。その方が大学にもいかない生徒らには「役に立つ」だろう。それに、音楽に助けられて英単語や熟語もすっと頭に入りやすくなるに違いない。

そして、さらに英語の授業の改革のほかに、聡が考えていることがあった。

気がつくと、今日は他の教師は皆帰ってしまい、聡一人になっていた。

もう外はすっかり暗い。

「もういいや。今日は帰ろうッと」

聡が帰り支度をして、警備員に自分が最後だと告げにいこうとしたときだ。職員室の電話が鳴った。

こんな時間に?と聡は踵を返して電話をとる。

「もしもし。お待たせいたしました、荒江高校ですが」
「もしもし、こちら○○署ですが。お宅の生徒さんのことで―――」

警察からの突然の電話だった。