第300話 責任というもの(2)

外はすっかり暮れたようだ。

元倉と二人っきりでいやに白い蛍光灯が照らす会議室に残された将を沈黙が追い詰める。

息をするのも苦しいような……緊張感に圧迫されて、すでに将は、対峙する元倉の顔をまともに見ることができない。

「急に芸能活動をやめて受験に専念するというからには、よほど何か事情があるのだろう」

元倉は静かな口調で切り出した。

……そうだ。事情があるんだ。だからわかってほしい……将は下を向いたまま念じるしかない。

「だがな。僕は、そんな責任感のない行為を許すことができない。……君は、芸能界を辞めて、お父さんと同じ道を目指すつもりなのか」

つまり、政治家になるつもりか、と訊いてくる。

将の実家が、明治維新から続く政治家の家系だということを知っているのだろう。

「だがな。そもそも、たった1つの仕事をやり遂げられないようなヤツが、国の舵取りを出来るはずがない」

政治家になれるかどうかは知らない。今は、何にも優先して東大に入らなくてはならないのだ……。将は苦しい胸の中で言い訳をする。

「仕事に対して、見てくれる視聴者に対して誠意や責任感というものをもてない男が、受験に成功したところで何になる」

――元倉さんは、俺の事情を、何もわかっていないのだ。

将は息も絶え絶えの心でむなしく反駁する。

「誰もついてくるものか」

そういうと元倉は立ち上がった。部屋を出て行くのではない。

元倉は夜景を映す窓辺に立つと、煙草に火をつけた。

「君は、なぜ、この仕事を請けたのか」

元倉は、煙に眉をしかめながら将に問い掛けてきた。

聡のためだ。将は心の中で、即答した。

聡のために……、聡とのことを世間に認められるために、早く実力派俳優になりたかった。

答えははっきりとしているものの、それを声にすることはできない。

だから将は、この不本意な沈黙を続けなくてはならない。

「僕は」

黙っている将に、元倉は舞台にでも立っているような明瞭な調子で語りかけた。

「君にこの役を依頼したのは……君という人の人間性を重視したからだ」

テーブルの木目を追う将は視線の端に、元倉の痛いほどの視線を感じる。

眼鏡のレンズは、まるで日光を集めて紙を焦がすように、元倉の視線をより鋭く集めて将の横顔に照射するようだった。

「正直なところ演技はまだまだだ。だけど……君は、目覚めたばかりのような、芽吹きかけた木の芽のような勢いがあった。……いっとくが人気が、じゃない」

元倉は煙を吐き出しながら続ける。

「将。君は、ただ楽しいとか目立ちたいといった理由でこの世界に入ったわけじゃないだろう。君は何か一生をかけるものに出会っている。そんな目をしていた」

机の木目の中に、聡の姿が浮かび上がった。

今日もつらそうだった聡。

『ごめんなさいね。ちょっと体調が悪いので座らせてもらいます』

そういいながら、座って授業を続けた聡の顔は青白く、他の生徒も異論を挟まなかった。

あいかわらずゼリーしか食べられないらしい。

土曜日に、将が持っていった残りの栗ご飯も一口しか食べられなかった。

それでも、デザートに純代が手作りした、すだちのゼリーだけは『美味しい』と平らげることができたのだが……。

 
 

「君には好きな人がいるか」

唐突に、元倉は将に問い掛けてきた。

――その、好きな人のために、受験に成功しないといけないんだ。

将はあいかわらず心の内側で叫ぶ。

――だから、解放してくれ。

しかし、声にすることはできないから、

「どうしてですか」

と冷静を装って問い返す。

将が答える間、煙草を口にしていた元倉は、それをハッと吐き出すと

「君は、いつか、好きなひとさえ切り捨てるだろう」

と予言した。

聞き捨てならないその予言に将は、やっと元倉のほうを振り返った。

心臓が鈍く、重苦しく動き出している。

体中の血管に縛り上げられれるようだ。

――聡を……切り捨てる。

――ありえない!

叫ぶ心の裏側で、理性は妊った聡を確かに重荷に感じていた土曜日の事実を突きつけてきて……将は自分の心の暗闇におののく。

「切り捨てる、とか、諦める……ということは、一度やると癖になるんだ」

将の心の動揺を気付かないのか……いや、気付いているのか、元倉は将の瞳を見つめると煙草を灰皿に揉み消した。

焦げ臭い煙は窓際に置かれた空気清浄機にあっという間に吸い込まれていく。

元倉は、マラソンランナーの話を始めた。

「マラソンランナーがいい例だ。一度棄権してしまうとそれが癖になったようにそのランナーはラストまで走り続けることができなくなってしまうんだ。どんなに立派な成績を残した選手でもね」

将は空気清浄機のあたりに目を遊ばせながら、元倉の話に心を集中させる。

自分の心の暗闇から目を逸らすべく。

聡と聡が腹に抱えた二人の運命を……一瞬でも重荷に思った事実を錯覚だったのだと思い込むべく。

「人生はよく、長いマラソンに例えられる」

そんなことは、将も小学校の頃から聞かされていたし、本の中でも何度となく読んだ、使い古された例えだ。

「人生というのは、人と人との関わりあいの中にある。そして人と人とが協力しあって1つのことを成し得ていくのが仕事だ。その積み重ねによって人は食っていくことができるんだ……」

ここまでで元倉が将に伝えたいことの要旨が、おおよそわかってしまい、将の視線は元倉の足元まで落ちてしまった。

それを見届けたのか、元倉はとどめを刺してくる。

「君は若くしてそれに関わるという貴重な経験をしたんだ。それを若いうちに放り出すというのは、人生に棄権癖をつけることだ」

否、と反論したい心の表ですら、すでに力を失っている。

元倉の言葉は、将の決意の隙間に楔を刺すようにてきめんだった。

聡とその子供を守りたい。幸せにしたい。

だから父に言われたとおりに、とりあえず東大を目指す……そこに将自身がいないことに……元倉の正論は付け入ってくる。

そんなことで難関突破を成し遂げられるのか。

いや、そもそもその土台ですら揺らいでいる。

聡のことは愛している。一生でたった一人の女性であることはゆるぎない。彼女との結婚、そして温かい家庭を実現するためなら何でもする、というのは嘘ではない。

だが、あまりに早く、現実だけがやってきて……将も聡も、浮かんでいた夢が現実に背中に乗ってきた重さに喘いでいる。

あまつさえ、棄権する楽さを……土曜日に将は選択しかけてしまっている。

「それは……いつか、かけがえのない人ですら放り出すに違いない」

将は思わず、元倉を鋭い眼で睨み付けた。

元倉は将の視線を受けて、おや、という顔で笑った。

「放り出しません」

将は低い声でようやく反撃する。

「わかるもんか。仕事を放り出す人間に何の信用がある。いっとくが、今回のことで君の信用は各界でガタ落ちになるだろうな」

元倉の眼鏡の奥の瞳が、少しだけ意地悪く光った。

「君は、父上の跡を継ぐにしても、親の七光り以上のことは何もできないだろう」

たしかに国民的な人気を持つドラマの作者である元倉亮だが、そんなに力を持つのだろうか。

「言いふらすんですか……」

訊き返した将に、元倉は

「幼稚だね、君は」

といって笑い返した。

「言いふらしたりしなくても、そんなことはおのずと知れるものだ。人と人との関わりあいを放棄したことがある人間に、世間は冷たいものだよ」

言葉とは裏腹に元倉のまなざしは温かく、口調は誠実だった。

ゆえに、彼が汚い手段で陥れたいわけではないことを将は理解した。

案の定、元倉は窓際を離れて将のほうへ歩いてきた。

「僕はね。この仕事を君にやり遂げてほしいんだ。もちろん僕のこだわりであり、わがままであることは百も承知だ」

元倉は隣に座った。

今吸ったばかりの煙草の香ばしい匂いが近寄ってきたが将は目をあげることもできずに、テーブルの上に置かれた元倉の右手を見つめる。

その中指の第一関節は長年の脚本書きによるペンだこで変形していた。

たくさんの仕事をやり遂げてきた人の、歴史を刻んだ手に、将の心はざわめき出す。

「芸能界に残るかどうかは君が決めることだが、一度引き受けた仕事はやり遂げて欲しい」

こんな手を持つ人に、将が理屈でかなうはずがないのだ……そんな思いと同時に、将はその手に激しい憧れを感じた。

こんなふうに、仕事という歴史を積み重ねていく男になる最初のチャンスを将は自ら捨てようとしているのだ、ということは将にもわかる。

「……僕は、君の人間性に賭けていた。そんな君に、人生の棄権癖を付けて欲しくないんだ。

いずれ父上の跡を継ぐにしても、何かをやり遂げる喜びを積み重ねて成長してほしいんだ。……頼む」

頼む。その言葉に将は目をあげた。とたん元倉の眼鏡の奥の瞳は、将の瞳を通して心まで染み透った。

それは、将の心の……聡への愛と同じ次元にあった何かを突き動かした。それは

『確かな何かを持つ揺るぎない人になりたい』

自分でも気付いていなかった強い願いだった。

もしもそんな人になれれば、自分と聡がどんな立場に置かれても、磐石でいられる。

吹けば飛ぶような自分の軽さを、今度直面した問題で思い知った将は……元倉の懇願をうけいれるより他なかった。