第187話 春の嵐(1)

将がマンションに帰ってきたのは夜の10時すぎだった。

ジムとダンスレッスン、そのあとで、代理店やらアートディレクターやらを交えての食事会への参加を急遽指示される。

和食の店での食事会は事務所が抱える他のタレントが関わったCMなどの慰労会という名目だった。

どこかで見たことのあるタレントの先輩と同席した将は、マネージャーの武藤に言われたとおり愛想よく大人しくしていた。

武藤と一緒にようやく帰りのタクシーに乗ったときはクタクタだった。

「代理店のほうは、アナタをえらく気に入ったようね。よくやったわ」

と武藤は褒めてくれたが、将はとくに、何かしたという覚えはない。

ただ、疲れていたのとお腹がすいていたので、目の前の食事のことしか考えてなかった気がする。

「じゃ、次のジムは火曜日にね。体育の授業のあとに、できるだけたんぱく質をとってね、筋肉になるから。あと、今週は急な連絡が入るかもしれないから、その時はよろしく」

武藤はそういって将をマンションまで送ってくれた。

タクシーが見えなくなって、将は思わず

「あ”~疲れたぁ」

と声に出してしまった。

しかし一人になった将に、生温かい夜風と共に、いよいよ迫った明日が、じっとしていられないほど嬉しくせまってくる。

明日こそ、ついに聡と身も心も1つになれる。

疲れているのにもかかわらず、将はスキップするようなはずんだ足取りでエレベーターに乗った。

――でも、明日、ひょっとして筋肉痛かなぁ……。

日頃、体育の授業も好きな種目だけしか真面目にやらない将なので、若いといえど、ジムトレーニングは結構、体にきたのだ。

「ただいまー」

大悟はリビングにいるらしい。将は

「俺、シャワーあびるから」

声だけで大悟に伝えて、寝室から直接バスルームに入った。

ジムでも浴びたが、着替える前にもう一度浴びてすっきりしたかった。

Tシャツとショートパンツに着替えた将は、タオルで頭を拭きながらキッチンに入り、冷蔵庫からウーロン茶を取り出してぐいっと飲む。

「明日、俺さぁ」

といいながら大悟を振り返る。

「試験場に免許とりにいって、そのあと、アキラとお泊りデートだから……」

そこまで伝えて、大悟の異変に気付いた。

大悟はソファに寝転がって瑞樹の骨の入ったガラス瓶を眺めていた。

「……大悟?」

大悟は瑞樹の骨から視線を移さない。その顔はかなり赤い。

ソファの前の床には、スピリタスの瓶、グラスが置いてある。

「飲んでんのか?」

将は、ウーロン茶片手に大悟に近寄った。

スピリタスは半分になってしまっている。よく見ると、大悟の唇は切れて腫れている。

「愛知で何か、あったのか?」

心配した将は、大悟が寝そべったソファの前にしゃがみこんだ。

だが大悟は、何もいわず、瑞樹の骨の瓶を見ている。

かすかに唇が動いたようだが、声は聞こえない。

「何?」

「今日……アキラセンセイとメシ食った……」

ようやくかすれた声が聞こえた。視線はあいかわらず骨になった瑞樹に注がれたままだ。

「アキラと?」

「……アキラセンセイ、いい女だな……。瑞樹が、かなわないわけだよ」

将にはあいにく、大悟の発音は不明瞭で、よく聞こえない。

「お前何言ってんだ?……酔ってんだな。水もってくるよ」

将は立ち上がって、キッチンへといったん戻る。

冷蔵庫をあけてグラスにミネラルウォーターを注ぐ将の背中に

「将」

とこんどははっきりと声がした。

振り返ると大悟が体を起こしていた。

膝に肘をついて、組んだ両手の中に瑞樹の骨を握り締め……、ボサボサの髪を乗せた頭は将のほうに向けている。

「おう待ってろ、今、水もってくから」

「あのさ」

「ん?」

将は、大悟のところに歩いていって水を手渡そうとした。

大悟は、その端正な形のくっきりとした目を三白眼にするように、将を見上げて言った。

「アキラセンセイ、貸してくれ」

将は意味がわからなくて、

「え?」

と目をパチパチとしばたかせた。その表情は聡とよく似ていると大悟は思った。

どっちかがどっちかに影響された、ということが酔った頭でもよくわかった。

「お前のあとでいい。アキラセンセイとやらせろ」

酔って充血した大悟の目だが、強い眼力が将を突き刺すようだった。

将は思わず、大悟に平手を張った。……その眼力に反発するように。

派手な音がリビングに反響する。

水が入ったグラスを無意識に左手に持ち替えていた。

大悟は髪を乱して、顔は叩かれたままの方を向いたまま、目だけ将のもとに戻した。

将は俯いて思わず謝った。

「ごめん……。酔ってたんだな」

大悟は、あいかわらず目だけで将を見据えたまま、小さく笑った。

「何、謝ってんだよ。将。俺は正気だぜ。……アキラを抱きたい。抱かせろよ」

「お前……」

将は、大悟の顔に目をあげた。

大悟は、酔って充血した目のまま、斜に構えて将を見ていた。

「冗談にもほどがあるぜ」

「だから冗談じゃな……」

大悟がそう言い終わる前に、将は大悟の襟を掴むと、ギラギラとした目で大悟を睨み付けた。

「お前、まさか、アキラに何かしたのか?」

「……した、っていったらどうするんだ」

大悟は襟をつかまれたまま将を見据えると、将の腕をふりほどいた。

将は一瞬ひるんだが、再び大悟につかみかかった。

その勢いに、酔っている大悟はソファに倒れこんだ。

握っていた瑞樹の骨の瓶が大悟の指から離れてフローリングの床に転がった。

「それだけは許せねえ!」

そういいながら将は腕を振り上げた。

しかし、次の大悟の言葉に凍りついた。

将を見上げながら大悟は確かに言ったのだ。

「お前も瑞樹とさんざんヤッたんだろ」

将は腕を振り上げたまま、眦が裂けるほど目を見開いて、大悟を見下ろした。

「さんざん瑞樹をもてあそんだんだろ……」

振り上げた将の腕が震える。

「やめろ……」

「お前が瑞樹で遊んだ分、俺にアキラセンセイを貸してくれたっていいだろ……」

「やめてくれ!」

「俺にアキラを……」

将は大悟の襟を掴んで彼の上体を引き起こすと、その額に自分の額を勢いよくぶち当てた。

頭蓋骨に……その中にある脳と瑞樹への罪悪感もろともに大激震が走る。

「イッ……テエ」

大悟は額を押さえて、ソファに脱力したように仰向けに横たわった。

そんな大悟を見下ろしている将も悪夢のように頭がクラクラしている。

じんじんと額に血液が充満してくるのがわかる。

はっ、と額を押さえたまま、咳き込むように大悟は笑った。

「ウソだよ……。なんにもしてねえよ。アキラセンセイにメシおごってもらっただけだ……」

大悟は将のほうを見ずに言った。そして

「アキラセンセイ、めちゃくちゃ優しいな……」

と遠くを見ているような目で呟いた。

「優しい……センセイ」と反芻する。

その直後に虚空を眺めていた大悟の眉と瞳、そして切れた口元が大きくゆがんだ。

その目じりから、涙が流れる。

そのまま大悟は目を閉じて、視界から将を追い出すと泣きはじめた。

「瑞樹……。みずきぃ……、うう……」

将は無言で立ち上がった。額が熱をもったように痛い……だけど、それ以上に心が痛い。

大悟が言ったことは、真実だから。

将はソファで嗚咽する大悟を残して、リビングを後にしようとする。

……そこで、行く先に転がった、瑞樹の骨の瓶が将の目にとまった。

骨は、哀しげに将を見つめているようだった。何かを訴えているように将の心が揺れた。

将はそれを手に取ると、いったん引き返して、大悟がいるソファの傍らのテーブルの上にそっと置いた。

「将……」

大悟は、目の上を腕で覆ったまま、行こうとする将を呼び止める。

将は立ち止まって振り返った。

もう……大悟を咎める気はない。むしろなじられるのは自分のほうだ、とわかっている。

『瑞樹は、お前のせいで死んだんだ』

そう怒鳴られることをも将は覚悟していた。

覚悟したところでどうしようもない……何もできないけれど。

だが、大悟は目を腕で覆ったまま、

「俺は……、もうダメだ」

と乾いた吐息のように呟いた。