第276話 夏の終り(1)

巌の葬儀の翌日から、喪に服すことなく、将は元通りの忙しい日々に戻った。

巌の死に関する悲しみや罪悪感……一切の感情に浸る暇も、深く思索する暇も余裕もないままに、時は淡々とした急流となって将を飲み込んでいく。

将もまた、流れに乗って、立ち止まらないようにしていた。

いったん立ち止まれば、今度は感情の波に飲み込まれてしまうから。

将が鷹枝家の子息であることを知ったマスコミは、隙あらば将に近寄って何かを訊こうとしていたが、

将は事務所の固いガードに守られて、何も話さずに済んだ。

そんな中、脚本家の元倉亮から、次の作品はSHOでなく、本名の『鷹枝将』で出ないか、という提案があった。

「どうする?うちの社長も、お父様も将の好きなようにすればいいって言ってたけど」

と武藤は将の顔を心配そうにのぞきこんだ。

「……いいよ。本名で出ても」

もう身元を隠す必要はなくなったのだ。

鷹枝家がどうこう、というのはあいかわらずバカらしいと思うが、将はもうその名を汚すような行為はしないだろう、という自信はあった。

もろもろの事情などを踏まえて検討した結果、結局将は9月から、全ての仕事を本名の鷹枝将で活動することになった。

 
 

1週間はあっという間に過ぎた。

この週は『ばくせん2』の最終回の撮りがあったが、天気にも恵まれたおかげで、いたってスムーズに終わった。

大仕事を終えてホッとした将だが、すっかり仲良くなった生徒役のみんなと別れるのは寂しかった。

学校を休みがちだった将にとっては、まるで撮影現場が学校のようだったからだ。

大野や四之宮たちとも、

「また共演しよう」

と握手をして別れた。

派手な芸能人やアイドルとはいっても、だいたいの人は、中身はみんな真面目だし、

いや一般人以上に自分の仕事や将来を見据えて、自分に対して厳しい。

人気商売なだけに、他人に対しても、とても気を遣っている。

よく噂で聞く、わがままな行いをする芸能人など、ほんの一握りなのだということがわかった。

この夏、振り返ってみれば、そういう人々に出会ったことによって、将は大きな成長を遂げた……それは自分で認めざるを得なかった。

 
 

「明日は、完全オフだから、ゆっくり休んであさっての抜釘手術に備えてね。……あさっては3時に予約してるから。病院の電話番号はわかるわね」

「うん。大丈夫」

少しでもゆったりした時間が出来ると、スケジュールの確認をしてしまうのは武藤のクセらしい。

ひさしぶりに早めに仕事が片付いた将は、武藤ら事務所の人間と近くの小料理屋に夕食に来ていた。

ここは比較的安い上に、奥に個室があるので、タレントを連れての食事に便利なのだ。

「入院の荷造りは、昨日やったからいいわね」

昨日は遅くなったのに、武藤が部屋に来てくれて、入院に必要なパジャマ類などをリュックにまとめてくれたのだ。

武藤は本当に、母親顔負けで面倒を見てくれる。

一度口に出してそういったら、

「マネージャーですもん、当たり前よっ」

と言われてしまった。

「入院のあとは、2日オフにしてあるから、ゆっくり傷を治しなさい。

……9月からは北海道ロケがあるけど、通常の2倍の期間をかけての撮りだから、『ばくせん』みたいに忙しくはないと思うわ。

だから学校の出席日数を増やして、暇なときは受験勉強なさい。

……まあ、小論文は得意だろうから、たぶん合格すると思うけど、油断禁物だからね」

学校に行ける、つまり聡の顔をどうどうと見れるチャンスが増えると聞いて、将は嬉しさをこらえた。

ところで将は、なしくずしにW大の一芸入試を目指すことになってしまっている。

それでいいのかな、という気持ちも少しあったが、最小限の勉強で一流大に入るなら、それしかない。

W大に入れればそれで満足、という気持ちと、きちんと受験しなくていいのか、という気持ちは将の中でまざりあって、

それはいつも、自分は将来、本当に俳優でやっていくのか、それでもいいのかという方向へ向かう。

身をたてる、という意味では問題ないと思うが、それが本当に自分がやりたいことなのかどうかはわからないからだ。

 
 

夜9時には食事も終わり、いつものように武藤に送ってもらった。

入院する病院に近いので、ひさしぶりに自宅マンションのほうである。

武藤は

「ゆっくり休みなさい。いいわね」

と念を押して帰っていった。彼女は将がオフになっても、会社でいろいろと仕事があるに違いなかった。

一人きりの3LDKのマンションは、真っ暗でがらん、としていた。

『おかえり』

電気をつけると、リビングのソファに寝転んでいる大悟の姿が、残像のように、ふっと将の前に浮かんで消えた。

大悟は、どうしているだろうか。矯正病院に入院してもう1ヶ月になる。

薬のほうは、だいぶ抜けたのだろうか。

会いに行く暇はないし、電話やメールもできない。気になるけれど将は何もできなかった。

部屋のほうは家政婦が掃除に通っているせいか、1週間家をあけたのに埃1つない。

将は広すぎるリビングに背を向けて寝室に向かうと、スタンドのあかりを点け、その下の引き出しをあけた。

そこには巌の骨を包んだ懐紙が入っていた。1週間前、葬儀から帰った将が入れておいたのだ。

それと一緒に、森村先生の墓がある寺の住所を書いた古いノートも入っている。

骨とノートはスタンドの暖色に染まって、将に巌の約束を訴えかけた。

将は引き出しをあけたまま、ベッドに体を投げ出すと、眼を閉じた。

特に疲れている自覚があるわけではないのだが、ここのところ、ちょっと時間があるとすぐに寝転んで体を休ませるクセがついてしまった。

『I県にあるその寺の、森村先生の墓が見えるところに、骨のかけらを埋めてくれ』

巌の願いを叶えるタイミングを将は、ここ数日、眠りに落ちる前に考えている。

しかし……頭の中に入っているスケジュールによれば、今後いちいちI県までいける暇はなさそうだ。

つまり、明日からのまる1日か、退院後の2日間しかオフはない。

時間の余裕で言えば9月1日からの2日間だが、新たな手術で左足にどれだけダメージを受けるかがわからない。

手術というからには足の皮膚を切り開いて骨から金具を取り出すのだろう……つまりクラッチが踏める状態かどうかがわからないのだ。

それに、巌は『あきらさんと一緒に』と言った。

9月1日は2学期の始業式だから、聡の同行は不可能になる。

……となると。

明日のまる1日しかチャンスはない、ということだ……。

瞼をゆっくりと開けた将は、意を決したように、起き上がった。

地図を取り出すとI県までの道筋を確認する。

高速道路を使えば片道数時間といったところだろうか。見た目でざっと計算すると、夜から出かければ、日帰りが可能に見えた。

将はさっそく聡に電話をかけた。

聡は、お盆から8月30日まで休みだと言っていたはずだ。