第303話 意外な救い(1)

『そのときが来るまでは』

と将の父親の秘書・毛利は言った。

『そのとき』が本当に来るのか、そしてそれはいつなのか、聡は聞きたかったが、聞けるはずもなく、ただ承諾するしかなかった。

 
 

昨晩。鷹枝家の邸宅では、毛利が聡の入院について報告していた。報告を受けているのは将の義母・純代だ。

政務で忙しい康三に代わって、私的なことはこうして純代が報告を受けることも多い。

特に今回の秘密を知るのは、将の両親である康三と純代、そして秘書の毛利だけに留めてあるのだ。

孝太はとっくに眠り、かつ家政婦も帰った22時すぎをわざわざ選んで毛利が来訪したのは秘密が漏れるのを防ぐためなのだ。

「そうですか……」

純代は一瞬目を伏せたが、

「先生の体調のほうは……?」

と訊き返した。

「いいとは言えないようです。いわゆるつわりで食が進まないようで。春の健康診断時に比べて体重が5キロも減ったとのことです。病院では点滴を受けていますので若干快復したようですが」

「5キロ……ですか」

純代は静かに目を見張った。

「つわりだけが原因ではないかもしれませんが」

毛利はあとから付け加えたが

「それにしても……よくないですね」

と純代は美しく整えた眉を寄せた。

「ですが、奥様……」

毛利は茶托から湯飲みを手に取りながら目をあげた。

「こういっては何ですが、古城先生の子供はご無事ではないほうが、鷹枝先生にも将さまの将来にも都合がよいのでは……」

そう言いかけた毛利は、純代が背筋を伸ばしたので、ハッとする。

純代は軽蔑のまなざしで、毛利を見下すと、

「ご報告ご苦労様でした」

とだけ言い放った。そして毛利を早々に追い返すべく自ら席を立った。

毛利はあわてて茶を啜ると、あわてて席を立ち、鷹枝家を辞した。

 
 

「ほとんど食べてないわねえ」

山口は聡の朝食のトレーを見て、首を傾けた。

朝食は喉に通りやすいように、お粥を用意してくれている。だが聡はそれを気持ち程度しか口にできなかった。

「食べないと、お腹の赤ちゃんによくないわよ」

そういわれても、喉に通らないのだ。

お腹の赤ちゃんを育てるべく、たくさん食べないと、という本能はある。

だが、食欲を感じると、すぐさま胃袋を締め上げるような吐き気が込み上げてきて、聡はどうしても食べられない。

吐くときの体力消耗に懲りている聡は、結局少ししか食べられないのだ……。

「何か心配事があるならカウンセラーを手配しようか?」

山口は専門家らしく、次の手を考えてくれたが、聡はうつむくばかりだった。

心配事なんて……分かりきっているから。

そして、それはどんなに優秀なカウンセラーだって解決できないのだ……。

「彼氏に一度、帰って来てもらうわけにはいかないの?」

山口は提案した。

『彼氏』……つまり、相手についての話題が出たときは、元・婚約者である原田博史のことを想定して話すこと。

聡は、毛利に渡された書類を思い出す。

あの日、レストランの個室で現金100万円に引き続いて、毛利はプリントアウトされた書類を聡に手渡した。

それはまるで企画書のような体裁で、今後の聡の行動についてが細かく決められていた。

お腹の子供の父親が将であることを隠すために。

・子供の父親は、中国に赴任中の原田博史とする

・学校には、博史と籍を入れた、と説明する

・それがバレないように、出来るだけ早く学校を辞めて転居すること

……

など妊娠について訊かれた場合についても、ケース別に細かく回答例が書かれていた。

とにかく、聡は友人や両親などすべての人間を騙さなくてはならない、ということがわかった。

毛利の書類によれば、山口がいう『彼氏』は博史を想定することになっている。

だけど、聡はもう博史の顔も思い出すことすら難しかった。

「忙しいから。迷惑かけられないわ」

かろうじて、博史のことを思いやるような演技をする。

「そうだけどさ、二人の赤ちゃんでしょ。向こうのご両親は?」

山口は親身になるあまり、少し呆れた口調になった。

『ヨリを戻した』ことになっている博史のことは、ほぼそのまま現実を説明すればいいが、

その両親――ここだけが事実と異なることを説明しなくてはならない。

「札幌……だから」

聡は博史の両親の住所について嘘を答えながら、少し胃がキリっと痛んだ。

博史の母……薫。クリスマスに余命1年だった薫はまだ生きているだろうか……。

「そうかー。じゃ無理ね。……でも今日は土曜だし、せめて電話で彼氏に甘えなさいよ」

あきらかに1人の患者に接する時間をオーバーしながら、山口はなおも親しげな声で聡を元気付けるべく提案をする。

「うん。そうする」

聡が電話で甘えたいのは……将だ。

将の顔が見たい。声が聞きたい。将に寄りかかれば、たぶんこの苦しさは半分になる。

だけど勉強に頑張る将にそんなことができるはずはない。だけど聡は山口へと微笑をつくった。

 
 

山口が出て行くと、聡は携帯を開いた。

将からのメール1通。ゆうべのうちに届いていたらしい。

井口か誰かから聞いたのか、聡が入院したことについての心配が述べられていた。

だけど、返信することもなく、聡はベッドに横になった。

ずっと空腹のような、だけどムカムカするような胃を抱えて、聡の体には力が入らない。

聡は下腹をなぞりながら、まだ自分がどうしたいのかわからなかった。

『将さまの将来のためですから、何卒よろしくお願いいたします』。

あの秘書は言った。

だけど、それを言うなら。

18歳で父親になることが、将来のためになるはずがない。

聡は、秘書の目を思い出す。

――教師の癖に、教え子と。

そういう世俗的な軽蔑感情を隠すべく、一切が事務的に話されていたのはいい。

だけど……将はどうか知らないが、明らかに歓迎されていない……迷惑な妊娠だということは、聡にだってわかる。

聡ですら、まだ産む決意には至っていないのだから。

――やはり堕ろすべきなのだろうか。

将とこのまま結婚できるとも思えない。

仮に結婚できたとしても。将の人生にいっそう苦難の道を歩かせることになる。

「やっぱり……」

決意しながらも聡は自分の脈とも思えるような小さな脈を腹に探った。

脈は無防備なほど容易に見つかった。動き始めた小さな心臓を、聡は止めてしまわなくてはならないのだろうか……。

「ごめんね」

声もなく呟いた次の瞬間には、自分と結婚するために、必死で勉強に励む将の姿が思い出されて、決意が揺らぐ。

聡は、天井に目を移した。

――自分に会ったばかりに、将は苦しいほうにばかり導かれている。

春から夏にかけて、将と離れていたときは、忘れかけていたこの考え。

今また、再び聡の心を捉えてしまっていた。

――いっそ将と出会わなかったらよかったのに……。

そこまで行き着いた聡の思考が起爆剤となって、次の瞬間、聡の心に将との1年余りの日々が水中花のように一気に蘇った。

膨らみきった思い出が、聡の目から涙を押し出した。

この思い出から将を抜いたら……。

1年前だっただろうか、将と別れることを決心した聡は、爪を引き剥がすような痛みを想像した。

今は……生きてさえいられないと思う。

だけど、近いうちに将の子供を闇に葬り、将とも離れなくてはならないかもしれない……。

その想像は、将と結婚するよりも、痛いほどの現実感となって聡に迫った。

将の思い出と、それを手放す日を想い、涙が止まらなくなってしまった。

そのとき、ノックの音がした。

誰だろうか。医師の診療ではない。だとすると聡がここに入院しているのを知っている学校関係者だろうか。それとも……将。

聡はあわててパジャマの袖で涙を拭い、カーディガンを羽織ると「はい」と返事をした。

静かに開いたドアのところに立っていたのは……。

聡はあまりの思いがけなさに目を見開いた