第351話 遠い春(1)

荒江高校には卒業前の自由登校期間がない。授業は卒業まできっちりと行われる。

理由は2つある。

自由登校期間に、休んだ生徒が外で問題を起こすのを防ぐために、とりあえず学校に登校させておくというのが1つ。

荒江高校の生徒であるうちに問題を起こされては困る、という学校側の事情でもある。

もう1つは、もともと学力が劣った状態で入ってきた生徒たちに高校の学習内容を少しでも理解してもらうため……というより、せめて中学レベルの内容くらいはマスターしてほしいという学力の問題だ。

もっとも、今年は『社会人』デビューする前の練習として、電話の取り方など社会でのマナーや、働くということの意味を再確認する特別授業が、就職希望の生徒に対して行われた。

聡の企画で行っていた社会見学の延長として、学校側が考えたものだ。

進学希望の生徒は、その間、自習形式での学習をすることになっていた。

もちろん、息抜きに社会人教育を受けるのも自由だった。

従って2月に入っても他の高校のように3年の姿がない、ということはない。

 
 

月曜、聡は3週間ぶりに学校に来ることができた。

来週から妊娠8ヶ月めに入る聡の体を気遣った学校側の配慮で、主に3年の自習を担当することになっている。

 

聡は、教室の窓から、校庭でドッジボールに興じる生徒達を眺めていた。

ずっと座って自習している進学組の体力の低下に配慮して、1日1回、体育教師が軽く運動をさせているのだ。

いつもは体育館だけれど、今日は日が照って温かいせいか、校庭で遊ばせているらしい。

聡が退院して明日で一週間。

復帰第一週も今日で終りだが、幸い、お腹のほうは悪化の兆しは何もなく、無事に過ごせている。

聡はいつしか、笑いながらボールを投げ合っている生徒の中に将の姿を探してしまう。

無意識に目が吸い寄せられてしまうかのようだ。

仲の良い井口たちと笑いながらボールを投げあう、ジャージに包まれた伸びやかな肢体。

こうして、ずっと将の姿を見ていたい……。

つくづく……あの夜、わきあがる将への気持ちに負けてしまったのは聡のほうだと思う。

泣いて、鼻水を垂らしながらすがって……なりふり構わない将の姿に、聡は完敗したのだ。

 
 

聡は1日1回1年の授業の教壇に立つ以外は、努めて進学希望者が学習する教室に常駐するようにしていた。

本来は職員室で待機していてもいいのだが、せめて、疑問点が発生した時点で、生徒がすぐ質問ができるようにとの配慮もある。

しかし……直接の原因は将だった。

教室を出ようとすると、聡は将のせつない視線を背中に感じるような気がする。

現に将は

「ちょうど質問しようと思ったのに」

と追ってきたときもあった。だけど。

そんなあからさまな行動を少しでも抑えるため……そう自分に言い訳しつつ、聡自身が将を見ていたかったのだ。

将と離れたくない。

将をずっと見ていたい……。

二人を取り巻く事情が何一つ変わったわけではない。

二人の関係や聡のお腹の子供のことが露見すれば大変なことになる状態が好転したわけではない。

だけど、聡は……この先どうなるかわからないけれど、将を見守りたいと思う。

考えれば、学校という同じ空間でどうどうと呼吸していられるのは卒業までなのだ。

だから、せめて……卒業までは……将を見つめていたい。

聡は、生徒達の中にいる将を見守っていた。

 
 

「鷹枝くん」

見上げると、机の前にみな子が立っていた。

「そろそろ下校時間だよ」

「……ああ」

将は広げていた問題集を片付けながら、聡の姿を確認する。

聡は……というと、他の生徒への指導の最中のようで、顔をあげない。

 

――放課後も、進学組は今まで通り、自習による補習が行われた。

将も、岸田助教授のところに行く日でない限りはギリギリまでそこで勉強していたのだ。

将は……今までもそうだったが、ずっと聡の姿を目の端で追っていた。

芸能活動を始めるようになって学校に来れない日が多かったのと……先週の聡からの別れの宣告。

あのことがあってから、将もまた、聡と同じ空気が吸える学校という空間、そして時間をこれまで以上にいとおしむようになっていた。

もちろん今まで通り、ネットと電話をつかった個人授業は復活させている。

だけど、こうやって生身の聡と同じ空間を共有しているという幸せ。……卒業まで1ヶ月を切った今、それが一層心に沁みいるようだった。

昨日の建国記念日もそうだったが、明日もあさっても会えない……人目ゆえに聡に自由に逢いに行くことがままならない今の将には、休日のほうがもどかしかった。

まだ無名だった頃のように、休日の聡を自由に訪ねられたら。

将は、昔を懐かしみつつも……将来の可能性のために今は勉強に打ち込むしかないのだ。

 

将は後ろ髪を引かれる思いで、教室の引き戸に手をかけた。

ちなみに『彼女』公認のみな子は、あいかわらず今まで通り、将と駅まで一緒に下校していた。

いらぬ誤解で聡との間を波立てたくはないから、本当は一緒に帰るのをやめるべきなのはわかっている。

だけど『私から逃げないで』と必死で訴えたみな子の声音を思い出すと将は躊躇してしまうのだ。

実は、将は復活した聡との電話授業の際に、みな子が「カモフラージュでいい」と言ったことをそのまま聡に伝えている。だが、聡は

『そんなのよけいに、かわいそうなんじゃないかな』

と静かに答えた。

『星野さん……、将のことがたぶん、本当に好きなんだと思う』

怒るでもなく泣くでもなく、電話の向こうから聞こえる淡々とした声は、よけいに真実味があった。

聡は別に、将にみな子との2ショット下校をやめろといっているわけではなかった。

あの病室で見せたような、激しい嫉妬と慟哭は……回線の中にはみじんも伝わってこない。

ただ静かにみな子の『カモフラージュ状態』がかわいそうだというだけだった。

将は「みな子と、単なる友達に戻れないかな」と言いかけて……やめた。

みな子の気持ちを知ってしまった将だ。

……つまり、今の状態は、みな子の純粋な将への好意を……愛情を、将はカモフラージュに利用しているとしか言い様がない。

そんな自分の狡猾さに、将は今日こそみな子に言わなくては……と思いながら、いざみな子の顔を見るとそれを言えないでいる。

 
 

将とみな子が廊下に出たとたん、将は下級生の女子に取り囲まれた。

「あの……、これ!」

一斉に差し出されるリボンがかかった包みを見て、将はようやく、今日がバレンタインデー前の金曜日だということを思い出した。

今年のバレンタインデーは日曜日になっている……だから、学校で渡せるとしたら今日になるらしい。

「どうも、ありがとう」

将はいちおう、芸能人の笑顔で答えた。

下級生はキャーっと一声あげるとダッと走り去ってしまった。

「カワイイね」

傍らのみな子がやや皮肉っぽくいう。

「コレ、どうしよう」

将は、両手と腹で支えるようにして、てんこ盛りになっている数個のチョコレートを見て困惑した。

カバンには入らないし、片手でずっと持っているわけにはいかない。

「カバンに入らないよね。……ちょっと待ってて」

みな子は教室に戻ると、なんと聡に声をかけている。

将は思わずギョッとした。

みな子に話し掛けられて、ちょうど生徒の指導に区切りがついたらしい聡は、将のほうを振り返った。

下級生からのチョコレートを抱えた将は、思わず生唾を飲み込んだ。

思わずチョコを隠してしまいたい衝動に駆られるが、手遅れだった。

「ちょっと待っててね」

聡は将に微笑みかけると、職員室のほうへと歩いていった。

週末で8ヶ月になるお腹はいっそう大きくなって、将は何か手を差し伸べたくなる。

だけど……人前では何も言えない。

「これで、入るかナ?」

聡は、大儀そうにお腹を揺らしながら職員室から紙袋を持ってきた。

たぶん、学校の封筒を注文したときのだろう、印刷所の名前が入っている地味な紙袋だが、大きさは充分だ。

「先生、すいません」

将は謝った。

――体裁としては、大きいお腹なのに、面倒なことを頼んですまない、という意味だが……もちろん別の意味を含んでいる。

「二人とも、風邪には気をつけてね」

聡は将とみな子に向かって笑顔をつくると、職員室へと去ってしまった。