第377話 命日(1)

快速は一路、北へと向かっていた。

春の日差しを反射する家々の屋根は、どことなくさざ波を思わせた。

東北本線の快速。ドアの横に佇んだ大悟は、列車の揺れに身を任せながら、後ろへ飛んでいくさざ波を眺めていた。

去年の今日。瑞樹があとかたもなくなってしまった日。

近頃従順な大悟は、単独での外出を許可されて、小山へ向かう列車にいる。

瑞樹が葬られた墓のありかを、大悟は知らない。

しかし、大悟は……瑞樹の魂があるなら……きっとあの死に場所である駅にまだいる、と感じていた。

幽霊でもいい。瑞樹がいるのなら。その気配にだけでも触れたい。

ついでに瑞樹の祖母の部屋に祀られている、瑞樹の位牌に手をあわせたい。

そんな思いが大悟を小山へと向かわせていた。

 
 

と、大悟の佇むドアが開いて……ホームから車内に乗り込んでくる少女に大悟は「あ」と声をあげた。

――瑞樹!

そのショートカットの少女に、大悟の視線は惹きつけられて……失望する。

少女は大悟を一瞥したが、その視線はすぐに進行方向に戻り……がら空きの席に腰掛け、のんびりと携帯をチェックしだす。

まったく瑞樹と似ていない少女だった。

どうやったら瑞樹と見間違えるのだ、と大悟は自分が可笑しい。そして悲しい。

瑞樹のはずがないのだ。

大悟は再び動き出した列車のドアのガラスから空を見上げた。

――もし生きていれば……。

二人は今頃どうしていただろう。

『滋賀でやり直したい』

瑞樹のあの言葉は嘘じゃないと思う。

たとえ、死の間際に将の名前を呼んだにしても。

大悟は無駄だとわかっていても瑞樹が生きていれば成しえた可能性を、瑞樹が死なずに済んだ方策を探してしまう。いまだに。

なぜ。助けられなかったのか。

最後にはいつもそこへ向かう。自分への責め。

そしてさらに想像する。

あの場へ行ったのが大悟でなく将だったなら。

瑞樹は線路に飛び込まずに、将へと駆け寄ってきたのではなかったか。

……つまり将なら瑞樹をたすけられたのではないか……。

そうして徒に……大悟は自分の心を傷つけていくことに、快感すら感じてしまう。

心からは血が流れ出しているのに、掻き毟るのをやめられない。

薬は……そんな自分の心臓までも掻き毟り続けたくなるような衝動を落ちつけてくれる。

前向きに……といったら語弊があるが、少なくともつらい過去のことを消してくれる程度の効果はあった。

大悟はいまや正気でいるために、一日4回は薬を使っていた。

薬によって殺された瑞樹の一周忌を弔うために瑞樹の死に場所へと向かう自分が……同じ薬の虜になっている事実に……大悟は思わず自嘲する。

だが。

薬をやめられなかった瑞樹のつらさが……つらいことばかりの人生が今になってよりいっそう身にしみてくるようだった。

 
 

ピン、ポーン。

3回目のチャイムは静けさの中に吸い込まれていくようだった。反応はない。

大悟は瑞樹の祖母・春江のアパートのドアの前に立っている。

瑞樹の祖母・春江の電話番号も……将のそれと同様、紛失してしまっていて……だから大悟は記憶をたよりに、バスに乗り、アパートを直接訪れることにしたのだ。

――留守か。

大悟は、試しに扉を強めにノックしてみた。結果は同じだった。

もしかして、瑞樹の命日である今日だ。どこかの寺で法事でも行っているのだろうか。

大悟は、ドアの前に座り込んだ。

泊まりでなければ、そのうち帰ってくるだろう、と思ったのだ。

位牌よりも、遺影に逢いたかった。

大悟は瑞樹の写真を持っていなかったから。

瑞樹の死の直後、将にもらったプリクラとクラス写真は……将のマンションに置いたままだ。

昼下がりの静けさの中……大悟は瑞樹の顔を思い浮かべてみる。

日いちにちと薄れていくその顔は……少しぼやけて見える気がした。

悲しみは依然、心にはっきりと刻印されたままなのに。

俯いた大悟は……まさか昨年の今日、瑞樹がまさにその場所に同じ格好でうつむいていたことをしるよしもない。

 
 

陽が傾いてきた。

――そろそろ薬を打っておいたほうがいい。

大悟がポケットに入れた水溶液を確かめた時、階段をあがってくる足音がして、大悟はあわててその手をひっこめた。

もしかしたら春江かもしれない。

しかし、現れたのは太った年配の婦人で……大悟はため息をついた。

「あ、あら?」

階段を登り切って息を切らした太った婦人は、座り込んだ大悟に目を止めて声をあげた。

大悟は立ち上がって、ぺこりと頭を下げる――無駄な警戒心を起こさせないように。

「葉山さんのところに?」

婦人は話しかけてきた。

はい、と大悟が答えたとたん、婦人は気の毒そうに眉を下げた。

「せっかくだけど、葉山さん、入院してるのよ」

「え」

 
 

新幹線のホームに差し込む日差しは、もう夕方を告げていた。

防護柵がオレンジ色の太陽を反射してきらきらと輝いている。

大悟は……去年瑞樹が座っていたベンチに腰掛けて……彼女が飛び込んだあたりで輝く防護柵をぼんやりと見つめていた。

ホームには、瑞樹の事故ゆえか、防護柵が新しく設置されていて……ホームに飛び込むことなど容易にできないようになっていた。

その前では、大悟と同じ年ほどのカップルが寄り添って新幹線の到着を待っている。

笑いながら語らう彼らは、かつてここが一面血のしぶきで染まったことなど、何も知らないようだった。

大悟は彼らから目をそらして……ホームの上に見える空を見上げた。

――瑞樹。ここにいるんだろ。

遺影でも逢いたかったのに。

逢えなかった大悟は、幽霊でもいい、目の前に出てきてほしいと思う。

あの婦人は、訊いてもないことまで詳しく教えてくれた。

ついこないだ、春江が脳梗塞で倒れたこと。

なんとか助かったけれど、寝たきりを余儀なくされていること。

娘……つまり瑞樹の母はまったく見舞いにも来ないこと。

『たった一人のお孫さんを亡くされて、ずいぶん老けこまれてねえ。それまではとてもお元気な方だったのに』

それを聞いた大悟の心は痛んだ。

 
 

たった今、駅のトイレで打った注射のおかげで、体が軽くなっている。

大悟はベンチに寄りかかると目を閉じた。こうすると、わずかにフワフワする感覚を味わえる。

――お前と同じになっちまったな。

1年前の瑞樹と同様……ドラッグの虜になってしまった自分を、大悟は再び嗤った。

前原のようにトリップなんかしない。

何もかも忘れるような錯覚に酔えたのは最初だけだった。

今は、足りなくなると苦しくなり、それを注射で「補給」すると楽になる。

ただそれだけだ。

それなのになぜ。

大悟は、廃人への道を着実に進みつつある自分を、捨ててしまいたくなる。

――瑞樹。寂しいなら……俺をつれていけよ。俺はいつだって付き合うぜ。

まるで、それに答えるようなタイミングだった。

ホームに、通過列車の案内が響く。

大悟は、思わず立ち上がる。

去年の、光景が目の前に蘇っている。

叫びながらホームを飛び降りる瑞樹。

つまづいたように線路にうずくまるその姿。

速度をゆるめない新幹線。

新幹線が去った後の……何もない線路。

なにもかも、一瞬だった。

一瞬で瑞樹は、いなくなってしまった……。

今、いけば。

大悟は拳を握りしめた。

――今いけば、瑞樹に会える。

腹の高さの防護柵なんてどうということはない。簡単に乗り越えられる。

――きっと、会える。

大悟は柵めがけて走り寄った。