第387話 旅立ち(1)

朝が来なければいいのに。

聡のそんな願いもむなしく、ついに夜が明けてしまった。

薄闇はいつのまにか、青いカーテンを透かした朝に変わっている。

子供のように聡のほうを向いたまま眠りこけている将。

眉根を少し寄せた寝顔はクセになっているのだろう。

ずっと見ていても飽きない……将の顔。

だけど、こんな風に見ていられるのもあと少し。

将といられる時間はあと1時間あまり。

聡は1秒も無駄にするまい、と将を見つめた……。

 

ふいにピー、と音が鳴る。

朝食に仕掛けておいたご飯が炊けたらしい。

その音で、将がもぞもぞと動いた。

大儀そうに目をこすりながら傍らにいるはずの聡を探し……次の瞬間、目が開く。

「ん……。アキラ起きてたの」

――起きちゃった。

……聡は名残惜しさを感じながらうなづいて、将の髪を撫でた。

本当は、ずっと眠っていてほしかった。

眠っていてくれれば。

夜のままでいれば。

別れの瞬間が来ないで済むから……。

奥二重の将のまぶただが、起きぬけのせいか幅の広い二重になっている。

いつもよりさらに甘い顔立ちになった将は、あどけなく微笑むとこちらに手を伸ばしながら体を起こした。

熱い体温に包まれて、唇が押しあてられる。

――最後のキスかもしれない。

そんな考えをどこかに押しやりながら、聡は口づけに集中する。

この唇の柔らかさも。

舌の感触も。

忘れたくない。

しばらくお互い我を忘れたように唇を重ね合い……二人に挟まれたお腹の中の『ひなた』がぐるりと動く。

どうやら彼女も起きたようだ。

将の唇がゆっくりと離れた。

そのまま優しい瞳で聡を見つめると

「おはよう」

と言った。

そして次に、お腹に向ってささやくように同じように囁くと、聡に瞳を戻していたずらっぽく笑った。

それを見た聡は口角をあげながらも、鼻の奥がツーンとするのを抑えられなかった。

 
 

最後の1時間。

それが僅かであることを悲しむよりも、最後のひとときを味わおう。

聡はそんなふうに、悲しみを心から押しやって、進んで平和な朝をつくるようにした。

何もないように朝食をつくり、テーブルに並べる。

将はペアのマグカップにコーヒーを淹れる。

そしてそれを二人で味わう。

「お弁当、簡単だけど作ったから」

昨日、純代のトンカツが入っていた重箱にお弁当を詰めて聡は将に渡した。

「やった。アキラの手作り弁当!」

将は嬉しそうにそれを受け取ると、包みの上からキスをした。

無邪気に喜ぶ姿を見ると……押しやったはずの悲しみが押し寄せてきそうになる。

将がこのお弁当を食べる頃、聡はもう日本を出発しているはずなのだ……。

聡はそれを押し殺すようにして携帯を取りあげ、タクシーを呼ぶ。

もう、あまり時間がない。

「タクシーなんか、別にいいのに」

それを見ていた将は、あいかわらず両手で弁当を持ったままつぶやく。

「よくないよ。ちょうどラッシュアワーだし」

大事な受験にのぞむにあたって、ラッシュなどで体力を消耗するのはもったいないと聡は付け加えた。

将は素直に「わかったよ」と微笑んだ。

聡の気遣いがいちいち嬉しいらしい。

聡のことを信じ切って……まったく疑うようすなどない将。

そんな将の表情を見ていると、今日、将を捨てて出発することなど嘘のようだ。

将の計画通り、試験の終了を待って、大磯で落ち合うほうが現実のようにさえ思えてくる。

今朝の幸せな朝食が、毎日続く道を、今からでも選べるのだと錯覚してしまう。

「ほら、歯磨いて」

将を洗面所へ促しながら、聡は引き出しを開ける。

そこには、将に宛てるために買った便箋が入っている。

将に宛てる別れの手紙。

それを、聡はまだ書きあげていない。

将がここを出て、博史が迎えに来る30分あまりの間にそれを書かなくてはならない。

かろうじてその現実を思い出すと、聡は目を閉じた。

 
 

「じゃあ、行ってくるよ」

靴を履いた将はあらためて聡と向かい合った。

軽く口元に笑みを浮かべながらも目に力が入った……真剣な表情だ。

今日の試験が、二人の未来の正念場。

将の覚悟がその強い視線からひしひしと伝わった。

「がんばってね」

その励ましは本心だけれど。将には頑張って東大に合格してほしいけれど……。

もう――これで最後。

これっきり、将と会うことはない。

なんて……あっけないのだろう。

高波のような悲しみに、崩れてしまいそうな心と体を持ちこたえながら、聡はせいいっぱいの笑顔を作った。

 

将は玄関のドアを自分であけると、聡の顔を見たままあとじさるようにして階段へと向かった。

聡は開いた玄関ドアを体で支えながら、一歩ずつ遠ざかっていく将の顔に向かって手を振っていた。

将は階段の一段目までのけぞるようにして名残惜しそうに聡の顔を見つめていた。

そんな将がついに見えなくなったとたん、聡は怒涛のような悲しみにとっぷりと飲み込まれた。

両の瞳からは涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。

階段を駆け下りていく将の足音。

――いけない。まだ、だめ。

いったんしゃがみこんだ聡は再び立ち上がった。

タクシーに乗り込むときに将はきっと振り返る。

まだ最後じゃない。

まだ泣いちゃいけない。

笑って見送らなくちゃ。

流れた涙を袖でぬぐおうとしたそのとき。

おもいがけなく、あわただしく階段を駆け上ってくる音が響いた。

そして……いたずらっぽい将の顔がひょっこり階段からあらわれた。

将は……なぜか、また戻ってきたのだ。