第118話 思いがけない縁

イタリア料理店から帰るなり、聡はほろ酔いなのにもかかわらず、洗濯機をまわしていた。

急に出張を言いつけられたので、土日にやるつもりだった家事を明日の午前中までに片付けないといけない。

といっても、週末は将をいったん家に帰すつもりなので、とりあえず洗濯だけでいい。

家の中にロープをわたして、洗濯物を干した中で、二人は手をつないで眠りについた。

足のギプスのせいで抱き合えない分、毎晩、手をつないで眠る……だから結局、新しい布団はほとんど使っていない。

「あさっての夜には戻るんだろ」

将は、暗がりの中、何度目かになる同じ質問をした。

「うん。だから、そんなに心配しないで」

聡は体を将のほうに向けた。将はとっくに顔をこっちにむけている。

「オレ、ここで待ってようかな……」

「ゴハン、どうするの」

「ピザでもとればいいじゃん」

聡は首を振った。

「将の部屋のほうが、エレベーターだし、コンビや弁当屋さんも近いし。お手伝いさんも毎日来てくれてるんでしょ」

「そうだけど……」

実は、さっき聡がバスルームの中にいるときに、瑞樹に連絡をしようとした。

だが、ずっと出かけているのか『電波が届かないところにいるか……』のメッセージばかりだ。

「1泊だけだから、そんな顔しないで」

聡の暗がりに慣れた目には、不安そうな将の顔がわかる。聡は手を伸ばして将の頬を撫でた。

聡の手は少しひんやりとしている。

「……キスして。アキラ」

聡は、何もいわずに、暗がりの中で身を起こすと、唇を重ねてきた。

手はひんやりとしていたのに、唇は温かくて柔らかい……。

こんなふうに口づけを交わす夜。本当は一晩でも失いたくない。

将は、上にのしかかる聡の体に両腕を伸ばすと、その柔らかい体をしっかりと抱き寄せた。

ひとしきり口づけを交わすと二人は並んで、手をつないで眠りを待った。

聡より眠りの到着が遅かった将は、暗い天井を仰いだ。

ふと、瑞樹とこのまま連絡がとれなかったら、大磯のヒージーの家にでも行くかな、と思いついた。

 
 

 
翌朝、学校に行くのよりは少し遅い時間に出発した聡を見送って、将はもう一度瑞樹の携帯に電話をしてみた。

やはり同じメッセージだ。電源を切っているのだろうか。

あっさりと諦めた将は、曽祖父である巌こと、ヒージーの家に電話をする。

すると、電話にはハルさんが出た。隣に住むハルさんは、巌の家のことも手伝ってくれているのだ。

「あ、ハルさん? ヒージーは?」

「まあ、将ぼっちゃん、久しぶり……」

ハルさんは、年寄りのせいか、前置きの挨拶が長い。

将は、元気だ、学校にも行っている、ちゃんと食べている、などといちいち質問に答えなくてはならない。

そしてようやく本題にたどりついてみると、巌は昨日から2泊3日で人間ドックに入っているというのだ。

将は脱力して、しばらく、ハルさんが一方的に話すヒージーの近況を聞いたのちに電話を切った。

人間ドックは定期的なもので、特に体調が悪いというわけではないらしい。

 
 

 
――どうしよう。

将はベッドに寝転がった。

このままここで聡の帰りを待つべきだろうか。

しかし……聡の言うとおり、松葉杖をついての暮らしは、着替え1つ出すのでも不自由だ。

と、将は瑞樹の携帯がどうしてつながらないのかが少し気になりだした。

何か問題に巻き込まれているのか。

いや、どうでもいい。あまり彼女のことに首を突っ込まないほうがいい。

将は仰向けに寝転がったまま目を閉じた。

本来は寝坊を楽しむ土曜日なのに、聡に付き合って早く起きてしまった。だから少し眠ろうと思う。

が……将はなかなか眠れなかった。心の奥に何かがひっかかっていて小さな警告音が鳴り続けているようだ。

警告音はどんどん大きくなっていく。

ついに将は上半身を起こした。

もう一度瑞樹の携帯に電話をする。結果はさっきと同じだ。

将は、そのまま携帯でタクシーを呼んだ。

 
 

 
1週間ぶりに自宅マンションの前に立った将は、最後にもう一度携帯を鳴らすが、反応はさっきと同じだ。

将は、松葉杖でエレベーターに乗ると自室に向かった。

誰もいなかったら予備の鍵を使おうと思ったが、とりあえずインターホンを鳴らす。

1回目、部屋の中に響いているピンポーンという音がかすかにする。が、反応はない。

将は念のためにもう一度鳴らしてみた。

すると、次は中からドタドタとドアに駆け寄ってくる音が聞こえた。

「ハーイ」

ドアの内側から響いた声に将はとても驚いた。男性の声だったからだ。

次の瞬間ドアがガチャと開いた。

「将?」

顔を出したのは、上半身裸の島大悟だった……。

 
 

 
「なんだよ、お前、どうしたんだよ」

と将が問い掛ければ、大悟のほうも

「お前こそ、その足はどうしたんだよー」

とコーヒーを淹れながら、笑って訊き返す。バスルームからは水音……瑞樹がシャワーを使う音が聞こえている。

「や、オレのほうはスキーで折ったんだけどさァ」

とソファに腰掛けた将は笑うと、コーヒーを運んできた大悟の耳に口を寄せて

「何、おまえら、ここで、そういう関係になったわけ」

と声をひそめた。

大悟は端正な顔をやや赤く染めると

「……まあ。実は昨日がはじめて、だったんだけど」

と下を向いた。正月に会ったときより少し髪が伸びて耳にかかっている。

訊くと、とうとう暴力に耐えられずに愛知の親類宅を飛び出してしまった大悟は、身を寄せる場所もなかったので、将の部屋を訪れたのだという。

それが先週の日曜日だった。

「ちょうどお前と入れ違いだったんだってな。来てみたらお前じゃなくて、女の子が住んでたからびっくりしたよ。そうだお前、どこに入りびたってんだよ」

「あ、うん。いろいろ……。で、今日まで瑞樹と一緒にいたわけ?」

聡の家にいることは思わず隠してしまった。

「うん。俺、携帯ないし、他に行くとこもないだろ。途方に暮れていたら、瑞樹ちゃんがここにいてもいいって言ってくれて」

「でもさ、だったら何で、瑞樹のやつ、オレに連絡くれなかったんだ?」

「あ、それ。充電器を無くしたって言ってたぜ」

将は、あまりにあっけなく簡単な答えにホッとし、かつガクッと力が抜けてソファーにもたれた。

「買えばいいのに……そんなの。人騒がせだな」

「いやー、瑞樹ちゃん、金がぜんぜんないんだって。ほら、毎日ここにオバサン通ってきてるじゃん。あのオバサンが作ってくれるご飯だけが命綱って感じで暮らしてたらしいぜ。俺も人に貸すほど持ち合わせないし……」

オバサンとは、巌が派遣してくれている家政婦のことだろう。将が骨折している間だけ、毎日通うようになっているのだ。

「ふーん」

たしかに、瑞樹には中絶費用だけしか渡してないから、そういうこともあるのかもしれない。

家に帰れずに、中絶したばかりで援交もできないとしたら、金はないだろう。

将が、コーヒーを口にしたとき、瑞樹がバスルームから出てきた。

バスローブを着て、ようやく見られるほどに伸びたのか、ウィッグをやめた髪はショートカットになっている。

将を見つけると、その大きな目を見開いた。次に、そのまま大悟に視線を移した。大悟も瑞樹を見つめて、うなづいた。

「それでさ、将。俺、このまま東京にいようと思うんだ。で、悪いんだけど、仕事見つかって部屋借りられるようになるまで、ここに置いてくれないか?」

大悟は端正な顔を少しゆがめるように『頼む!』と懇願した。

「や、それは別に、ぜんぜんいいんだけど……」

「マジ?ホントに?」

「いや、ぜんぜん……ずっと居ろよ。遠慮せずに」

将は少し困惑したのだが、親友の窮地を救わないわけにはいかない。安心させるべく笑顔をつくった。

「よかったー。ホント、恩に着る、将」

大悟は、将に向かって手をあわせた。

それにしても大悟と瑞樹が……将はなんだか複雑な思いだった。

瑞樹が『将のことが本当に好きだったから』と涙してから、まだ1ヶ月も経っていない。

そんなに簡単に、他の男に心が移るものなのだろうか。しかも相手は、将の大事な親友である大悟だ。

大悟は、かいがいしく牛乳を沸かしてカフェオレをつくり、瑞樹に渡していた。

瑞樹もクールな顔に笑顔を浮かべて、大悟と仲むつまじくしているようだ。

冷めたコーヒーの味が、なぜかいっそう苦々しく将の舌の上に広がった。