第186話 親友(3)

「はい、タンメンおまちぃ!」

三角巾で髪を覆ったおばちゃんが、タンメン2つを二人の前に置くまで、大悟はなんとなくぼんやりしていたらしい。

聡に割り箸を渡されて、ハッとした。

「わーい。美味しそう。いただきまーす」

聡がにこにことレンゲで湯気の立つ熱いスープをすくい、注意深く唇をつける。

口紅なんぞとっくに剥げてそうなのに、それは餃子の脂のせいなのか、バラ色でつやつやしている。

「本当だ!すっごく美味しい。野菜の味がスープに入ってる!」

と大悟に笑いかけた。

そのまま、麺をすする。

女性なのに結構豪快に麺をすする聡を、大悟は好ましいように思い、自らも麺をすすった。

「ここ、よく将と来るの?」

一段落したのか、聡は麺を箸ですくいながら、大悟に訊いてきた。

「1~2回かな。俺、ずっと家にいたから」

「そっか……」

聡は、スープをすくった。タンメンでよかった、と思った。

麺が延びるのを防ぐため、という名目で、話より食べるほうに集中することを許される。

大悟がずっと家にいた、というのは瑞樹のことで沈んでいたからだろう。

聡は麺をすくいながら

「大悟くん、将とは中学からの付き合いだっていってたよね」

とさりげなく話を変える。

「……ハイ。中学が一緒だったわけじゃないんですけど」

「うん。ワル仲間だったって聞いてる」

聡は可笑しそうに笑っている。

「ね、どんなことしてたの?」

黒目がちの瞳をくるっと動かして訊いてくる。

「えー……」

「やだわ。いまさら警察なんかにいわないわよ。時効だってば……将がどんなコだったのか聞きたいだけ」

聡はビールのジョッキを手にした。

ビールとタンメンの熱さのせいか、頬が上気してよりピンク色に染まっている。

かわいい顔に似合わない低音の声がなければ、聡が年上だということを忘れてしまいそうだ。

「そうですね。いっつもつるんでましたね。アイツは髪をまっ黄っ黄に染めてたし……」

「それ聞いた。ロンブーの亮なみだったって」

「そうそう。そうなんです。今みたいにバカでかくないし、結構カワイかったですけどね」

「見たかったー」

聡は目は細めつつ、口を大きくあけてアハハと笑った。

「……で、ケンカしたり、本盗んで古本屋に売ったり、自転車とかバイクを盗んだり。粉砂糖をマリファナだって嘘ついて小学生に売ったりとかもしてましたねえ」

「うわ!本当に不良、てかそれ立派に犯罪じゃん!」

聡は眉をひそめるようなそぶりを見せながら、目は笑っている。

もう、二人が更生していると思っているから。

それは単なる過去の思い出話としてとらえているようだ。

大悟は、なんで自分がいかにも楽しげにこんな話をしているんだろうと、思った。

同時に、聡が、将が人を殺したことを知らないのだ、ということがわかった。

なぜか、無性にそれを聡に聞かせたくなって……それを必死で自分でとどめるように話題を変える。

「センセイは、なんで将と付き合うようになったんですか?」

「え?」

聡はぽっと頬を染めた気がする。

「博史さんと婚約してたんでしょ」

聡は、大悟の顔を見た。そうだ、大悟は……将と一緒に萩に来てるから、博史のことを知ってるんだ……と気付く。

「わかんない。気がついたら……ねぇ」

聡は年下のコに自分の心の動きを説明するのが照れくさくて、誤魔化した。

「中学のときも……将は、もてたの?」

と話題をそれとなくそらす。

「……そうですね。いつも、誰かいたと思う」

大悟は正直に答えてしまって、ハッとして、フォローする。

「でもコロコロ代わってましたよ。アイツ、ほらイケメンだから、女のほうから寄って来るんですよ」

「ありがと」

聡は大人の顔で微笑んだ。

「気を遣ってくれて。大悟くん、すごくいいコだよね」

「いや、そんな」

包み込むような柔らかい視線。落ち着いた温かい口調。

そんなものをめったに向けられない大悟はどぎまぎして下をむいた。

将が、聡に惹かれるのがよくわかった。

家族の愛に飢えているゆえ、心に寂しさを持つ、不良タイプは聡のような女に弱いのだ。

抱きしめたい、というより、抱きしめられたい。

成熟した、というより満たされている内面からあふれるものが、こちらの寂しさにひたひたと染み入ってくるような感じ。

『大人』というのとはまた違う。

もともと生まれつき深い『情』が、育ちや精神が安定しているゆえに、対峙する相手に献身的に向けられる。

相手を信用していることがわかるゆえ、相手に嘘をつかせない。そんな奇跡的な女がたまにいるのだ……。

――瑞樹……、お前、負けるわけだぜ……。

ふと、瑞樹のことを思い出す。

瑞樹が将を好きでたまらず、セフレに甘んじながらも傍にいたことを大悟は知っている。

そんなふびんな瑞樹を大悟は愛したのだから。

大悟は、聡が瑞樹の担任だったことに思い当たった。

「あの」

大悟は顔をあげた。タンメンはすでに食べ終わっている。

「……瑞樹って、どんなコでした?」

「え……」

聡の笑顔が消える。

わずかに、つらそうな顔になり、それを隠すように下をむいてスープの中に沈んだキャベツやもやしをしきりに掬っている。

井口によると、瑞樹は将をとられた仕返しを聡に企てたりもしたらしい。

そのことを聡は思い出したのだろうか。

ふと、大悟は、瑞樹が将のことをどれくらい好きだったのか、瑞樹が聡に仕返しとして何をしたのか、それを知りたくなる。

聡はようやく、体勢を立て直すと、

「あたしが赴任してきてから、葉山さん、休みがちだったから……。あんまり印象に残ってないの」

と、伏目のまま答えた。

「なんか、センセイにひどいことをしたらしいですね。どんなことをしたんですか?」

「それは……」

聡は箸を置いて、目をしばたいた。

「俺、瑞樹のことは何でも知りたいんです」

大悟は、少し自分が嗜虐的になっていると思う。

そうだ。この女は、虐めたくなるような部分も併せ持っているのだ……将が聡に惹かれる理由がより明確になったと大悟は感じた。

しかし、聡は大悟をまっすぐに見ると、

「もう過ぎたことよ」

と言った。

それは、瑞樹が将を好きだったことに関連する。その事実が大悟を傷つけるのではないか、とも聡は考えたのだ。

だが大悟は食い下がった。

「言いにくいかもしれないけど、俺、瑞樹の思い出が少ないから……知りたいんです。瑞樹が将を好きだったことは本人から聞いて知っています。だから……教えてください」

聡は、大悟の瞳をじっと見つめた。

大悟も、聡の瞳をそのまま見つめ返した。

しばらく、その空間には、テレビの声だけが流れた。

やがて聡はため息をついて

「私は意識がなかったからあまり覚えていないんだけど……」

と前置きをして、話し始めた。

「街で葉山さんが私に話し掛けてきて。そのとたん、なんか男のコたちに薬をかがされて……。気がついたら、どっか知らない小屋に連れてこられてて……」

大悟は思わず眉をひそめ……聞いたことを後悔した。複数の男に聡をレイプさせる。

まさか、そんなことまでしていたとは。

「すいません。嫌なこと思い出させちゃって」

と頭を下げる。聡は、あわてて、ううん、と首と手のひらを振った。

「でもね、将が助けに来てくれたから、結局、何もされなかったのよ」

未遂と聞いて、大悟はほっとした。だが、瑞樹がそれを企てたことは変わりない。

瑞樹は、そんな卑劣なことを企てるほど、将を好きだったのだ。

大悟の心は、締め付けられるように苦しくなった。

なのに、瑞樹の心の軌跡をたどるのを止められない。

「あの……、瑞樹は、いつごろまで将を好きだったと思いますか」

もっと苦しくなるかもしれないのに。大悟は自分で自分をバカだと自覚しながら、やめられない。

聡は、大悟の苦しさを見透かしたように

「さあ……。私にはわからないわ。……ホラ、葉山さん、学校来なかったし」

とだけ答えた。

本当は……、少なくとも妊娠騒ぎがあった修学旅行のときまで、瑞樹が将のことを愛していたのを知っている。

でも大悟を傷つけると思って黙っておいた。代わりに

「……でも、葉山さんは、大悟くんにとても頼っていたって、将に聞いているわ。だから、もう将のことは忘れていたんじゃないかしら」

大悟をなぐさめるためとは別に、自分にも言い聞かせている部分があったのを聡は否めない。

だけど、大悟はそのまま黙り込んでしまった。

 
 

「センセイ、ごちそうさまでした」

口数少なくなった大悟だが、店を出たとき、聡にきちんと礼を言うのは忘れなかった。

聡は、微笑みを浮かべて

「いいのよ」

と答えた。さらに

「もし何かあったら、グチでもいいから、いつでも相談してね。先生がわりとして」

と付け加えた。それほどに大悟の様子は、つらそうだったのだ。

「ありがとうございます」

といって大悟は俯いた。そのとき、大悟の携帯が鳴った。

そのまま、そこで別れようと思っていた聡は、状況的に夜の路上に引きとめられる。

「ハイ……島ですけど。は、瑞樹の……おばあちゃん?」

聡は瑞樹の名前に思わず振り返る。

「ハイ……。ハイ。ありがとうございます。ハイ……わかりました」

あとはたいした内容は聴き取れないままに、電話は切られた。

しかし、瑞樹がらみの内容で、また大悟を落ち込ませるのもなんなので、聡は電話には突っ込まず、『じゃ、これで』と声に出そうとしたとき。

「あの、センセイ……。言いにくいんですけど」

と大悟がおずおずと聡に声を掛けた。

「なあに?」

聡は明るく向き直った。

「あの……、お金を貸してくれませんか?」

大悟の財布の中には、小さなコインしかなくなっていたのだ。

聡は一瞬目をパチパチとさせたが、にっこりと笑った。

「5千円でいい?」

「あ、十分です」

急に大悟の手は、ふんわりとした温かいものに包まれた。

聡が、財布から出した5千円札を

「あげる」

と言って、両手で大悟の手に握らせたのだ。

「いえ、金ができたら……返します」

大悟はふたたびドギマギして、目を見開いて聡の顔を見た。

聡は、ううん、と首を振った。

「いいの。これから就職するんでしょ。将に聞いてる。頑張ってるって……。これは少ないけど前祝だと思って」

大悟は、呆けたように「じゃ」と駅前のネオンの中に去っていく聡の笑顔と後姿を見つめていた。