第220話 全部忘れられるもの(1)

深夜の埠頭を大悟は走っていた。追っ手から逃れるように。

東京の夜は、こんな夜更けでもほんのり薄明るく、小山のように積まれたコンテナが黒い影を空に映し出している。

その中を懸命に走る大悟のあとを2人の男が追う。

コンテナと倉庫が連なる埠頭は静まり返って、追っ手の靴音だけが響く。

大悟のそれは……子供の頃から生きるための犯罪に長けた大悟の足音は、走っていてもあまり響かない。

音を立てずに出来るだけ早く走る術を知らず知らずのうちに体得していたのだ。

大悟は、倉庫と倉庫の間の狭い通路に身を滑り込ませる。

ふだん人が通らないそこには、何だか知らないが膝の上までの背丈の雑草が通せんぼをしている。

こんな環境の悪いところでも、雑草は生えるのだ。

しぶというというか、けなげというか。

一瞬、芽生えた感情ごとそれを踏んづけて、大悟はそこを素早く通り抜ける。

通り抜けたところに錆びた扉が開けっ放しになっている倉庫があった。

大悟は持ち前の嗅覚でそこが安全であることを瞬時で判断すると、中に入る。

そして素早く携帯であたりを照らすと、ドラム缶の陰に身を潜め、携帯を畳んであたりを暗闇に戻した。

静けさと塗りつぶしたような闇の中、鈍く響く心臓に『静まれ、静まれ』と囁きかける。

ここは、思ったより湾に近いらしい。

落ち着きつつある大悟に、べったりとした油が混じった、腐ったような潮の匂いが忍び寄ってきた。

「いたか!?」

大悟のいる倉庫の裏のほうから、男のざらついた声が聞こえて、大悟は身構えた。

「……ダメだ、見失った」

若干、若い声。へばっているのか、言葉の前後につらそうな息が混じる。

「……クソっ!」

という声と共に、ガン!という大きな音がした。それは大悟のいる倉庫にも小さくこだました。

たぶん、追っ手のうちの1人がそこらにあったドラム缶か何かを蹴ったのだろう。

しかし、それっきり、男達の声はしなくなった。

諦めて、帰ってくれたらしい。

だが、大悟は用心して、小1時間ほどはそこに身を潜めていた。

ようやく、倉庫から出た大悟は、目の前が湾であることに気づいた。

真っ暗だった倉庫の中に比べると、外は昼間のように明るい。

重油を流したような黒いよどんだ海の上に、東京にしては珍しくきれいな星空が広がっていた。

大悟は、それを眺めながら、ほっとため息をつくと、煙草を取り出した。

本当は煙草より、水がほしい。走り回ったおかげで喉がカラカラだ。

だが、大悟の火をつける仕草に一切のムダはない。煙を吐き出すと、目を細める。

そして……ウェストポーチに入れた、札を取り出して数える。

6万あった。

――まずまずか。

そしてウェストポーチの中に残っている白い薬を取り出す。

白いパラフィンペーパーに包まれている『売れ残り』はあと1つだった。

それをさばいてしまおうとしているときに、アイツらに見つかったのだ……。

 
 

この埠頭地区にある倉庫の1つを使って、ダンスパーティがあった。

広い倉庫を使ってのダンスパーティは、とある大学サークルが主催したものだ。

倉庫といいつつ、音響設備はいいものを使っていたし、DJもプロを呼んでいる。セミプロのダンサー達もパーティの盛り上がりに華を添えていた。

今から2時間ほど前、大悟はそこにもぐりこんで、瑞樹が残していったあの薬を売っていたのだ。

脱法ドラッグでもない……おそらく本物の覚醒剤。

GW前のある日、大悟は思いついて、瑞樹が残したセロファンに入った薬を出した。

それは将に見つからないように、厳重に隠してあった。

セロファンに入った微量の粉末を、注意深くさらに半分にして、若干の粉砂糖を混ぜて嵩増しをする。

それをパラフィンペーパーで丁寧に包みなおして、試しに3つだけ持ってパーティに潜入した。

大悟が1つ1万と値をつけたそれは、あっという間に売れた。

そこに15分もいる必要がなかったほどだ。

それに味をしめて、GWが始まった頃から、パーティにもぐりこんでは、おとついは5つ、今日は6つと売り始めたのだ。

さっき大悟を追っていた男達は、別の……おそらく暴力団が関与しているプロの売人だろう。

まるでナンパするような何気なさで、化粧の濃い、頭の弱そうな、でもお金を持ってそうな女の子に『商談』を持ちかけていた大悟は、後ろから肩をつかまれた。

「何してる」

一見、どこにでもいる普通の男だった。

ジャケットを粋に着こなしているが……そこにいる一般の客と微妙に年齢がずれているのと、その目がいやに鋭いのを大悟は瞬時に察知した。

察知したのと同時に脱兎のごとく逃げ出して……今、ことなきを得ている。

もし捕まっていたら。

――指を詰めるぐらいじゃ済まないかな。

最悪、この埠頭に浮かんでいるかもしれない。

大悟は、目の前の黒い波に、両手の指をかざした。

今も10本揃っている指は……将のおかげだともいえる。

大悟は煙草を海に投げ捨てた。

ちなみに将にメールで伝えた、履歴書に西嶋さんにハンをもらってバイトに行っている、というのはまったくのウソだ。

大悟はバカらしくなったのだ。

大悟が、アルバイトで1日必死で働いても1万にもならない。

それが、こんな薬が10分ほどで3万にも化ける。

瑞樹はまったくいいものを残してくれたものだ、と思う反面、高価なこんなものを買ってまで楽しむやつっていったいどういう心境なんだろうか、とも思う。

思えば、瑞樹はこの薬に激しく依存していた。

あんなふうに隠し持っていたのも、大悟のように他人に売るためではなく、自分に使うためだろう。

おそらく、瑞樹は……この薬と一緒に入っていた、下着や玩具を使って、過酷な稼業をしていたのだ。

そういう仕事の内容について、大悟も聞いたことがある。

極めてプライベートなパーティなどに呼ばれて、『奴隷』や『家畜』として弄ばれて、引き換えに高額な謝礼を得る……おそらく瑞樹はそれに近いことをしていたのは間違いない。

そんな仕事をさせられるのは、たいてい借金漬けになった女たちだ。

しかし、瑞樹はそんな仕事をするほどにまで、あの薬に魅せられていたのだ。

瑞樹はいつから、またどんなきっかけで、この薬に頼るようになったんだろうか。

大悟は売れ残った1つを手に乗せて見つめた。

ふいに……自分もやってみようか、という気が起きる。

やってみれば……何もかも忘れられるんだろうか。

パラフィン紙に覆われながらも、その白い悪魔は、大悟をしきりに誘い始めた。

と、そのとき、湾から油臭い風が吹いてきて、掌の上の包みを吹き飛ばした。

「あっ!」

大悟はまるで万札が飛ばされたように、包みが飛ばされたほうに駆け寄る。

幸い、包みは、大悟より2歩後ろのひび割れた埠頭のアスファルトの上に落ちていた。

――ふん。こんなもの。

大悟は、その包みを、何事もなかったように、もう一度ウェストポーチにしまうと、湾に背を向けて歩き出した。

大悟の背中の空は、わずかに白み始めている。