第251話 死闘(3)

なあ、といって大悟は、自分の顔を将の目の前に突き出した。

「瑞樹は、どこに行ったんだ」

質の悪い冗談をいっているわけでもなく、責めているわけでもなく、ただ、瑞樹の行方を問い質しているように見えた。

本気で瑞樹のことを忘れているらしい大悟を、ただ将は恐れた。

「なあ。将、知らないか」

大悟は将の肩に手をおいた。将は耐えられなくなって顔を床のほうに向けて逸らした。

「なあ、将」

限界まで床のほうに目をそらそうとする将の肩を大悟は揺らした。

「なあ。将。なあ」

問いと同様に繰り返し、肩を揺らす。

最初は……問いかけにあわせていたのに、次第に激しく揺さぶられ始めた。

「みずきはどこにいったんだ、なあ、将」

しまいには、上半身がガクガクとシェイクされる。

「なあ、なあ、なあ」

見開いた大悟の瞳は黒い。白眼には赤い毛細血管が見える……血走った眼。あきらかに狂気が宿っていた。

「やめろ……ッ!」

ついに将は、肩に置かれた大悟の手を払いのけた。

大悟の手はあっさりと将の肩からはずれた。

将は身を起こそうとした。

腹に力を入れようとすると、左の肋骨が激しく痛む。思わず将は苦痛の声をあげた。

上半身を起こしながら、将は大悟に向かって辛い事実を再認識させなくてはならない。

「大悟……、瑞樹は……いない。……死んだんだ」

心の痛さと肋骨の痛さで、息がうまくつけない。言葉は切れ切れになった。

やっと言い終わるかどうかというところで、

「お前のせいだろーー!」

と大悟は吼えた。そして首を締めんばかりに将の襟首を掴んだ。

やはり正気だったのか。将は吐いた息をそのまま飲む。

「瑞樹は、最後の最後までお前の名前を呼んでいた。お前のなっ!」

大悟は、10センチと離れていない将の顔に唾を飛ばして叫んだ。

将は抵抗も出来ず、襟首から半身を吊り上げられたまま、ただ大悟の瞳を見つめるしかない。

その瞳には、蓄積された悲しみが爆発したかのような、狂った怒りが宿っていた。

「お前のせいで、瑞樹はッ!」

大悟は、将の襟を床に叩きつけるように解放すると、横たわった将に馬乗りになり、その顔を拳で殴った。

「お前の、お前の、お前のせいで瑞樹はっ!」

右、左、右、左、と手加減なく繰り返される拳が将の頬に、眼窩にめりこむ。

頭蓋骨に繰り返し衝撃が走る。

衝撃のたびに、なぜか将の目の前に火花のように、瑞樹の記憶の断片が散った。

抵抗することを考えたり、痛みを感じたりすることすら忘れるような激しい拳の嵐の中で、将は失神しそうになるのを耐えていた。

なぜ、耐えているのか……その理由を考えることもできない。

将の思考はすでにあまりの衝撃に擦り切れかかっていた。

かろうじて意識だけがつながっているような中で……それでも、いっそ失神した方がマシなのを持ちこたえているのは、大悟への、瑞樹への……償いのためなのかもしれなかった。

 
 

ひとしきり将を殴り終わると、大悟はハアハアいいながら、立ち上がった。

将はぼろきれのようにそこにぐったりと横たわるしかできない。

頭の中では、まだ殴られ続けているように、何かがぐわんぐわんと響いている。

――まだ雨が降っているんだな。

静かになってようやく、将の耳は、さっきよりずいぶん静かな雨音をとらえた。

顔のあちこちを生暖かいものが流れている。

唇や鼻、まぶたが切れているのだろう。

口の中はもはや血だらけで、鉄臭いのも甚だしい。

だが、それを吐き出す気力もなく、将は無意識に舌で歯を一本一本確認していた。

しかし、将は開かない目を薄くあけたまま、大悟のゆくえを見ていた。

大悟はふらつきながら、自室へ向かっているようだった。

財布か何かをとりにいっているのだろうか。

「だ、だいご……」

将は最後の力をふりしぼって、大悟のあとを追って、床を這った。

キリキリと顔の切れた場所が痛い。

殴られた頬や瞼には、小さな心臓が埋め込まれたようにズキンズキンと脈打っている。

しかし、思ったより、手や足は自由だということがわかった。

将は、リビング入り口のドアにつかまりながら、ズキズキと痛む肋骨の痛みに耐えて立ち上がった。

ちょうど、大悟が自室から出てきた。

大悟は立ち上がった将に驚いたようすを見せたが、ひるんだのは一瞬だけで、足を上げると将を蹴り倒した。

ようやく立っていた将だから、簡単に倒れてしまった。

大悟は倒れた将をまたぐように玄関に向かうと、将を玄関スペースから締め出すべく、いきおいよくリビングのドアを閉めた。

しかし、閉まるドアの先には……まだ将の右足首が残っていた。

次の瞬間、将は絶叫した。勢いよく閉まったドアに右足首を挟まれたのだ。

ドアか、右足首かわからないが、ミシッと音をたてた……激痛が右足首を震源に将の全身をつらぬく。

木のドアは、将の足を挟むと、バウンドするように再び開いた。

「うっ…あああ……」

倒れたまま右足首をかばって丸まった将の耳に

カチャカチャ

という音が聞こえた。

大悟がチェーンをはずしているのだ。カッシャン、というロックを外す音も。

引き続き、ガチャガチャとドアノブを回す音。

だが、それに鉄のドアが開く音は続かず、ガチャガチャとドアノブを回す音だけが繰り返された。

その音はだんだん大悟の苛立ちをあらわすがごとく、乱暴になってきた。

チェーンをはずしてロックを解除したのに、ドアが開かないのだ。

「なんだこれ」

大悟はついに口に出すと、ドアを蹴った。

重い鉄製のドアが、マンション中に響けとばかりに大きな音で反響する。

実は……将は、大悟が意識を失っている間、彼が出て行けないように、ドアの上部と下部に市販のロックを取り付けていたのだ。

かなり前に、家政婦さんが

『今、ピッキングが流行っているようです。将さんもお部屋にいらっしゃるとき、用心のために付けてくださいよ』

と置いていったのが役に立った。

冷静だったらすぐに気がつくだろうが、案の定大悟は気付かないらしく、ただノブをガチャガチャと回したり、蹴ったりを繰り返している。

将はその背後にいざり寄った。

「まだ……俺は死んでないぞ」

膝をついて立ち上がると、将は大悟の下半身にしがみついた。

「将!」

ふいをつかれた大悟は、恐ろしい叫び声をあげた。

「行くなら、俺を殺してから行け」

地の底から響くような将の低い呟き。大悟は狂気の目に、恐怖を浮かべて将を見下ろした。

大悟の足を死んでも離すものか、と将は心に誓う。

「離せ、離せよ、将」

大悟は両足にしがみついた将の頭を剥がそうとやっきになる。

しかし、そうすればするほど、将は首をすくめるようにして、がっしりと大悟にしがみつく。

どんなに殴られようとも離れない。

「離してくれええ、瑞樹のところに行かせてくれええ」

しまいには、大悟は喚き……泣き叫んだ。

 

「瑞樹、みずきーっ、うう、あああ」

大悟は体を痙攣させるようにして泣きわめき続け……再び、すとんと落ちるように意識を失った。

もう完全に夜になっていた。

喚き声に満たされていた将の部屋に、静寂が戻ってきた。

右足をひきずりながら将は、大悟をリビングにひきずってくると、窓辺から外を見た。

夜になって、雨も止んだらしい。

痛くて細くしかあけられない瞼の中の目は、はるかに高層ビルの赤い光りを捉えていた。

将は、再び右足をひきずりながら、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。

力が入れられない右足の踝は青黒くなっていた。そこを触った将は、激痛に思わず声をあげた。

声をあげると、響くのか左の肋骨も痛む。

痛さに耐えながら慎重に、青黒い部分の感触を調べる。どうやら折れてしまったわけではなさそうだ。

将は、傷だらけの口の中にかまわず、冷たい水を一気に飲むと、テーブルの上にある錠剤を手に取った。

大悟が持っていたほうの強めの睡眠薬と、弱い入眠剤。

大悟の睡眠薬はあと1回分残っているが、まだ夜8時だ。これを使うには早い。

将は、殴られたせいか、真綿で包まれたような脳を無理やり稼動させて考える。

台風がいってしまったからには、明日9時に、武藤が迎えに来るだろう。

来なくていいといっても、来るのが彼女の務めだ。

頬杖をつこうとして、頬の痛みに、将は思わず手をはずす。

かわりに背もたれによりかかる。体全体が拘束されたように痛いが、まだ、ましだった。

……この顔は、明日派手に腫れあがるだろう。

それを見た武藤は、将をきっと病院に連れて行く、と言い出すに違いない。

だとしたら。

睡眠薬は自分が家をあける間に使ったほうがいい。

昨日、6-7時間ほど効いた薬……。

将はぼうっとしたような頭を出来る限りフル稼働させた。

やはり、明け方まで使わないほうがいい、という結論に達する。

だが、次に大悟が目覚めたとき。

満身創痍の将に彼を止められるかどうかわからない。

殴られた顔は、いまも血がどくどくと集まってくるように熱い。

将はずきずきと脈打つ顔を保冷剤で冷やしながら、倒れたように床で眠る大悟の顔を見る。

涙の跡が白く頬に残っている。

『瑞樹、みずきーっ』

という悲痛なわめき声が脳裏に蘇る。

それで、将はあるものを思い出す。おそらく瑞樹が持っていた……あの道具。

将は右足をひきずりながら、大悟の部屋へ向かった。

 
 

「肋骨にはヒビが入っているようですね」

医師はレントゲンを見ながらいった。

医師の前には顔のあちこちにテープを貼った将が武藤と共に座っていた。右手首の裂傷は3針縫った。

足のほうは、骨は大丈夫だったらしいが、筋を痛めてしまったらしい。

1~2週間ほど固定すべきだと言われて、普通の靴を履けないほど嵩高く包帯で覆われた。

ヒビの入った肋骨は、固定といってもコルセットをつけるぐらいしかないらしい。

「暑い時期だから、つけなくてもいい」

とも言われたがいちおう今はつけている。

「顔は……」

武藤がおずおずと訊いた。

「個人差はありますが、腫れがひくのに最低でも1週間かかるでしょうね」

医師は淡々と答える。

痣になった瞼の色がひくのには1ヶ月かかる場合もあると付け加えられて武藤はうなだれた。

「そうですか……」

「もしも。誰かに暴力を振るわれたのだったら、いちおう被害届は出すべきだと思いますよ」

医師は瞳だけを動かして、もう一度将を見あげた。

 
 

処方された鎮痛剤に湿布薬などが山のように入った薬の白いビニール袋を将にわたしながら、武藤は

「将、いったい、どうしたの。なんでこんなことに」

とようやく見上げた。見上げてその酷い顔に眉をしかめる。

「本当にすいませんでした」

将はただ頭を下げるしかない。

「誰かとケンカしたの?それとも袋……叩きにでもされたの?」

心配そうな武藤だが、答えられない将は、目を一瞬伏せると(伏せるだけでも、眼球がごろつくのだが)

「俺、ちょっと知り合いの看護師に挨拶してきます」

と一礼した。そのまま踵を返すと、足をひきずって歩き出した。

「あ、将!待ちなさい」

「自分で帰れますから……本当に迷惑かけてすいません」

武藤は、追おうとしたが、まだキャンセルの連絡が山ほど残っている。

立てれるものは代役を立て、スケジュールを調整して……武藤の仕事は急に面倒なことで山積みになってしまったのだ。

「本当に大丈夫ー?」

武藤は将の背中に叫んだ。

「大丈夫です!本当にすいませんでした」

足をひきずりながら、エレベーターに乗りこんだ将は、もう一度深く頭を下げた。肋骨が『まったく迷惑をかけて』と言うかのように、もう一度痛んだ。

それでもエレベーターの扉が閉まる直前、腫れ上がった顔の口元にわずかに微笑が見えた気が、武藤にはしていた。

山のようなキャンセルは気が重いけれど、それだけが救いのようでもあった。

 
 

エレベーターを降りると、そこは内科病棟の待合室だ。

懐かしい山口の白衣姿はすぐに見つけることができた。小柄な彼女は、待合室で若い女性と立ち話をしていた。

後姿の女性はカーディガンにチェックのスカート・サンダルといういでたちで、患者のようにはあまり見えなかった。

将のあまりにひどい姿に、内科病棟の患者がいっせいに注目する。

それに気がついた山口は、将を見て一瞬けげんな顔をした。

将の顔があまりにひどい腫れ上がり方なのと、それゆえ誰だかわからないらしい。

「山口さん」

右手をあげようとした将は、思った位置のかなり下で止めた。

折れた肋骨が、また存在を主張するように痛んだのだ。

「……鷹枝くん?」

将の声にようやく気付いた山口が将の名前を口にした。

同時に、背を向けていた女性がこちらを向いた。……聡だった。