第64話 すれちがい(1)

汚れたタイル床から洗剤と臭気のまじりあった独特の饐えた臭いが漂う駅のトイレ。

薬局でナプキンを買い、やっと手当てをした聡はようやくほっとした。

激しい水流に飲まれていく、赤黒い色に染まったトイレットペーパー。

早く始まったそれは、博史の精液で汚れた聡の中の粘膜を一刻も早く排出しようとしているのだろうか。

『汚れた』という単語を思い浮かべた自分に聡ははっとする。

9月まで……将を好きになるまでは、愛の行為によるそれは、決して『けがれ』などではなかったはずだ。むしろ、何日か聡の中で生きているであろう博史の分身をいとおしくさえ思ったこともあった。それなのに。

緊張がとけたとたんに、そんな自分自身を責めるように、下腹部が鈍く痛み始める。

……聡は、生理痛が重いほうである。

今回はことさら、しくしくと痛む。子宮に詰まっている自己嫌悪が暴れるかのように。脂汗さえ浮かんでくる。

しかし、いつまでもこうやって便座に座っているわけにもいかない。

聡は自分自身をうながすように、立ち上がると駅のトイレから出ると、救いを求めるかのように、重い足取りをひきずりながらメールをチェックする。

待っていたメールの着信はない。

いったんホームに上ると、メールを打とうとして、やはり電話をかけることにする。

将の声が聞きたかった。

将と電波をつなげたかった。

将と同じ時間を共有したかった。

コールが鳴り続ける。一心に待ち続けるホーム上の聡に冷たい風が吹き付ける。

10回以上は鳴らして1回切り、もう1回かける。

乗車方向の電車がホームに入ってくるが、かまわず聡は待ち続ける。電車を1本見送って、またコールを鳴らしたが将は出ない。

突風が聡のコートに殴りつけるように吹いた。携帯を持つ手がかじかんでくる。

ストッキングにパンプスだけの……博史は上品なワンピースにあわせて、靴もプレゼントしてくれたのだ……聡の足先もホームからの冷気で感覚をなくしつつあった。

聡は電話を諦めて、メールにした。

かじかんだ手はミスタッチを繰り返してしまう。両手で包むようにしてようやくキーを打つ。しかし。

『昨日はごめんなさい』

の先が浮かばない。何を打ったらいいのか。何を伝えるべきなのか。

クリスマスイブだった昨夜、ホテルのラウンジで、別れ際を思い出す。あのとき、聡は将にそれを伝えようとした。

結局、チェックインを終えた博史が戻ってきたため、伝えられずじまいだったが……。

将への、もう一人で秘しておくのには耐えられないほどに、せつない思い。

ただ、それをメールで『やっぱり将のことが好き』などと書いてしまうのは軽すぎる気がした。実際打ってみたけれど、携帯メールのいやに丸っこい字が気になった。

悩む聡の前に、乗車方向の電車がまたやってきた。聡はいったん携帯を閉じると、電車に乗った。

結局、車内でも帰り道でも、適切な言葉は思い浮かばなかった。

『昨日はごめんなさい。連絡を待ってます』と送信できたのは、もう25日も終わるギリギリの時間だった。

 

  
ぼんやりと開けた将の目に縞模様が見えた気がした。

頭が痛い……いや、体のあちこちが痛い。

意識がようやく覚醒し、畳の上に身を起こした将の目に映ったのは鉄格子だ。鉄格子の前に、警官の後姿が見える。将は留置場にいるらしい。

将は脱力して、再び畳の上に転がった。その物音で、警官が振り向く。

「目が覚めたか」

意外に優しい声で声をかけられた。将は寝転がったままで

「ハイ」と答えながら、夕べの記憶をたどった。

昨日、いつものあの海辺の防波堤の上で釣りをしながら泣いて。

そのあと都内に帰って井口に連絡して。

ひさしぶりの将からの連絡に、井口は喜び『遊ぼうぜ』と声をかけてきたのだった。

井口の誘いに乗った将は、最初は踊りに行き、最初から強いカクテルを立て続けにあおった。

そこで知り合った女の子たちとカラオケに行き、さらに浴びるようにチューハイとビールをがんがんやった。そのあたりから記憶がごちゃごちゃになっている。

起き上がりながら警官に

「俺、どうしたんすか」

と間の抜けた質問をしながらも、ランダムになった記憶の順番をソートした。

「覚えてないの?」

もう一人、檻の前にやってきた『おじちゃん』という感じの、警官だか刑事だか、が訊き返した。

制服ではなく背広を着ている。

カラオケのあとゲームをしにいったのは覚えている。なんか女の子に無理やりキスされた気がする。

――あと、そうだ、その女がらみでヤンキー軍団と大喧嘩になったんだ。

まもなく将は檻から出されて、調書を取られた。

「君、路上で大喧嘩して、止めようとしたまわりの人まで叩いたあげく、気持ち悪い、とか言い出して吐いちゃってさー、大変だったんだよ」

『おじちゃん』は可笑しそうに将の昨夜の行いを教えてくれた。

「それで、反省を促すために、とりあえず一泊してもらったわけ。……ふーん。君、まだ高2なんだー、見えないねぇ。……でもいけないね。飲酒は」

『おじちゃん』は調書を読み返しながら、穏やかに説教した。

「まあ、前科はないみたいだから、家の人が迎えに来るまで、とりあえずね、留置所で反省してね」

――前科という言葉に将は一瞬ずきん、と心臓が動いた。

とっさに顔をあげた将と、『おじちゃん』の目が合う。笑ったような目だが瞳は厳しく将を見つめていた。

「あの」

反射のように声が出た。『おじちゃん』はそのままの顔で「何?」と訊き返した。

「他のやつらは……?」

「ああ。みんな逃げたよ。君だけここに連れてこられたの。ドジだね」

『おじちゃん』はようやく瞳の奥から笑った。

ふたたび留置場に戻った将は、携帯を取り出そうとして、所持品を取り上げられていることに気付いた。

――そりゃそうだ。留置場の中から携帯できるはずないもんな。

最初から飲む気で、車で行かなかったのが幸いだった、しかも偽造免許証を車の中に置いてきて本当によかった、と将は胸をなでおろした。

もし車で来ていて、偽造免許証のことがばれたら、留置場1泊ぐらいで事は済まないだろう。

それにしても、携帯をはじめ、いじくるものが何もない留置場はとてつもなく暇だった。時間を早く消費するために眠りたくても、二日酔いが邪魔をして眠れない。

いちおう、調書をとりながら水をがぶ飲みさせてもらい、頭痛薬ももらったので二日酔いは回復傾向にはあるものの……。

ケンカでいつのまにか殴られたのか体もあちこち痛い。

横になると、「起きなさい」と注意されるので、将は畳の上で体育座りになり、二日酔いのだるさと格闘した。

昨夜の乱行の道筋が明らかになってしまうと、将の意識は自然に聡のほうへ飛んでいった。

博史に寄り添って頬を染めていた昨日、25日の朝の聡が、将が見た最後の聡である。

しかし、あれは本当に聡だったのだろうか。一度は絶望したものの、ここへ来て将は信じがたく思った。

それよりも、おとつい、クリスマスイブにラウンジで聡が言いかけたこと。これがやはり気になる。

昨夜将は、ナイフを手にしたヤンキーにひるまなかった。聡との愛に絶望した将は、もうどうなってもいいと思っていたのだ。殺されるなら、殺されてもかまわないと。

将はヤンキーに馬乗りになってその顔をぶちのめしながら、ボロ布のようになって死んだ自分の姿を想像していた。

冷たい死体になった自分に、聡はすがって泣いてくれるだろうか。

目に映る留置場の色がグレーだからだろうか。想像はモノクロームで、死体になった自分にすがる聡にだけ、光があたっていた。

とてつもなく美しい、でもどうしようもなく馬鹿馬鹿しい幻想に、将は自虐の笑みを浮かべると自らの膝に顔を埋めた。

殴られて腫れた部分に膝があたり、将は「痛て」と小さくつぶやいた。

そのとき、ようやく「出ろ」と警官からうながされた。午後になって、迎えに来たのは義母の純代だった。純代は何度も警察官や『おじちゃん』に頭を下げていた。

ようやく携帯その他を返してもらい、将は釈放された。

警察署の玄関前の階段を降りてしまうと、将は純代に向き直り

「手間かけたな」

とその場を立ち去ろうとした。

「待ちなさい」

純代は将を呼び止めた。しかし、将はその声に振り向きもせずに、足を早めた。

「大磯の大おじいさまに、ちゃんとお礼を言うのよ、将」

もう何を言っても仕方がないと思っているのか、それだけを将の背中に向かって叫ぶ。

 

  
井口のやつに今日の顛末を電話してやろうと、将は信号が点滅し始めた横断歩道を走りながら携帯を手に取る。

携帯を開いて表示を見て、立ち止まる。聡から夕べ着信があったことを今初めて知る。……しかも2度も。

着信時間を見る。22時25分。ちょうど、踊りに行って大音量の中、バカ騒ぎしていた頃だ。

横断歩道の真ん中に立ち止まる将に、車のクラクションが浴びせられる。