おかしい。
聡は再びスキーを下ろすと立ち止まった。
もうとっくに20mは歩いているはずだ。なのに、避難小屋に到着しない。
あいかわらず聡を取り巻いている視界2mもない真っ白な霧と、吹きつける強風が方向感覚を狂わせたのか。
それとも、まだ20m歩いていないんだろうか。
そういえば、足元はすでに降り積もった新雪が10センチもの深さになっていて、スキー靴がズボズボとはまりこみ歩きにくいことこの上ない。だから、あまり進んでいないのか。
いずれにせよ、この20mで消耗していた聡は、降ろしたスキー板につかまると、もう一度目を凝らした。
あたりは、壁に塗り込められたような真っ白で、何も見えない。真っ白だからよくわからないが、こうやって立ち止まると雪が勢いを強めているのがわかる。
「さむい」
聡は目の下まであげたネックウォーマーの下で呟くと、がくっと膝を落とした。腿の半分までが、新雪に埋もれた。
雪の上に立てたスキー板が、傾いて聡の肩に寄りかかろうとするのもそのままに、聡はうなだれた。
地上では美しい六角形の華を咲かせていた雪だが、こうやって横なぐりに吹き付けてくる粉雪は、まさに白い悪魔だ。白い悪魔は、このままだと確実に聡の命を奪ってしまうだろう。
歯が、リフトの上でのようにガチガチと音を立て始めた。
――まさか、このまま死ぬんだろうか。
厳しい寒さは、そんな嘘のような予感を連れて来た。
それを振り払うと、聡は慎重にジャケットから携帯を取り出す。
――たしか、山頂部分は携帯が通じたはず。
絶望の中でそれを思い出したのだ。一縷の願いをこめて取り出した携帯は……なんということだろう、あまりの寒さに液晶が役に立たなくなっていた。
聡は絶望のあまり、一瞬、頭の中も真っ白になった。
しかし、生命力なのだろうか、再び生きる方策が頭に湧き出してくる。もしも……携帯が使えても。この視界の悪さだったら、誰も助けにこれないだろう。
風と雪がおさまるまでどこかでそれを避けなくてはならない。それにはやはり、避難小屋を見つけなければ。
――避難小屋に誰かいれば!
聡は、ネックウォーマーをずらすと、再び力を振り絞って
「誰かーーー!」と叫んだ。
大声を出すたびに冷気が肺にまわって、咳き込むほど苦しくなる。だが、負けるわけにはいかない。聡は叫び続けた。肺が破れそうになる。
しかし、聡を取り巻く白い壁が風の轟音で答えるだけで、聡の望む人の声はなかった。
「誰も、誰もこないよ……」
聡は凍りついたネックウォーマーをずりあげて、下を向くと一人ごちた。
「もうダメかな……将」
こんなときに、口からポロッと将の名前が出た。
――もう危ないってときにどうかしてる。
だけど、将の名前を口に出しただけで、心なしか温かいような気がする。
「将」
聡はもう一度その名前を舌に載せてみた。小さな声は風の音にかき消されてしまう。だからもう一度声に出す。
「将」
聡を取り巻く真っ白な壁は将の幻影を一瞬映し出した。
そのときだけ聡は寒さを忘れた。……しかし真っ白な現実に聡は引き戻されてしまう。
聡は凍えながらも、ふっと笑った。なんだかマッチ売りの少女みたいだ。将の名前を呼ぶことが、マッチに火を灯すかわり。温かい料理とか暖炉とかは将のぬくもりの思い出。将にくるまるように抱かれて寝た記憶。
その物語をたどるとしたら、聡は明日、冷たくなって発見されなくてはならない。
聡はなぜか、雪に埋もれた聡の亡骸を、将が発見するシーンを想像した。凍死死体は透き通るように美しいという。
晴れ上がった蒼い空の下、煌めく雪の華に埋もれている、透き通るように青白い聡の亡骸にすがって、将が泣きじゃくる。
それは、どこかで見た古い映画や、小説を編集しなおした、甘いイマジネーションだった。
聡は、頭を抱えて陳腐なそれを振り払った。そもそも、将を探しに来て、こんな目に逢っているのだ。だったら死ぬ前に、将に一目でも逢いたい。
座り込んだ下半身を雪に埋もれさせていた聡は、スキー板につかまるようにして立ち上がった。
「しょーーーーーうーーーー!」
体に残ったすべての力を振り絞って、聡は叫んだ。その声は、風に乗って将のもとに届いてくれるだろうか。
しばらく聡はスキー板をたよりに立ち尽くして、あたりを窺った。聡を取り巻く白は心なしかグレーがかってきている。暗くなってきているのだ。
「やっぱりいないか」
今度こそ絶望した聡は再びその場にしゃがみこんだ。がっちりとしたスキー靴の上に座り込むようにうずくまる。
「………キ……ぁ」
風の音が、人の声に聞こえてきた。これは死神の声だろうか。天使の声だろうか。
――『パトラッシュ、なんだか僕、とっても眠いんだ』だっけ。
聡は名作アニメのラストシーンを思い出しながら、自分も何故か急速に眠くなっていくのを感じていた。
真っ白に吹きすさぶ風にほとんど飛ばされたような意識だったが、かろうじて残った思考力で
――そういえば、昨日ロクに眠ってないんだよな。
と考える。眠れなかった理由を思い出す。この状況で思い出す瑞樹の妊娠騒ぎは、すでに遠い昔のことのようだ。
「バチが……あたったのかな」
うずくまった聡は自分の膝に問い掛けるように一人呟く。
井口は瑞樹のことを将のセフレだといったが、たぶん瑞樹は将のことを本気で好きだったのだろう。そんな彼女から将を奪い取った罰。
帰れないほどの複雑な家庭を持つ瑞樹から将を奪ってしまったのは、どれほど彼女を困らせ、傷つけただろうか。
そして3年越しの優しい婚約者を捨てようとした罰。彼の重病人の母親の生きる希望を、、もしかすると奪おうとしていたのではないか。
――バチがあたっても仕方ないな。
ますます聡は眠くなってきた。
――こんなに眠いなら、もうダメだ。さよなら……将。本気で好きだった……。
人を傷つけても求めずにはいられないくらい愛してた……。
「……お…おー…い…」
聡はハッと目をあけた。きれぎれだが、今度は確実に人の……男性の声だ。
――係員が助けに来た?
聡は最後の力を振り絞って立ち上がった。スキー靴での立ったり座ったりは普通より力がいるのだ。
「こっちでええええす!、こっちぃぃい!おおーーーい!」
どこから聞こえるのかわからない助けの声に向かって、聡は四方八方に向かって大声をあげる。
「おおーーーいい!」
男性の怒鳴り声が今度は確かにはっきりと聞こえた。しかもかなり近くだ。見えないとわかっていても聡はあたりを見回す。
「ここでーーーーす!」
声が聞こえた、と思う後方を振り返って、喉が張り裂けんばかりに大声を出す。ストックも高く掲げて振り回す。
これが幻だったら、もう喉は使い物にならない。死を待つのみになるだろう。
「ここー……!」
急に至近距離に現れた人影に、聡の瞳は釘付けになった。帽子に、ゴーグルを着けた顔のほとんどは見えないけれど……それはまさしく将だった。
将はいきなり、聡の腕が届くところに現れたのだ。もしかして、また幻影か。それにしてはリアルだ。
「アキラか!?」
将はゴーグルをずらした。聡を確認するなり腕を伸ばすと、聡を抱きしめた。
「将!」
聡は身を投げ出すと、将に全体重を預けた。幻影ではない、現実の将が聡の名前を呼んだ。
「アキラ!」
二人は吹きすさぶ雪の中、ついに固く抱き合った。聡は待ち焦がれていた、世界で一番温かいものに包まれた。
二人を包むのは、あいかわらず塗り込められたような真っ白な世界。まるで、この世には二人しか存在しないようだった。