とはいっても、昨日、初めてスキーを履いたばかりの将である。なのに、行くわけがない、と聡は断言できない。むしろ、山頂を目指しているというのは、確信に変わっていく。
なにせ、昨日、聡は山頂の情報を彼に与えてしまっている。将の性格からいって『てっぺん』とか『頂上』はいかにも好きそうだ。
時計は14時30分になるところだった。
聡は、男に会釈をすると、リフトにむかってストックを蹴りだした。
荒江高校がスキー研修をしている隣のスキー場で、山頂部に最も近い、第7リフトは一人乗りだ。ここまで来ると、リフトのすぐ近くから胸がすくような急斜面が始まる。
もし初級者がその下をのぞきこめば、まっ逆さまに落ちていくような視覚に背筋に戦慄が走るはずだ。
こうなると雪の斜面ではなく『崖』である。急な斜面を『壁』と呼ぶが、その表現はまさに正しい。
カフェからダウンヒル第3リフトに乗った聡は、隣のスキー場との間の非圧雪コースを斜面に対して横切るように第7リフトまでやってきた。
非圧雪コースは、晴天続きのせいか新雪もなく、ボーダーの通り道で出来た深い溝と転び跡で、ちょっとしたモーグルコースのようなコブ斜面になっていた。
コブ斜面に長い板をとられて、さすがの聡でもバランスを崩しそうになる。
こんな急斜面で転倒するとダメージが大きい。聡は大きなコブを避けながら慎重にスキーを操った。
金色がかった午後の光を反射して、斜面は裸眼だと、目に焼きついて暫く離れないような強烈な『白』に覆われていた。
ゴーグルもさして役に立たないような強烈な反射……ついさっきまでは。
ようやく第7リフトに着いた聡の上には、灰色の雲が展開し、太陽は隠されてしまっていた。
そこから粉雪が風にあおられるようにちらちら落ちはじめた。スキー場正面に見える羊蹄山もとうに姿を隠してしまっていた。
「あの!」
聡はぐるぐると回るリフトの椅子に積もった雪をほうきで払いのけている係員に、思い切って尋ねた。
「黄色い修学旅行生用のウェアを着た、背が高い男の子を見ませんでした?」
初老の係員は客などロクに見ていないのだろう、首を振った。
「お客さん、山頂にいくの?」
逆に眉根を寄せて問い掛けてきた。
「ハイ」
「危ないから、ガスってきたらすぐに引き返してください。風も出てきたからリフトもじき止まるかもしれないし」
聡は頷いて、リフトに乗った。
係員の注意どおりだった。
地上ではたいしたことのなかった風だが、急斜面を登る一人用のリフトは、ときおり信じられないほどの強風に煽られ、聡はリフトのバーにしがみついた。
標高1000mを超える雪山は、それなりの装備をしている聡なのにとてつもなく寒く、聡は歯をガチガチとさせた。おそらくマイナス15度、いや、それ以下の寒さだろう。
おまけに、あきらかに天気が悪くなってきたせいか、聡の前にも後ろにも誰も客はおらず、心細いことこの上ない。
降り始めた雪は、止むことなく、座る聡の膝の上にサラサラと落ちる。気温が低いせいか真っ白な粉のようなそれは、重さも感触もなく、聡の膝をなぞって落ちていく。
——早く、早く!
聡は祈るように早く上に到着することを願いつつ、寒さに震えた。
しかし、リフトは安全のために速度を落としているせいか、なかなか上にたどりつかない。あまつさえ、風のせいなのか、ときどき止まったりして、聡は目を閉じた。
まさか、こんな状況で、将が山頂にいるわけがないだろう。
いないほうがいい。聡だけならどうということはないが、初心者の将はこの急斜面をどうやって降りるのだ。
そうこうしているうちにようやく上の駅に到着した。
山頂への道はまだ見えているが、雪が降りしきっているせいか、眺めはあまりよくない。しかも白い面積が多いにも関わらず、どことなく暗い感じがする。まだ15時すぎなのに。
雪景色慣れしている聡でも心細くなってきた。
上でも係員に
「ガスってきたら引き返せ」と注意を受けた。
その係員に下で聞いたのと同じことを訊いてみる。すると
「黄色いウェアのスキーヤーは何人か見ましたけど」
という返事が返ってきた。
「一人でしたか?」
「さあ……。だけど一人で来る人も結構いますから」
的を得ない答えだ。
「黄色い人は、ここに引き返してきてないですよね」
聡は係員にさらに問い掛ける。
「ええ。でも普通引き返してきませんから」
山頂までスキーを担いでいって、そこから滑り降りる人が大多数だからだ。実際、右側の斜面には、雪の中に山頂から滑り降りてきたらしいボーダーら何人かの姿が見えた。
それに勇気付けられた聡は、
——いちかばちか、将がいなければそれでいい、とにかく確認してこよう。
とスキーをはずすと担いで、山頂への道を登り始めた。
「風が出てきましたから、注意してくださいよぉ!」
と係員の大声を背後に受けて、聡は雪の階段がつくられた山頂への道を踏み出した。
山頂への道は、途中までは雪を固めて、階段がつくってある。コンディションがよければ15~20分ぐらいで山頂に着くはずだが、なにせ長いスキーを担いで、さらに踵と足首を固定されたスキー靴での歩行は重労働だ。
それに歩く聡に、ときおり突風が吹きつけてくる。
歩くのを止めるほどではないと思ったのだが、立ち止まらないと堪えられないような突風が、
1回吹いたのを皮切りに、繰り返し聡を襲うようになった。風がふくたびに今降り積もったばかりの粉雪が舞い上がり視界を遮る。おまけに舞い上がった雪は、踏みしめる雪の階段をわかりにくくしてしまう。
それが何回か繰り返されるうちに、聡は視界がひどく悪くなっているのに気付いた。
いつのまにか、あたりは米のとぎ汁のような霧に覆われている。
——ヤバイ。ガスってきたんだろうか。
聡はゴーグルのオレンジ色がうっとおしくなり、それを一度ネックウォーマーもろとも顎の下に下げた。
人影は誰もいないようだ。将はいないのだろうか。
「たかえだ、くーーーーん」
大声で呼んだ聡に、今までで最大級の突風が、雪交じりで吹き付けてきた。足に力をいれても飛ばされそうだ。必死で持ちこたえる。冷たさで頬が切れそうに痛い。冷気が目に染みて、聡は目をつぶって風下を向いた。
返事はない。
聡は、斜面の下のほうに目を凝らした。さっきまでいたボーダーが誰もいない。というか、急激に狭まってきた視界に、ゲレンデはほとんど入っていないのだ。
引き返すべきだろうか。
逡巡しつつも、とりあえず前に進んでしまった聡のまわりの世界は、あっという間に米のとぎ汁から画用紙のように不透明な真っ白になった。
たよりにしていた足元も、階段が終わってしまったのか雪に覆われたのか、段差がいつのまにかなくなっている。
視界2mもない。そんな真っ白に聡は閉じ込められた。まさにホワイトアウト。
ゴーグルをはずして目を凝らしても何も見えない。道を示していたロープすらも見えないのだ。
「そんな……」
聡は担いでいた板を降ろして、雪に軽く突き立てると、それにしがみつくようにして、必死で四方に目を凝らした。
もはや自分がどっちから来たかすらもわからない。
何分ぐらい歩いたのだろうか。
風はいよいよ強くなってきた。地吹雪のような雪が吹き付けてくる。吐く息があっというまに睫や眉毛に凍りついて、瞬きをするとパリパリとした違和感がある。
一度はずしたゴーグルは曇ったまま凍ってしまった。グローブの指でいくら擦っても、すりガラス状態は取れない。
聡の脳裏に『遭難』の文字が急激に浮かび上がってくる。不吉な二文字を頭から振り払うと、もう一度
「誰かーーー!いませんかー!」
と叫んだ。
怖い。寒い。心細い。誰でもいいから答えてほしい。さっきの係員に届かないだろうか。聡は涙を堪えて何度か叫んだ。ちなみに泣いたら、涙も凍ってしまうからである。
しかし、叫びは雪交じりの風の中に飛んでいって、ガスの中に吸い込まれていくようだ。変な言い方だが、白いブラックホールさながらに、聡の存在を四次元かどこかへ消してしまってもおかしくない。
絶望しそうになった、そのとき。聡の視界を包む白の濃度が一瞬薄くなった。霧は薄くなったものの、あいかわらず横殴りの雪が降りしきるその先に、何か建物のような影がうっすらと見える気がした。きっと山頂の避難小屋だ。
——急に悪化した天気だ、誰かが避難しているに違いない。
避難小屋の影は、あっという間にもとの濃度になった霧と雪に隠れてしまったが、そうたいした距離ではないようにみえた。10m?20mはないだろう。
聡はスキーをもう一度抱えると、そっちに向かって歩き出した。