第106話 入院中(2)

病室に入ってきた瑞樹を将は黙ってにらみつけた。

瑞樹は最初、将の顔をその大きな目で見たが、将の形相を見て下を向いた。ウィッグの長い髪が顔の両側を覆い、瑞樹の表情を隠した。

しかし、出て行くわけではなく、閉じたドアの内側に佇んだままだ。

沈黙が続いた。

「……何の用だよ」

先に声を出したのは将のほうだった。

下を向いていた瑞樹は、将の声に反射的に顔を上げた。

しかし、いつもの、人をバカにするような冷たい表情でも、将だけに見せる媚びた笑顔でもない。

顔の筋肉に力が入っていないような……ニュートラルな顔だった。

呆けたようなその唇から漏れた言葉は

「お金を……貸して」

だった。

将は、にらみつけるのをやめて、下を向いて一瞬、ハッ、と吐き出すように笑った。

そしてもう一度瑞樹のほうに顔を向けた、

左目だけ目を細めるように眉根を寄せた、人をいぶかしがりながら、さげずむ表情。将がよくする顔だ。

「お前さ、そんなこと頼めるギリかよ」

将の言葉にも、瑞樹は呆けた顔をやめない。

「アキラにとんでもないウソついてよォ! どういうつもりなんだよ」

聡の名前を聞いて、瑞樹はようやく、再びうつむいた。しかし返答もしないで黙ったままだ。

瑞樹がだまったままなので、将は瑞樹を、にらみつけながら観察した。

うつむいているが、震えるわけでもなく、どことなくふてぶてしい感じだ。

将はベッドにいる自分がもどかしく感じた。

動けるなら、肩をゆすって威嚇するなり、手をひっぱって病室の外に追い出すなりしたい。

しかし、昨日手術したばかりの左足を固定している将は、彼女をにらむしかできない。

たぶん、貸してほしい金の使い道というのは中絶費用だろう。

イライラした将は、むしょうに煙草が吸いたくなった。

「誰の……だよ。腹の」

と、この状態にいらつく将は多少譲歩して、問い掛けた。

なのに瑞樹は答えないままだ。……時間を稼ごうとしているのだろうか。将のイライラは頂点に達した。

「あのさ。出て行ってくれない。俺、ムカついて気分悪いし。てかお前が男だったらブン殴ってる。……金は貸せないし。自分で援交でもすれば」

言ってしまって、将は自分の言葉の冷酷さに、ややビクついた。

しかし……瑞樹はふてぶてしい女だということを将はよく知っている。

これぐらい言わないと、わからない。と将は自分の良心に言い訳した。

瑞樹は、やっと顔をあげた。その目に涙が溜まっている。すがるような顔だ。

「将、お願い。センセーにウソついたのは謝るよ」

声を出したとたん、涙がぼろぼろとこぼれる。大量に流れたそれを両手でぬぐう。

そんな、か弱い女のようなポーズを、瑞樹がするのを初めて将は見た。

「……だって、だって。センセーが……。将を取ったセンセーがにくたらしかったんだもん……。困らせたかったんだもん」

しゃくりあげ、嗚咽をまぜながらの泣き声は震えて、いつもの落ち着いた瑞樹の声とかけ離れている。

表面はそんな瑞樹を睥睨しながら、将は内心動揺していた。

「私、……将のこと、本当に好きだったから……」

震える声でそこまで言うと、瑞樹はしゃがみこんでしまった。

顔を覆っているので表情は見えないが、肩を激しくふるわせている。ときどき嗚咽と、しゃくりあげる声が聞こえる。

将の中で罪悪感、というものが顔を出す。それは、いつも瑞樹に対して抱えていたものだ。

愛情もない瑞樹を、性の発散の対象としていたことに対して……。

毎日のように瑞樹を抱いていた頃は、それはまったくといっていいほど感じなかった。

避妊しているし。俺は義務はきちんとしている--と、うそぶいていた将。

だけど、聡を愛したことによって……そんなふうに女を排泄道具のように抱いたことが、いまさら罪の意識となって発作のように襲い、将は苦しんだ。

そして今。『どっちもどっちだったから』と無理やり覆い隠していたそれが、将の心を動かしていく。

しかし将は、嗚咽する瑞樹をもてあましていた。

聡を複数の男に襲わせようとしたり、聡に嘘をついたりしたことは、やはり許しがたい。

だから、将は瑞樹の体をいわばオモチャのように使ったことについて、謝れないでいた。

将は、瑞樹の姿を見るのがつらくなって、そっぽを向いた。

「金って……、中絶費用?」

瑞樹をみないまま、宙に問い掛けるように訊く。

「……ウン」

瑞樹はあいかわらず嗚咽しながら答えた。

「いくら、かかんの……?」
「15万ぐらい」

将はそっぽを向いたまま、ため息をついた。

高校生には高額な金だ。しかし将には最近、儲かった株がある。それを現金化すればたいしたことのない額だ。

将は、瑞樹をもう一度見据えた。

「もう、アキラに変なことしようとか考えるなよ」

瑞樹は立ち上がった。泣きはらして、ぐちゃぐちゃになった顔だ。マスカラがとれて下瞼にくっついている。

将は、瑞樹がそれを丹念に塗る動作を思い出した。

瑞樹はマスカラがとれたままの顔で、深くうなづいた。

「絶対、だぞ」

将は念を押した。

「わかった……」

瑞樹はうなづきながら、将のベッドに近寄ってきた。

将は思わずあとじさりしたくなったが、あいにくベッドから動けない。

「それで……将、もうひとつお願いがあるんだ……」
「な、何だよ」

瑞樹はベッドの脇に立った。目線は将と同じぐらいの高さにある。

「中絶の書類にサインしてほしいの」

将は、眉根を寄せて、瑞樹を見つめた。瑞樹は泣きはらした顔のまま将をじっと見ている。必死な表情だ。

――何をいうんだ、この女。

「何で……俺がそんなことする必要があるんだよ。サインぐらい相手にしてもらえよ」

将は瑞樹から目を逸らすと、冷静に言った。

「……してもらえないんだもん」

将はおそるおそる……しかし表面上はそんな様子を見せず、瑞樹を見やった。

瑞樹は、またうつむいている。その目から、雨だれのように涙がポタ、ポタ、と下に落ちていく。

「サインしてもらえないって……、お前、相手誰なんだよ」

瑞樹は歯を食いしばったような顔で、顔をあげた。涙が頬をつたう。

すこし間をおいて、覚悟したように相手の名前を告げた。

「前原……」

その名前を訊いて、将は納得した。カンベツに入所している前原に、たしかにサインは出来ないだろう。しかし瑞樹は、思いつめた声でさらに続ける。

「……か、オヤジ」