第105話 入院中(1)

コン、コン。

病室のドアがノックされて、ベッドの上でパソコンをいじっていた将は急いで振り返った。

「なーんだ。山口さんかぁ……」

入り口に看護士の山口の姿を見たとたん、がっくりとリクライニングにしたベッドにもたれた。

「ちょっと、なーんだ、はないでしょう」

白衣姿の山口は、笑顔で軽く抗議した。

「内科病棟の看護士ってよっぽど暇なんだな」

将は起き上がると、再び持ち込んだノートパソコンの画面に向かった。

「んま!失礼な。せっかく心配して休憩時間に顔を見に来てあげたのに」

修学旅行に同行した内科病棟の看護士・山口は、聡と行動を共にしていたせいか、すっかり将とも顔なじみになってしまい、外科病棟に入院した将のところにもこうやってちょくちょく様子を見に来るのだ。

将が入院して2日目になる。……つまり、昨日から入院している。

パソコンや携帯が自由に使えるからと個室に入院した将だが、今日の昼過ぎ、すでに退屈していた。

ちなみに、入院の手続きをしたのは義母の純代だが、将に嫌われていることをよく知っている彼女である。必要なことだけを整えると、即座に退散してくれて、将はホッとした。
看護士の山口がちょくちょく来るのは、そうした将の複雑な家庭事情を察したから、というのもあるのだ。

ちなみに将の骨折は『腓骨』といって膝下を支える2本の骨のうち細いほうの骨の骨折だった。

「ちょっとさぁ、山口さん。ここに腓骨骨折した人の話が出てるけど、2泊3日で退院したって書いてあるぜー。何で俺、2週間いないといけないのサ」

将はネットを表示したパソコンの画面を見ながら山口に文句を言った。

「鷹枝くんの場合は、折れた骨がずれてたの。同じところが折れてても、ずれていない場合は短いのよ」

たしかに将の折れた部位は、少しずれていたため、手術が必要だった。折れた骨に金具を入れて補強している。その左足は今、ギプスがはめられて吊り下げられている。

……この、昨日行われた手術が最高に痛かった。

骨に金具を入れているときは、麻酔が効いていたのだが、最後に皮膚を縫合するときに、麻酔が急激に醒めてきた。局部麻酔だったので、当然、将は痛みを訴えた。麻酔を追加してくれるだろう、と思ったのだが。

『もうすぐ終わりですからね。我慢してください』

と我慢を強いられたのだ。あの縫合時のキリキリとした痛みは、将のいままで感じた痛みで、もっとも鋭く感じられた。殴られようと、根性焼きされようと、あの麻酔切れの痛さに比べればまだ甘い。

12のときの大ヤケドの皮膚移植手術でさえ、子供だったせいか、もう少し優しくされたような気がする。昨日の痛みをリアルに思い出して、ぞっとする将に山口は笑いながら続ける。

「……それに、あなたの場合、早く退院させると絶対に無茶をするでしょ。だからよ」

将はプーッとふくれて見せた。が、気を取り直して、

「……センセーは?」と訊いた。

「古城先生の風邪? まだよくならないでしょう?」
「……そっか」

将はがっかりした。

 

  

あの避難小屋での極寒の一夜があけて、聡はやはり風邪をひいていた。

それでも熱で赤い顔をしながら、山口に薬をもらっただけで、最終日だからと、ほぼ立ち詰めで生徒の引率をやりとげた聡。

千歳空港での自由時間、生徒たちが土産物を買っているあいだだけ、聡は空港のベンチで正直にだるそうにしていた。

とりあえず倶知安の病院で骨折の応急処置をしてもらった将は、松葉杖を傍らに置いて、聡に付き添った。どっちがどっちに付き添っているのか分からない状態だ。

風邪の教師と骨折生徒が二人きりでベンチで安静にしていても、それほど不自然ではないのが不幸中の幸いだ。

千歳空港の土産物売り場は広い。カニやホッケ、鮭などの海産物や『白い恋人』などの菓子類でちょっとした市場の様相を呈している。活気ある喧騒の中に、離発着のアナウンスが混じる。そんな騒々しさの中で、聡は傍らの将に話し掛けた。

『将……じゃない、鷹枝くん、お土産買わないの?』
『買ってくヤツ、いねえし』

『自分用にカニは?』

聡は赤い顔をしながらいたずらっぽく笑った。

『何、また、むいてくれんの?アキラ』

具合悪そうな聡の冗談だが、将は冗談で返した。

『だーれが』

と聡はひとしきり笑いつつも

『その足だと動きにくいもんね……。もし、何かほしいのがあったら先生が買ってきてあげるよ? ホッケとか、イクラ、美味しいって言ってたよね』

どちらもホテルでの食事で出たものだ。聡は気を遣って立ち上がろうとした。

『いいよ、アキラ、じっとしてろよ。どうせ俺、明日手術だし、いいよ。……また二人で北海道来ようぜ』

将は思わず、聡の頭をくしゃっと撫でた。

『誰かが見てるかも……』

といいつつ態度で抵抗しないのは、やはりダルいのだろう。聡は膝の上に頬づえをついた。

『……スキー嫌いにならなかった?』

ダルいのか視線だけを将によこす。

『なんでぇ?面白いじゃん。またやりたいよ』
『そう……。よかった。最初にそんなケガしたから、こりごりになったんじゃないかと心配しちゃった』

と聡は熱で潤んだ瞳を細めて微笑んだ。頬に柔らかい髪が貼り付いている。その愛らしいけど弱々しい笑顔に将は抱きしめたくなるのを、必死で堪えていた。

そこへ出発便のアナウンスが響く。好きな人と空港で二人……病気の彼女と二人で出発便を待っている。何かの映画で見たシチュエーションだ。

空港で『助けてください』って叫ぶやつ。

あんな、彼女が先に死んでしまう……悲恋の映画と、自分たちはまったく違う。このとき、将は二人の幸せな未来を、まるで疑っていなかった。

 

  

 
それは、ほんのおとついのことなのに、遠い昔のように将は思った。聡の顔を見ずに、もう何時間過ごしてしまっただろう。数えて将はため息をついた。

「よっぽど古城先生が好きなのね……」

山口はつぶやいた。

「悪いかよ」

将は、悪びれもせずに答えた。

もちろん、山口は将と聡の関係は知らない。

単に将が聡を慕っていると思っているだけで、まさか二人が大人の関係の一歩前……深い口づけをしたり、上半身だけとはいえ素肌を交わしたことがあるなどとは知らないのだろう。

そんな秘密の記憶を思い出したこともあり、将は少し愉快になって口の端で微笑んだ。

 

  

  
日曜から修学旅行だった2年生は、東京に帰った翌日……つまり昨日は振替休日だった。

昨日まで具合が悪かった聡だが、今日はきちんと学校に行ったという。それはメールのやりとりで将も知っている。

だから、病院に顔を出してくれるかも、と期待したのだが、まだ風邪がよくならないのなら難しいだろう。

聡のかわり、というわけでもないが、午後も遅い時間になって、井口、カイト、ユータが病室に現れた。

「個室かよ~、すっげーな」

とカイト&ユータはあたりを見回した。

「超ヒマでよぉ」

と将は伸びをした。

「いいじゃんよ、昼寝し放題でさー」

と井口は勝手に椅子を出してくるとベッドの脇に座り、

「俺、ここに泊まっちゃおうかな」

と笑った。半分ぐらいマジで言ってるな、と将は思った。

「なー、ところでさぁ」

カイトが目を三日月のようにニヤニヤさせて将に話し掛けた。

「アキラセンセとの一夜、どうだったの? やっぱハダカで抱き合ったわけ?」
「バッカ。おまえなー、冷凍庫の中でそれ出来るか?」

将は顔をしかめながら言ったが、

「いや、激しく愛し合えば大丈夫でしょ」

とカイトは一人うなづいた。

将は「ハァ?」と呆れた声を出しながらも

――こいつらの発想って……。でも結局俺も同じだったんだけどさ。

と気付いてちょっと恥かしくなった。

「てゆかさ、鼻水も凍るんだぜぇ。そういう状況じゃ……おいユウタ何やってんだ」

きわどい単語を並べて、あの状況でセックスなどできない、ということを証明しようとしていた将は、左側にまわりこんで将のギプスに何かしているユウタに気付いて咎めた。

「いやー、お約束でしょ」

こちらもニヤニヤ笑うユウタはいつのまにかマーカーを何本も持っていて、将のギプスに落書きをしていた。

「コラ、やめろよ」

しかし、固定された足を動かすこともできず、将のギプスには見事に

将と聡の名前付きの相合傘を初め『巨乳アキラ命』『アキラ先生LOVE』などと下品な落書きが書かれてしまった。カラフルに5色のマーカーをふんだんに使って、グラマーな女性のヌードまで描かれている。それには、もちろん矢印で『アキラ先生』と示してある。

「くっそぉ、覚えてろよ~、てめ~」

拳を握り締める将に、ユータはそれをよける仕草をした。

「ところでさ、アキラ、具合まだ悪そうだった?」

将は井口に訊いた。

「ああ。悪そう、悪そう。映画見ながら鼻水ぐしゅぐしゅしてた。でも今日は社会見学を休みにしてただろ、それ正解って感じ」

考えれば、今日は金曜日、通常なら6時間目に社会見学がある曜日だが、今週は修学旅行があるため、社会見学のほうは休みにしていたのだ。明日は土曜日だが、そんなに具合が悪いのなら聡はこないだろう。

将は、また、ため息をついた。

 

  

   
下品な落書きをされてしまったが、3人が来たおかげで、退屈がまぎれたのも事実だ。

泊まりたそうにしていた井口だが、夕食時間になると素直に帰っていった。

将はまた一人になり退屈になった。今日はテレビも見たいのがない。

「あーあ」

将はひっくり返ると、携帯のメールをチェックした。落としてしまった携帯の代わりに、急遽家に取ってあった前の携帯を引っ張り出したものだ。

聡からの新着は入っていない。やっぱり具合があまりよくないのだろう。

『聡、俺、すっげー暇』

とだけメールを打つ。ちょうど送信し終わったとき。将の部屋のドアがノックされた。面会時間ギリギリだ。

また看護士の山口か、でも聡かも?

期待を捨てきれずに、体を起こしてドアを振り返った将が入り口に見たのは、制服姿の葉山瑞樹だった。