第141話 悪夢

特急あずさに揺られて、聡はいつのまにかシートに身を預けて眠っていた。

今朝早かったというのもある。

それに、この週末。

金曜の夜は、呑み過ぎ。

土曜の夜は、博史の母に真実を打ち明けてしまったことへの後悔。

日曜の夜は、博史の母がもし、最悪の事態になったらどうしよう、という心配と、将からの思いがけないプロポーズ。

気がかりなこと、興奮することだらけでぐっすり眠るわけにはいかなかった聡の脳は、

本人は気付いていないけれど睡眠を渇望していたのだ。

 
 

携帯が鳴っている。

――あれ。音がしないよう設定したはずだけど……。

聡は眠りの中で、眼を閉じたまま、思った。

早く出ないと、他の乗客に迷惑だ、と常識が後追いで目を覚ます。

聡は、くっついた上下の瞼を引き剥がすようにこじ開けると、バッグの中に入れた携帯を探す。

――ない?

取り出しやすいようにバッグのポケットの中に入れたはずなのにない。

ボストンのほうのポケットだっただろうか。それともコートのポケット?

聡はあわてて、あちこちのポケットに手をつっこんで携帯を探した。

その間も、携帯はしつこく鳴り続けている。

こんなに大きな音で鳴るなら、浅いところに入っているはずだ。

それにしても、こんなに朝早く携帯を鳴らすなんて、誰だろう。

すべてのポケットをまさぐり終わったのに携帯はない。

聡は、もう一度バッグを膝の上に取ると、その中身をかきまぜるように丹念に探した。それでもない。

携帯はまだ鳴っている。

絶対にありえない、と思いながら、今度はボストンを取る。

これも中に入った衣類を1枚1枚掻き分けながら用心深く見る。どうしてもない。

ボストンをもとどおり隣の席に置いてため息をついた聡の目に、膝の上で点滅する携帯の姿が飛び込んできた。

――ウソ!あんなに探したのに、なんでこんなところに。

聡はまだ鳴り続けている携帯を、誰からかも確かめずに、あわてて開ける。

『もしもし』

『聡』

博史だった。……まるでうまくいっている時のような、優しい声で博史は聡を呼んだ。

その穏やかな声は聡に次の言葉を想像させるのを阻んだ。

電話の向こうで博史はゆっくりと、告げた。

『母が……死んだ』

――えっ。

ウソ。と普段だったら反射的に出る返答も、喉が貼り付いてしまったように声が出ない。

『母が死んだ。死んだんだ』

博史は電話の中で繰り返す。口調がやや早くなっている。

声が出ない。いや、それ以前に答える言葉も見つからない。

不本意ながら……いや深層では意図的になのか、沈黙してしまう聡。

こんなに早く。余命は11月から1年だったはずではないのか。

余命宣告はそんなに、大きく外れてしまうものなのか。

余命宣告の不確かさに思考を延ばす聡。無意識に……自分をなんとか擁護したいからに他ならない。

博史はさらに追い討ちをかける。

『聡、お前のせいで、死んでしまったんだ』

博史は、低い声で……とうとう、聡の罪を指摘した。

『1年は生きられるはずだったのに……。お前のせいだ』

母の死は、医師の宣告ミスなどではない、と断言する。

声は、あいかわらず出ない。何か一声でもたてなくては、と思うのに出ない。

『お前のせいだ』

博史の電話の声は、だんだん低くなっていく。

『お前が、母を絶望させた』

声がでない。助けて。

『お前が殺したんだ』

やめて。お願い。

『いつか、お前も、絶望して死ぬ。必ず……必ず』

やめて――。

 
 

『まもなく○○、○○駅に到着します』

ハッ。

聡は、びくん、と体をふるわせて、現実の世界へと覚醒した。

いつのまにか、背筋にじっとりと汗をかいている。

自分がなぜ列車に乗っているのかを思い出すのに一瞬考えなくてはならなかった。

まだ、自分が把握できていない聡は手の中にあるはずの携帯を見ようとした。

手は……何も握っていなかった。

聡はタガがかかったような体を動かして、バッグのポケットを見る。

そこに、バイブ設定がなされた携帯がきちんと入っていたのを見て、聡は体中の力が一気に抜けてシートに寄りかかった。

――夢、だったんだ。

とてつもなくリアルで、怖い夢だった。

一気に安堵した聡はしばらく何も考えられなくて、外の景色に目を移した。

いつのまにか、窓の外に立ち並ぶ家々はなくなっていて、

かわりに出現したブロッコリーのような山々に温かそうな朝日があたっていた。

ほどなく○○駅に停車した。降りる客はほとんどおらず、乗ってくる客中心だが、席はまだ充分に空いている。

まだ聡の降車駅には、まだ間がある。

聡は、窓の外に広がる、冬の緑にぼんやりと視線を遊ばせていた。

ふいに、トンネルに入った。

トンネルは、窓を素早く鏡にし、うかない聡の顔を映し出した。

聡は、自分の表情に思わず目をそらした。

あれは……まさか、予知夢じゃないだろうか。

自らの不吉な表情は、一番嫌な考えを聡に突きつけた。

聡は、バッグの中から携帯を取り出す。8時になるところだ。

博史に、電話をかけて、確かめてみたら――。

聡は博史の番号を画面に表示させてみた。

薫が危篤だ、と告げられてからもうまもなく24時間が経つ。

もう、峠を越えるなら、越えているはずだろう……。

――だめ。

聡は携帯をパチンと音を立てて閉じた。

やはり怖い。

もしも。あの夢が正夢になっていたら。何と答えればいいのだ。

あれが現実でも、聡は何も答えられないはずだった。

それに、博史のいうとおり、薫の容態悪化の大きな原因をつくったのは聡だ。

どんな顔をして、博史に電話をかけられるというのだ。

それに……まだ8時。一般の社会人だったら電車の中か、忙しく出かける前の準備をしているところだ。

聡は消極的な自分に、もっともな理由を見つけ出してため息をついて、とうに鏡ではなくなった外に再び視線を移した。

甲府盆地に近づくにつれて空がだんだん広くなっていき、そして青が濃くなるような気がした。

気を取り直そうと、聡は朝食代わりに、と駅で買ったパンの袋を開けた。