自分こそが、将を辛い目にばかりあわせているのではないか。
自分は将を不幸にするのではないか。
そんな考えに囚われた聡はいつしか動きを止めていた。
将が、そんな聡のようすに気付いて、唇を離した。
「どうした……?アキラ」
切れた唇を唾液で艶めかせた将は、心配そうに聡の顔を覗き込むと、聡の体を抱き寄せた。
「心配するなよ、アキラ」
その大きな手で聡の背中を優しくなぜる。
将の腕の中に抱かれた聡は、そのぬくもりと将の匂いに酔うことで、その考えを振り払おうとした。
しかし、白い布についた油性インクのように、心の奥底にいったん染み付いてしまったその考えは、聡を離れることはなかった……。
日曜日は、昨日の雨を忘れてしまったかのように、よく晴れた。
しかし朝の出来事もあって、二人は部屋で息をひそめるように、小春日和の午後を過ごした。
将にとっては……部屋の外に出たら、毛利が見張っているかも、という恐れがあった、というのもある。
だらだらと寝巻きのままベッドにねっころがって、テレビを見たり、ときおり抱き合ったり、口づけしたりして、時間が過ぎていった。
テレビの感想などのほかは、あまり言葉も交わさなかった。
それは……やはり二人にとって、今朝伝えられた、博史の母の容態が気になっているからだろう。
もし、訃報がもたらされたら……。そんな緊張感がつねに部屋に張り詰めていた。
それに耐えられなくなったとき、聡は将にしがみついた。
将はそんな聡をいつでも抱きとめ、髪や背中を撫でる。
「大丈夫だよ」と何度も耳元で囁く。
それに、いったんは癒される聡だが、そうこうしているうちに、心の底にこびりついた『自分は将を不幸にする』
という考えが、将の優しさに照らされてまるで浮き彫りになったように蘇ってくる。
そんな繰り返しだった。
月曜日の早朝。
聡は、朝一番の特急『あずさ』のシートに身を沈めた。
朝9時に山の中の学校に到着する用務員夫妻を出迎えるためだ。
1泊のつもりだった先週よりも、今週はかなり荷物が多くなっている。
シートに座った聡はほっとして、明けたばかりの東京の景色を窓の外に見つめた。
青空の下、連なる家々にビルが次々に後ろへと飛んでいくようだ。
さっきまで一緒にいた、将のぬくもりも、声も、すぐ近くにいるかのように思い出せるのに、
時速120キロでどんどん遠ざかっていく――。
その中で、聡は窓の中の東京に、将の顔を投影した。
それははっきりと聡の顔を見ていた。そして。
『18になったら、結婚しよう』
窓の中の将は、ゆうべのセリフを繰り返した……。
昨日、当然のように将は聡の部屋に泊まった。
夕食の、久しぶりになった聡の手料理を将は『うまい、うまい』と、食欲のない聡の分までたいらげた。
ベッドの上で抱き合って横たわった二人だが、昨日と違って将は聡の素肌に手を出そうとはしなかった。
「しょう……」
スタンドも消した暗がりの中、聡は将の胸の中で訊いた。
すべての明かりを消しても、決して真っ暗にならない東京の夜だ。
玄関の横に、明日のための聡の荷物が準備万端整えてあるのが、うっすらと暗がりに見える。
「なに?」
まだ眠っていなかった将は、即座に返事をする。
「今日は……なにもしないのね」
「なんか、してほしい?」
将は聡を抱いた腕に少し力を込めると、いたずらっぽく囁いた。
「バカ……」
ほとんど吐息だけで甘く呟くと聡は、将の胸に顔を押し付けた。
「エッチなこと……する気分じゃないだろ、今日は」
背中を撫でる将の声は優しい。聡の気持ちをわかってくれているのだ。
「それに、18になるまでダ、メ、なんだろ」
おとつい、聡が酔っ払って言ったことをちゃんと覚えているのだ。
聡はなんだか恥かしくなって裸足の足先をもぞもぞと動かした。
それは将の足に触れた。すると将も膝下を聡のそれに擦り付けるように動かしてくる。
半ギプスを包む包帯の乾いた感触が温かくて、聡は何故か「もう」と声を出した。
「何が、もう、だよ」
将は低く笑いながら囁く。二人はクスクス笑って足を優しくからめあった。
ひとしきり足を擦り付け終わって、将は聡を抱いたまま、ふぅ、とため息をついた。
そして「アキラ」と呼ぶ。聡は将の胸にうずめていた顔をあげた。
将は聡を見つめていた。真剣な顔をしているというのは暗がりの中でもわかった。
「アキラ、俺さ、ずっと考えてたことがあるんだ」
「……なあに」
将は、聡の背中を再び撫で始めた。
「あのさ。俺が18になったらさ、結婚しよう」
言い終わると、将は笑顔を浮かべた。
聡は……あまりにも突拍子もない、将からのケッコンという発音が意味と結びつくのに、
習いたての外国語を理解するほどに時間を要した。
そしてそれが求婚……プロポーズの言葉だとわかっても、何を答えていいかがわからず
「将……」
と、とりあえず名前を呼んで、呆けたように、暗がりの中の将の瞳を見つめるしかなかった。
将は、もう一度ゆっくりと繰り返す。
「結婚しよう、アキラ」
低いけど、まだ10代のあどけなさの残る口調での求婚が繰り返された。
聡は胸が苦しくなった。苦しいほどの、狂おしいほどのせつなさに……もう一度将の胸に顔をうずめた。
温かい胸とゆっくりとした将の鼓動に、少しだけ落ち着きを取り戻すと
「そんなに……やすやすと、結婚なんて口にするもんじゃないわ」
聡は苦しい呼吸の中から、大人らしい言葉をようやく探し出して口にした。
「やすやすと、じゃないぜ」
将は自分の胸に聡を押し付けるように抱きしめた。
「俺さ、離れてみて、あらためてわかったんだ。アキラなしじゃ、俺やってけないってことが」
二人が片時も離れないようになったのは、つい最近と言えるが、それがまるでずっと続いていたことのように将は言った。
「こんなに好きあってるんだ。離れて暮らしてるほうが不自然だよ。それに18になって……するなら、結婚したっておかしくないだろう」
将は古典の授業で得た知識なのか「平安時代なんかだと、セックス=結婚だろ」と、おどけて付け加える。
「俺、弁当屋の頃から数えると、もう1年半もアキラを好きなんだし」
1年半。だけど、聡は4年近く好きだった博史からあっけなく去ったばかりである……。
そんな現実を思い出した聡は、将に別の現実をつきつけてみる。
「だけど、将。18になってもあなた、まだ高校生でしょ」
「カンケーねえよ。高校生なのが問題なら、高校なんかやめてやる」
「そんな……」
聡は将の胸の中で絶句した。なのに将の腕の中から離れられない。
「ねえアキラ。アキラは俺と結婚したくないの?」
将は聡を依然強く抱きしめながら耳もとで呟いた。
「将……」
将の熱い血潮が聡に流れ込んでくるかのような抱擁。もうこれで何度目だろうか。
聡はそれを愛していないといったら嘘になる。
熱い体温も、とうに慣れたはずの鼓動も。声もぶっきらぼうな話し方も、顔も、歩き方も……みんな愛している。思えば狂おしくなるほどに。
自分のものにしたいか、といえばもちろんだ。
将は、聡の答えを聞く前に「俺は」と思いのたけを吐露しはじめる。
「毎日アキラのことばかり考えてる。アキラなしじゃ生きられない」
しっかりとした声で将はさらに続ける。
「俺がまともに笑えるようになったのは、アキラのおかげだ。アキラに出会うまで俺、死んだも同然だったし……」
将の声の後半はどんどん小さくなっていって、最後に「クサかった……かな」と照れた声が加わった。
「だけど、本心だから」
でも最後に、将ははっきりと言い切った。
母が死に、厳格な上に多忙な父、義母の優しさはまやかしと気づいて、そして唯一の親友は鑑別所。
愛に絶望し、冷たくこごえていた16歳の将の唯一の温かさが聡だった。
そしてその聡と愛し合うようになった、幸せな今。
将は一生聡を離すまい、と自分の中で誓っていた。
そして願わくば、個人的かつ肉体的なつながりだけでなく、誰もが認めるすべての次元において聡とつながりたいと急速に思い始めたのだった。
やっと、聡が将の胸の中で口を開いた。
「将……。あたしも将を好き。誰よりも将が大切だよ……だけど」
低めの優しい声で、ゆっくりと将への愛を語る聡。
将は聡の声があたる胸のあたりが、ほんのり温かく、溶けたように柔らかくなるように感じた。
だけどそのとき、聡はたしかに『自分は将を不幸にする』のではないか、ということを恐れていた。
そして、将が早すぎる結婚を望むのも、その一環のように思えたのだ。
「だけど、将、考えてみて。まだ18でしょ。これからもっといい人に出会うことだってありう……」
「絶対ない。アキラ以上の女なんて俺にはありえない」
将は聡の言葉を遮って、断言した。
「18だろうと28だろうと、88になっても変わらないって。アキラは、俺を変えた、たった一人の運命のひと、なんだから……」
一言一言、区切るように聡に言い聞かせる。
『運命のひと』という甘くドラマチックな響きに聡は思わず顔をあげて将を見る。
将の、聡に向けた静かな微笑みは、暗がりの中でもはっきりとわかった。
「何十年経とうと、何百年経とうと、死が二人を分かつとしても……だっけ」
将は結婚式で登場する牧師の言葉から一部を引用して、一瞬冗談めかして笑う。
だけど、すぐに真顔に戻って最高級の愛の言葉を続けた。
「俺はアキラだけを愛し続けるよ。神にも誓えるよ」
今度は『クサかったかな』とは付け加えなかった。
温かい波が聡の中でどんどん満ちていく。
急激にそれは聡の胸を満たしていき、心の壁に激しく打ち寄せた。
決壊寸前。胸が張り裂けそうになって、将の胸に顔をうずめた聡は、瞳からあふれでたものをこっそりと将の着ているスウェットでぬぐった。
聡が泣いているのを覚った将は、
「……とりあえず、俺の決意、だから。俺の誕生日まであと2ヶ月、アキラ、いい返事待ってる」
将は、幸せな気分で、いとしい聡をもう一度抱きしめた。
将は、聡の気持ちはわかっていると、少なくともそのときは、そう思っていた。
しかし……思わず泣くほど感動しながらも、聡は、将の言葉を冷静に解釈していた。
思い出すだけで胸がキラキラしたもので満たされるような言葉。それは将の若さゆえの、純粋さや一途さのほとばしりに近いものなのだと……。
まさか、将のその言葉どおりに、自分が将の生涯最後の恋人になるとは、今の聡には想像もできないことだった。