第213話 恋の終焉

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今、どこ?

俺やっと一人になれた。

武藤のババアが部屋まであがりこんできた。

荷づくりのチェックだと。

近くまで来たら連絡して。

待ってる

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将のメールを受信したのは、地下鉄が駅に差し掛かったときだった。

聡は、その受信画面の将を見た。

受信画面はスキーのときの集合写真からとった大口をあけて笑っている顔だ。

その顔に、聡は

――ごめん。

と心で謝る。謝ったとたんせつなさで涙がこぼれそうになるが、他の乗客もいる。

熱くなる瞳をつむってこらえると、返信メールを打つ。

 

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もう遅いから、今日は美智子の家に泊めてもらうことにしました。

美智子の家はすぐ近くだから…

マンションの鍵は、管理人さんに頼んできました

将、明日から気をつけてね。

そして、仕事頑張って

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「なんだよ、これ」

将は聡からの返信を見て、思わず声をたてた。

美智子の家に泊めてもらう、だ?

しばらく逢えなくなる前夜なのに、どうして。

将は携帯を取り上げると、聡に掛けた。

聡はちょうど、駅についたところらしく、電話はすぐにつながった。

「将。ごめんね」

と電波がつながるなり聡は言った。

「どういうこと」

将はつい、苛立ちが声に出てしまう。

「もう、遅いから……それだけ。美智子んちって、将のマンションからたった4駅なんだよ。それで思い出したの」

「てか」

将の中で聡への逢いたさがつのって、それが怒りに変わってさえいく。

「どうして、今日なんだよ。俺、明日から3週間もアキラに逢えないんだぜ。美智子なんか俺がいない間にいくらでも泊まりにいけばいいじゃんっ」

「ごめん。将……」

聡はそれしかいえない。沈黙に、将の怒りは哀しみに変貌していく。

謝る聡だが、決意は固そうだ。今日は、もう聡に逢えないのだ……それだけはわかる。

でも、将は粘る。

「俺、アキラに会いたい。アキラがまだ足りない」

聡は黙っている。背後の車の音が邪魔だ。

聡の息遣いを携帯が拾っているのだったら、聞きたい。

どうして、急に聡は自分に抱かれるのを拒否するのだろうか……。

そうだ。あの状況から、友達の家にいきなり泊まるというのは『拒否』以外ありえない。

将は懇願する。

「アキラ。するのが嫌だったら、しなくてもいい。……頼む。アキラの顔が見たいんだ」

抱き合うだけでもいい。本当に欲しいのは、聡のぬくもり。たわいのないことを囁きあう時間なのだ。

だが、車の音だけが、携帯に流れる。そして

「ごめん。でも、もう美智子に連絡しちゃったから……。明日から、頑張ってね。メールするから」

と、ふいに電話は切れた。

「アキラ!アキラ!」

将は電話口に向かって、いとしい人の名前を叫んだ。

もう一度電話をかける。だが、もう聡との電波がつながることはなかった。

「アキラ……」

将は、携帯を持った手をだらりと下げた。

呆然と立ち尽くす将に、これから聡に会えない時間が立ちはだかる。

 
 

聡も、駅のコンコースで立ちすくんで涙をこぼしていた。

――ごめん。将。だけど、こうするしかないんだ……。

一度こぼれた涙は、あとからあとから溢れ出てくる。

聡はバッグからティッシュを取り出してそれをぬぐう。

目立たないように壁に向かってしているのに、何人かの乗客が好奇の目を聡に走らせていく。

聡は、涙の処理より、感情を処理するのが先だ、と無意識にさとり、美智子に電話をかける。

そのとたん、プップッと割り込みのサインが聞こえる。

たぶん将だ。

聡は美智子につながるまで、ぎゅっと目をつぶって耐えた。

「聡?駅についた?」

少しハスキーな美智子の声が聞こえて、聡はほっとした。

「うん。何番から出ようか……」

割り込みのサインはずっと聞こえていた。

 
 

「ごめんね。いきなり押しかけちゃって」

「いいよー。こっちも久しぶりに仕事から解放されてるところだったから」

とパジャマ姿の美智子は聡の着替えを用意して待っていてくれた。

濃いアイメイクがない美智子は、まるで別人のような童顔だ。

美智子の部屋は、古いマンションの2DKだった。

1室をプライベートに、1室を仕事部屋に使っているらしく、いずれもマスコミ関係者らしくシンプルにお洒落にしつらえられてある。

学生時代からワンルームに住んでいたのだが、フリーになったのをきっかけに2部屋あるここに引っ越してきたのだという。

「一杯やる?これね。記事書くために取り寄せたお酒なんだけど、美味しいんだよ」

と『菊姫』の一升瓶を、独り暮らしにしては大きな冷蔵庫から嬉しげに出した美智子の手が止まった。

「聡?」

菊姫を冷蔵庫の前の床の上に置くと、美智子は聡に駆け寄った。

聡は、ボロボロと涙をこぼして立っていたのだ。

「聡、どうしたの?」

「美智子ぉ……」

聡はもう限界だった。もう涙を止められない。

「聡、どうしたのよお」

思わず美智子は聡を抱きしめた。

聡は美智子に体重を預けて、体の中から響いてくる嗚咽をもはや止めることができない。

 
 

「ごめんね。あたしのせいだね……あたしが将くんにモデルを頼んだから」

美智子は、ぐい呑みを小さく傾けながら言った。もう深夜になっている。

聡は黙って首を横に振ると

膝の上で両手で温めるように包んだぐい呑みを口元に持っていく。

落ち着いた聡は、美智子に、将とのいままでを吐露した。美智子はそれを親身に聞いてくれた。

「あたしが、将くんにモデルを頼まなければ、将くん、芸能界入りすることもなかったんだよね……ごめん、聡」

美智子はぐい呑みを置くと、聡に頭を下げた。

「美智子。違う……んだ」

聡は頭を下げた美智子に、そうではない、と呟く。

たしかに、将の芸能界入りは、それが色濃く出てしまったかもしれない。

だけど、それは、もともと二人が抱えていた問題なのだ。

二人の恋の先には、いずれにしてもそれが立ちはだかっていたのだ。

ことに、よい家柄に生まれ、さまざまな才能に恵まれた将は未来にたくさんの可能性を持っている。

だが、若いゆえに一途で、持てる情熱のすべてを聡に注ぎ込もうとする将。……少なくとも聡にはそう見えていた。

今までに恋をした男の中で、もっとも激しく、自分のすべてをぶつけるような愛し方に、聡は酔いながら、恐れていた。

自分が、彼のすべてを占めてしまうことに。

現時点で恋愛に溺れることは……将の可能性を減らしてしまうことなのだ。

「芸能界入りが悪いわけじゃ、ないから。心配しないで。……もともとは、あたしがいけないんだから」

聡は、ぐい呑みを傾けると、その中の酒を飲み干した。

酒は、透き通ったような甘さで、聡の喉にじんと熱くしみた。

そんな聡を美智子は心配そうに見つめる。

「教え子、なんかと付き合い始めたあたしが、いけないんだ……よね」

「聡……」

「でもさ……」好きなんだ。もう後戻りできないくらい。

言葉のかわりに、再び聡の瞳から涙が染み出してきた。

それを美智子から隠すように、立てた膝に顔を埋める。

「聡……将くんのことを、本当に好きなんだね」

美智子の声も震えている。コケティッシュで明るい美智子だけど感受性もひとしお強いのだ。

聡の気持ちを察して、それが美智子の気持ちを震わせたのだ。

しかし、膝に顔を埋めた聡からは美智子のようすは見えない。

ただ、聡は顔を隠したまま、うなづいた。

「聡」

美智子は聡の肩に組むように腕を回した。

「将くんだって、いつまでも教え子じゃないよ。そのうち、大人になるし……」

美智子の手は、聡の肩をゆっくりと叩いた。

「ほら、聡、○○って覚えてる?」

美智子は、若干明るい声で、とある有名なミュージシャンの名前を出した。

若い頃から、アイドルのように活躍していた『歌手』が、いつのまにか『実力派ミュージシャン』になっている、そんな人。

「彼、デビュー前から付き合っていた彼女と結婚してるんだよね。ずっと……5年も交際を隠してて……。

でも、結婚後も人気は衰えなかったじゃん。将くんだって、ある程度実力がついたら、きっと、世間を納得させることができるよ」

そんな日が来るんだろうか。芸能界ではないにしても……将が世間に有無をいわせない実力をつけるとき。

聡はそのとき、いくつになっているんだろうか。

そのあまりの遠さは、恋の終焉と同義ではないか、と今の聡は悲観するしかない。