第214話 大人の決意

「それにしても……」

美智子は、聡に静かに語りかけた。

「聡、変わったよね」

聡は、美智子が何を言いたいのかわからなくて、涙目を少しだけ、膝からずらした。

「前はさ……。学生の頃はさ。博史さんに会えなくて寂しい、ってことあるごとにグチっててさ。会ったあとは夢みたいに幸せそうな顔しててさ」

美智子は当時を思い出したのか、おかしそうに口の端を上げた。

聡も顔を少し上げた。

「ホント、な~んにも考えずに、博史さんと結婚することだけが幸せ……みたいな感じだったじゃん。就活もやんないでさ」

思い出すと、恥かしさのあまり、地団駄を踏みたくなるような、あの頃。

だけど、聡は今、恥かしさを抑えて、あの頃に思いをはせてみた。

あの頃、聡の中の未来予想図は、博史に愛されて、博史に寄り掛かることだけしか存在しなかった。

博史の人生を心配することなど一度もしなかったように思う。

もちろん中東に赴任している身だから、身の安全は心配したけれど。

将来がどうとか、博史の可能性とか……そんなものは、もう博史の場合固まっていたからだろうけれど。

博史が聡より何歩もリードした大人だったので、聡は子供のまま……恋する乙女でいられたのだろう。

博史からあれこれと与えられるものを……それは優しさだったり、プレゼントだったり、愛撫だったり……聡は素直に堪能すればいいだけで、

聡が博史に何かを与えるのはずっと先だろう、と思いこんでいたあの頃。

「あの頃から考えたら、本当に、変わったよ……大人になったんじゃない?」

美智子は聡のぐい呑みに菊姫を注いだ。聡は無意識にそれを口に運んだ。

自分は……大人になったんだろうか。

将を愛するようになって。

聡は、与えられるだけでなく、愛を与える喜びを……自分の愛こそが渇望される歓喜を知った。

それと同時に、若い将の一途過ぎる熱情が、彼自身の人生を破壊するのではと聡は常に恐れることになった。

だけど……それゆえに、ひときわ将がいとしいのも事実だ。

「大人……とかじゃないよ。だって、我慢できなくて……流されることだって多いもん」

聡は思わずつぶやいた。さっきだってそうだ。

教師と生徒だから、せめて卒業まではセーブしなくちゃ、とわかっているのに、将が恋しくて、いつも流されてしまう。

傷ついた将を癒したい、という理由をつけて、本当は自分こそが将と抱き合いたいんじゃないだろうか。

聡はいつも、そんなふうに自分に疑惑を抱いている。……そう、あの、将は覚えていない、一夜だって。

「我慢しようとか、流されてるってわかってるだけでも違うんじゃない?」

美智子は、涙の乾いた聡の顔を一瞬のぞきこむと、黒目をぐるりとまわして、斜め上にある自分の考えを置いたあたりの空気に視線をうつす。

「だあってさ。あたし雑誌で恋愛の読者記事とかも担当するんだけど、みんな自分本位で、彼氏のことなんか、まったく考えてないんだよね。

『仕事で忙しいとかいって、逢ってくれない』とか

『ぜんぜん遊びに連れて行ってくれない』とか

『結婚を言い出してくれない』とか

相手に対して要求することしか考えてないの。あたしが男だったら『アー!ウゼー!』って叫んじゃうだろうなってぐらい」

美智子は、ぐい呑みをあおると、てへっと笑いながら

「ま、あたしも付き合ってるときは、そうだったかもしんないんだけどぉ」

と付け加えた。

そういえば美智子は彼氏いない歴がもうすぐ1年になるらしい。

「まあ、そういうのに比べたら……、聡は将くんのこと、すごく考えてるじゃん。それって、本当に愛してないとできないと思うよ」

愛、という言葉を舌に乗せるとき、美智子は少しだけくすぐったそうに瞬きをした。

「だって……彼は教え子でもあるし」

聡は、下を向いたまま……ようやく小さく笑うことができた。

 
 

美智子と枕を並べて横になりながら、聡はなかなか寝付けなかった。

窓にかかるのは遮光カーテンだから、部屋は墨汁に塗りつぶされたような闇になっている。

その中に、美智子が立てる、かすかな寝息が規則正しく響く。

電源を切った携帯は、バッグに入ったまま沈黙を守りながらも、しきりに主張を続ける。

だけど……。

こうやって、暗闇に横たわっていると、さっきのクロゼットの中の暗さが蘇る。

暗さより、あの細い隙間から漏れる世間の光が……本当に恐かった。

あのとき、クロゼットを開けられていたら。

何も言い訳できない。

一部の……聡とごく親しい人は、二人の関係を知っても優しいままだけれど……やはり二人の関係は白日のもとにさらすには、れっきとしたタブーなのだ。

学校にも、世間にも隠しとおさなくてはならない。……特に将のために。

いつまで?

聡は、将の卒業が1つの伏目だと思っていた。

だけど……高校を卒業したぐらいでは、まだまだ人生は脆すぎるだろう。

将はよく言っている。

『アキラと一緒だったら、俺はどんな貧乏ぐらしでもいい。トラックとかタクシーの運転手でも、ファミレス勤めでも、営業マンでも何でも楽しくやれるよ。きっと』

聡も、夢見る。

狭いけれど小さなアパートの一室。聡が産んだ将の子供が3人。

みんなで助け合って笑いあいながら暮らす、平凡な日々。

聡はそれでもいい。

でも。名門に生まれ、人なみはずれた高い知能を持つ将は……小さくまとまるべきではない。

一流になれる能力を自分のために反古にさせるなど、聡は自分で自分が許せない。

将が、確固たる自分自身を築き上げて、ゆるぎない自分の道を進むまで、待つべきなのだ。

教師として、人間として……それはわかっている。

だけど。それはいつになるのだろうか。

そして。ゆるぎない大人になったとき、果たして将は9歳も年上の自分を選ぶのだろうか……。

いつか博史が言った『通過地点』という言葉がふいにフラッシュバックする。

次に美智子の

『みんな自分本位で、彼氏のことなんか、まったく考えてないんだよね』という声が、神の啓示のように『通過地点』という言葉にひびをいれる。

通過地点でもいい。

聡は、暗闇に目を見開いた。

いつか、自分に誓ったはず。

自分の幸せと将の幸せが相反するときは、将のほうを取ろうと……。

――将が、自分自身を築き上げるまで、待とう。……待たなくては。

待つことが、自分に出来る、将への至高の愛情表現なのだ。

もう、流されない。聡は、今一度決意を固める。

 
 

「うーん」

カメラを構えた篠塚だが、ファインダーをのぞいたまま唸ると

「今日は、もういっか」

と首を傾げた。スタッフ一同、ぽかんという顔をした。

パリ、カルチェラタン。ごちゃごちゃとした路地に小さな画廊や画材屋などが軒を連ねる。

昨日、パリ入りした将ら一行は、ここで写真集のための1ショットを撮影しているところだ。

パリ、といえど、女性誌のパリ特集というわけではないので、観光名所やお洒落な場所は最低限にし、わざと雑多な場所や薄暗い『生きたパリ』的な場所を篠塚は撮影スポットに選んだ。

今日は、メトロの駅から、学生の多い10区、カンボジア料理店などをまわって、カルチェラタンに来ている。

しかし、カルチェラタンではとうとうシャッターを1回も切ることなく、篠塚は終了を宣言した。

「目がね。死んでるの」

篠塚は機材を手早く片付けながら言った。

「まあ、ここはパリだから、憂い顔は多少あってもいいんだけど、それにしても目がベターッとしてるの」

それは、篠塚がどんなに将をノせてもダメだった。

「……いっそ明日オフにすれば」

「そんな」

武藤が落胆の声をあげるのも無理はない。

このあとモロッコでCMと『ウルウル』があるので、パリは中3日しか日程がないのだ。

「何かあったの? なんか将、オーラ完全に消えてるよ」

篠塚に指摘されて、武藤は将を見た。

撮影が中断したせいか、将は石畳にしゃがみこんでボーっとしている。

「あ、もう犬のクソ」

と洗いたての濡れた路面にころりと転がる犬の糞を指差してヘラヘラと笑ったりしているが、その目は、なるほど、生気というものがまるで感じられない。

パリの5月、といえば青空の下、輝く街にマロニエの若葉、気の早い若者はセーヌ河畔で日光浴、と

最高に美しく、かつ躍動的な季節である。

が、その金色の午後の中で、将の周りだけアンニュイを通り越してヘドロのようなどんよりとした空気が立ち込めていた。

平均的なフランス人と比較しても、長身かつ顔が小さく足が長い将は、人目を惹くはずなのに、

往来の人々は、オーラが消えてしまった将に目も止めずに通り過ぎていく。

たしかに、こんな状態の将を撮影しても、目覚しいものは撮れないだろう。

武藤はため息をついた。

「今日、カタコンブに行けば、刺激になったかもね」

と篠塚はジョークで武藤をなぐさめた。

(ちなみにカタコンブとはパリの地下に残る、納骨堂である。地下通路に19世紀までの骸骨がそのまま放置されている、かなり怖い『観光スポット』である)

「今日は早めにホテルに入ってゆっくりしようよ。今日は『お城』とってるんでしょ」

お城というのはパリ西部の郊外サンジェルマン・アン・レーにある、ルイ14世の生家といわれているプチホテルだ。

ここは新都心・ラ・デファンスごしに遥かにパリを見渡し、パリから朝日が昇るところも見えるので今回の撮影箇所の1つにも選ばれている。

将が元気のない理由に、思い当たるところがある武藤は、

「そうですね」

といいつつ、ぼんやりしている将を一瞥する。

――やっぱり逢引を中断させたせいなんだろうか。

武藤は少しだけ罪悪感に苛まれる。

そんな武藤をよそに、将は

「ほんっと、犬とクソばっかだよなー。洗う、クソする、洗う、クソする、の繰り返し」

としゃがんだ上に、頬杖までついて、元気なく笑っている。

武藤はもう一度深くため息をついた。