第32話 急接近(3)

 
暗がりで、いきなり熱い塊に聡は包まれた。そのまま天地が逆転するように倒れこむ。

でも、何が起きたかわからない……といったら嘘になる。

予想まではしていなかったけど、予感ぐらいは聡にもあった。

将は病人とは思えない力でベッドに聡を押し付けるやいなや、聡の髪からバレッタを抜き去り、首筋に唇をはわせてきた。

聡の背筋に反射的に信号が走り、思わず声をあげそうになってしまうのをかろうじて飲み込んで制止の言葉にいい換える。

「……やめて」

やめるはずがない。

それでも、風邪をうつしてしまうと気遣っているのか、唇同士のふれあいは求めず、将の唇は首筋から耳たぶに移った。

ヤバい。声はまたかろうじて止めたけど、体がビクっと反応するのは制御しようがない。

――17歳のくせに、慣れているんだ。

将はしつように抵抗しようとする聡を抑え込みながら器用に耳たぶに舌をはわせる。

ここでいきなり笑い出して「くすぐったい」などと言えれば。もちろん今の聡にはいえるわけもない。

「病人でしょ。やめて」

何とか聡は声に出すことに成功した。が、その声はかすれてしまい、抑止になるとは思えなかった。

「我慢できないんだ」

将は耳から舌をはずして、ようやく答えた。その声はやはり苦しげにかすれている。

コンポのパイロットランプの星々の中に将の輪郭が黒く浮かんでいる。暗がりに目が慣れた聡にはぼんやりと将の苦しい表情が見えるようだった。

「……将」

将は次の瞬間、唇に柔らかい感触を感じた。聡の唇だった。

聡が頭を起こして自分から将に口づけをしたのだ。将はあまりにびっくりして、すべての動きを止めた。

口づけだけでない。聡は将の口の中に自らの舌を割り込ませた。

将は自分の口の中に入り込んできた柔らかい聡の舌をどうしていいものか一瞬とまどった。

が、すぐに聡の舌と将の舌はからみあった。

息も唾液も交換するような口づけ。その直接的な快感よりも、将は精神的な至福感に包まれた。

手をつないだときは駆け出したい気分になったが、今は違う。

宇宙のすべてが自分の味方になったような、そんな安心感に心が温かくなった。

聡といえば、夢中で将と舌をこすりあわせながら、なんで自分がそんな行動に出たのかがまだわかってなかった。

でも、1つだけ確実なのは、とうとう将を、1人の男として好きになってしまったということ。

でも、そんなことは前からわかっていたような気もする。いつから?

将の部屋に入ったときから? 

手を握り返したときから? 

デートをOKしたときから? 

それとももっとずっと前……弁当屋ではじめて逢ったときから?

聡の思考は逆回転する時間をたどっていた。

それと同時にかろうじて残った理性が、警報を激しく鳴らす。危険地帯に入り込んでしまったと。しかも、これ以上『進まない自信』はない。

「風邪をうつしちゃう」と将は自分から唇を離した。
「……大丈夫よ」

再び頭をベッドに横たえた聡は、その手を将の顔にまわした。

頬を優しくなでられて、将はもう一度ベッドの上で聡の体を抱きしめた。

「でも……これ以上はだめ。風邪が悪化しちゃう」

かろうじて理性が勝ったらしい。聡は自らの声で悟った。

「……わかった。でももう少しこのままでいさせて」
「……じゃあ、ベッドに入って」

暖房が効いているといっても、風邪をひいた体だ。温かくしないといけない。

聡はいったん立ち上がって乱れた髪を手ぐしで整えた。

将はランプをつけた。暗かった部屋を暖色の暖かい光が照らした。そのまま素直にベッドカバーの下の布団の中にもぐった。

「来いよ、アキラ」

聡は布団に入った将の傍らに腰掛けると、身をよじって将のおでこに唇をよせた。

ランプで明るくなったために、そんな風に上からのしかかる動作をすると、ニットの中の膨らみが将の目の前で丸く揺れるのがわかる。

将は再び聡を抱きたくなって、聡の背中に手をまわした。

ガチャ。

ふいにドアが開く音に二人は振り返った。それはすでに玄関ではなく、寝室の入り口だ。

そこには毛皮を着た将の義母・純代が立っていた。

「何してるんです」

厳しい声は二人の接近を目撃した証である。

聡は反射的にベッドから降りて立ち上がった。顔がカッとほてってくるのがわかる。

「あ……あ、あの」何かいいわけをしなくてはならない。

「お前こそ、なんだよ」将は身をおこした。

親を呼ぶのに似つかわしくない乱暴な呼び方。二人のぎくしゃくした関係が聡にはわかった。

「なんで来たんだよ」
「××病院から連絡が来たんです。お宅の息子さんが今日風邪で来たって。それで心配して来たんですよ」

今日将が点滴を受けた病院だ。

「心配ないから帰れよ」

純代は将の最後のセリフは無視して、聡に向き直った。

「先生はどうしてここに?」

聡が答える前に将がどなるように答える。

「見りゃわかるだろ。センセイが俺を看病してくれてんだよ」

寝室の床には単純にそう言えない証拠に、聡のコートやかばんが置いたとは思えない状況で落ちていた。だから将を無視して純代は聡を糾弾する。

「先生。わたくし、先生を少し信頼してましたのよ。息子がきちんと学校に行くように指導くださって……。なのに、こんな風に教え子を誘惑されるなんて……」

聡は下を向いたまま何も言えない。本当のことだからだ。

「アキラは誘惑なんかしてねえってば!俺のほうが誘ったんだよ!」

――そんな大声出したら、喉が……。

将の体が心配な聡だが、将のほうを見るのは許されない。

そんな将の弁解など聞こえなかったかのように純代は

「今日のことは、学校にあとでお伝えしておきます。今日はおひきとりください」

と聡に命令した。

「どうも……すいませんでした」

聡は頭を下げると、コートとかばんを拾って寝室を後にした。将の顔を見ることはできない。

「アキラ、行くなよ!」

将の叫び声が最後に聡の背中にからみついた。

純代は聡が出て行くと、さっきとはうってかわった優しい調子で、ベッドの将に近づいた。

「こんなことがあるから、いつもおうちに帰ってきなさいといっているのに。……ご飯は食べたの?」

今度は将が純代を無視する。冷たい目は伏せていたから純代には見えない。

「コレ、つくってきたから、お台所に置いておくわね」

と風呂敷に包んだ重箱をいそいそとキッチンへもっていった。

「誰がうちに入っていいって言った」

将は静かに口を開くと

「帰れよ」と続ける。
「将」

「帰れっていってんだよ!」

将はベッドから降りて一気にキッチンまで早足で歩くと、純代をキッチンから引っ張り出した。

「将。私はあなたのために……」

玄関の上がり口まで追い詰められて純代は未練がましく将を見上げて何かをいいかけたが、

「俺が本当に助けて欲しいときは見捨てたくせに、いまさら母親づらするな!」

それを聞くと、純代は靴をはかざるを得なかった。

「それから」

すでに将は激したために息が苦しくなっているのか言葉を区切った。しかし苦しい息の底から低い声を出して続けた。

「アキラが困るようなことを学校の奴らやオヤジに告げ口してみろ……」

純代は今まで誰からも向けられたことのないような鋭く冷たい視線で射抜かれた。

「そんなことしてみろ、お前を必ず殺す」

あまりの恐ろしさに固唾を飲む。純代は将が、かつて人を手に掛けたことを知っているから。

「早く、出て行け!」

将はドアを自分で開けると、純代を押し出してチェーンを締めた。

苦しい息にやけつくように痛い喉をなだめるために、キッチンへ向かい、ミネラルウォーターを一気に飲む。

そこで置いてある風呂敷包みに気付いた。

――こんなもの!

将は風呂敷包みごとゴミ箱に投げ込んだ。

――5年前。

燃えさかる火が迫るのが足先の熱さでわかる。

将は腰にのしかかる柱から脱出できないでいた。煙と熱さに頭が朦朧とする。

「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」

と必死に叫んで、小さな手で将の手を引っ張ろうとするまだ2歳の孝太。火の粉が孝太の頬にかかる。

現れたあの女は。動けない将を見下ろした。

「助けて……助けて、おかあさん」

将は手を伸ばして助けを求めた。将を押さえつける柱がパチパチと炎をあげはじめる。

女は目の中に炎を映してしばしたたずんだ。その顔は能面のように無表情だった。口紅が異様に朱くみえた。ふだん優しい義母のこんな顔を、12歳の将ははじめて見た。

「おかあさん?」

純代は……素早く孝太だけを抱きあげると、そのまま走り去った。

「お兄ちゃあーん!お兄ちゃあーん!やだやだ!」

純代に抱かれた孝太の泣き声が遠ざかっていく。

将は絶望のあまり、そこで気を失った……。