第147話 山の休日(1)

「副校長さんは、今日はお休みにならないんですか?」

寮母の沢村正枝が、朝食のみそ汁を聡の前に置きながら言った。今日は建国記念日、国民の祝日である。

「ええ……。休んでも行くところありませんしね」

聡が微笑むと、正枝は気の毒そうに笑い顔をつくりながら、聡の向かいに座る正枝の夫である純一の前にもみそ汁を置いた。

夫妻は、月曜日からこの学校に住み込みで着任している。正枝は寮母、純一は用務員である。

人事資料によると、二人とも62歳とのことで、人のよさそうな顔立ちが夫婦で似通っている。

二人が来てくれたおかげで、山の夜の怖さがなくなり、聡はほっとしていた。

「東京に帰ってくればいいのに」

純一は生卵に醤油をかけながら、聡を気遣うように目をあげた。

「はぁ……、でもトンボ帰りになっちゃうから、かえって疲れそうで」

「そうだなあ」

純一は細い目をみそ汁の湯気にうずめるようにしてみそ汁をすする。

「あ、でも沢村さんたちは、今日は休日ですから、お好きなように過ごして頂いてかまわないんですよ。わたしも暇潰し程度にしか働きませんから」

副校長でこの学校のリーダーである聡はいちおう、気遣った。

聡自ら『休日出勤』するとなると、沢村夫妻もそれに倣うかもしれない。案の定、

「そんな、副校長さんが働くのに私たちが遊ぶわけにはいきません。なあ正枝」

「そうですよ、純さん」

夫妻は顔を見合わせた。お互いを名前で呼び合う夫妻を聡は微笑ましく眺めた。

ちなみに『副校長なんて照れくさいからやめてください』と、聡が何度か頼んだにも関わらず夫妻は聡のことをあいかわらず副校長、と呼んでいる。

62にもなる二人がどういういきさつで、ここに住み込むようになったのか、聡はまだ聞いていない。

だけど、終わった食器を厨房に運んだ際に見た、正枝の年齢以上にゴツゴツした手から、たぶん相当苦労してきたんだろうな、と聡は想像する。

食器洗いを手伝おうとする聡に正枝は

「これは私のお仕事ですから、副校長さんは、副校長さんのお仕事をなさってください」

とやんわりと聡を追い出そうとする。

そんな正枝は、備え付けられた食器洗い機を『たった3人分だから』と使わないで、頑なに手で洗っている。

本来、休日に関しては寮母は休みで、寮に残った職員生徒で協力して家事万端を行うことになっているのだが、聡はひきさがることにした。

「じゃあ、私は、職員室にいますんで……。何か用がありましたらご遠慮なくどうぞ」

 
 

聡は寮を出ると深呼吸をした。今日もよい天気、つまり朝の冷え込みも厳しい。

教室や職員室がある校舎の陰になっている、踏み固められていない地面に、大きな霜柱が20センチにもたっているのを見つける。

もう何回も目にしているのに、聡はその端をそっと踏みしめて『さくっ』と崩れる感覚を楽しんだ。

日が当たっているところは、すでに溶けた霜で濡れた藪がキラキラ光っている。

ようやく聡はこの朝の冷え切った空気に慣れてきた。

冷え切った職員室に入ると、大きなストーブに火を入れる。

時計を見ると9時になるところだ。

――休日なんだし、せめてゆっくり起きる、って伝えとけばよかったかな。

聡は苦笑した。

先週、まだ聡一人のときは、どうせ一人なんだし、と特に用がない限り、ゆっくり起きていた。

その分、夕食のあとまで仕事をしたりしていたから、勤務時間的に問題があったわけではない。

しかし沢村夫妻は……彼らはかなり早起きだ。

昨日、聡は7時30分に準備された朝食を食べ、8時30分には勤務開始してしまうことになった。

それでも沢村夫妻にはゆっくりめらしいことが話してみてわかった。

休日の今日はさらに聡に気を遣ったのだろう、朝食は8時すぎだった。

もっとも聡にとっては平日同然の時間だが……。

聡は、今日は、あまりはかどっていないカリキュラム作成を、ちんたらやることにした。

その前にインスタントコーヒーを淹れて、しばし朝の憩いの時間を持つ。

マグカップから立ち上る湯気の向こうの窓から日の当たる外を眺める。

軍手をはめて、大きなスコップを抱えた沢村夫妻が、駐車スペースの向こうの藪のほうへと歩いていくのが見える。

そういえば、昨夜の夕食時に、畑をつくっていいか、といっていたっけ。

校舎の前のスペースは、平らにならして万能コートにしようと思っていたので、端っこだったらOKですよ、と聡は許可した。

つくるとしても、せいぜい畳1枚か2枚程度の小さな菜園だろうと思っていたのに、夫妻はどうやらさっそく藪を開墾してもっと広いものをつくりたいらしい。

聡はそれを見ながら考えた。

カリキュラムに畑仕事を入れるのはどうだろうか、と。

高校卒業資格取得の予備校とは何の関係もないが、作物が育つのを見るのは長い目で見れば、人生に役に立つはずだし、勉強の息抜きにもなるんじゃないだろうか……。

できた野菜は寮の食材としても使えるし。

聡はコーヒーをぐっと飲み干すと、職員室を出た。

「沢村さーん」

夫妻は揃って聡のほうを振り向いた。

「私にも手伝わせてください。畑づくり」

 
 

畑作り、といっても藪を開墾するところから始めないといけない。

背が高く生い茂った枯れた雑草を引っこ抜くのはなかなか骨だった。

「フンぬ!」

笹の仲間や枯れススキは聡一人で踏ん張っても、抜けない。

地面の下の根っこが意外に深く張っていて、かつまわりに密集した仲間どうして絡み合っているのだ。

工事で使うような大きなスコップを力いっぱい地面に差し込んで根を切ってやらないといけない。

しかし、根もまるで木のように硬い。いやそもそも地面自体が固く締まっているのだ。

「副校長、私がやりましょう」

純一がスコップを差し込むとようやく、引っ張った雑草がズボっと抜ける。

「これ、いっそ焼いちゃったらどうでしょうか」

聡は提案する。焼畑農業という言葉を思い出したからだ。

「何いってるんですか。山につながってるから山火事になっちゃいますよ」

純一と正枝は可笑しそうに笑った。

「そうか、そうですね」

聡もアハハと笑う。

寒いはずなのに、一生懸命引っこ抜く作業を繰り返しているうちに、いつのまにか汗ばんでいた。

 
 

1時間でようやく畳一帖と少しの草を抜いた。

「休憩しましょうか」

聡の提案に、広がった空き地に残った背の低い草を抜いたり、石を取り除いていた正枝が

「お茶でも淹れましょう」

と立ち上がった。

と、そのとき、車のエンジンとタイヤで石を踏みしめる音が近づいてきた。坂を登ってくるらしい。

「誰かしら」

休日の今日は、宅急便も郵便もないはずだ。

警戒した純一が、唯一の男として小走りに敷地の入り口に向かった。タクシーだった。

聡、純一、正枝が見守る中、タクシーは敷地の中ほどで止まると、ドアを開けた。

中から出てきたのは……。

「将!」

聡は思わず叫んだのと同時に、車から降り立った将のほうも、聡を見つけて笑顔で手をあげた。

石でごろごろの敷地はステッキも付きにくいはずだが、早足で聡のほうに歩いてくる。

聡も自然に将のほうへ駆け寄った。将は聡の姿を間近で見ると

「泥だらけじゃん。どうしたんだよ」

と笑った。

「副校長、そちらは……?」

純一と正枝がいつのまにか二人並んで、急に現れた背の高い若い男と聡のほうをかわるがわるにいぶかしそうに眺めていた。

何と説明しようか聡が迷っている間に、将のほうが

「アキラの彼氏で、鷹枝将といいます。アキラが世話になってます」

とぺこっと頭を下げて笑顔を見せた。

聡はカァっと顔が熱くなるのを隠すように、うつむいた。