沢村夫妻がお茶の支度をしている間、聡はとりあえず将を寮の中にある聡の部屋に案内した。
将は珍しそうに、簡素な木の壁などを見回していた。
「将、どうしたの、急に」
「会いたかったから……。なんだよ、喜んでくれないの?」
といいつつ、将は聡を素早く抱き寄せた。
柔らかな聡の感触をたしかめるように、抱きしめる腕に力を込める。
そんな将にすっぽり包まれた聡も自然に将の体に腕をまわす。
「土の匂いがする」
聡の髪に顔をうずめるようにして、将が囁いた。
「だって、畑づくり……」
顔を上げて説明しようとした聡は、その口を将の唇でふさがれた。
たった2日あけただけなのに、すでに懐かしい感触。
お互いの柔らかさを確かめるように、最初はそっと、だんだんと押し付ける力を強めていく……。
「お茶が入りましたよー」
食堂のほうから、聞こえた正枝の声に、二人は、名残惜しく唇を離すと顔を見合わせて微笑んだ。
お茶の湯気が窓から斜めに差し込む冬の陽射しを白く反射させる。
部屋や教室と同じようにウッディな食堂は、ガラス窓からふんだんに差し込む温かい陽射しのおかげで、いっそうのどかな雰囲気になっていた。
「鷹枝さんは……、学生さんですか?」
「ハイ。2年生です」
純一の問いに、躊躇もなくしゃーしゃーとウソをつく将を、聡は口をぽかんと開けて眺めた。
「どちらの大学で」
「東京大学です」
どうやら、将は、弁当屋についているウソと同じウソをつくことにしたらしい。
「そりゃ、たいしたもんだ」
と純一は目をみはったまま、聡のほうを見た。
ウソです。本当は高校生なんです、とも言えない聡はなんとなく笑うしかない。
背も高く、肩幅もがっしりとして、近頃さらに大人っぽくなってきた将である。
それに話し方だって、自然に敬語を使うことができるし、年配者に対する物腰も落ち着いている。
大学生といって誰も疑わないだろう。
このあとも、二人の馴れ初めなどについて、将は好きなように話していた。
「沢村さんは、ご結婚されてどれぐらいになるんですか?」
自然な流れで、訊いた将の問いに、夫妻は顔を見合わせた。
その見合わせる時間に、微妙な間合いがあった。
「籍を入れたのは、10年、いや11年かしらね……」
正枝が8年、9年、と数えるように確かめながら答えた。
11年?聡は意外に短いその数字を逆算してみる。50歳のときに結婚?
「わたしら、駆け落ちしたんです。いいトシして」
純一が、少し照れながら、その年齢にふさわしくない告白をした。しかしその顔は穏やかだった。
「すごいことを聞いちゃったね」
助手席で将が感に耐えずもらす。
ガタガタの未舗装道路を抜けて、舗装道路に出たときだった。
「うん……」
聡はフロントガラスの先に伸びる道路に視線を伸ばしながら、相槌を打った。
舗装道になったとはいえ、急なカーブが連続し、両側は暗い杉林に囲まれている。
二人が乗った軽乗用車は濃い紫の影をひたすら行く。
聡と将の二人は、昼食を兼ねて、夕食の買い物に出てきていた。
夕食は、すき焼きにすることになっていたのだが、若い将が加わったので、
肉や野菜を買い足さないととうてい足りない。
ちなみに将は夜10時の終電までここにいる、と宣言していた。
お互い、夫や妻、子供がいるのにも関わらず、恋に落ちて、それを全うした沢村夫妻。
特に勤めている会社の重役の娘を妻にしていた純一は、会社にいることもできなくなり、早期退職し、その退職一時金をすべて別れた妻に渡したという。
正枝も、経済的に何の苦労もなかった家を放り出して、純一に従いていった。
「でもね。私も純一さんも離婚が成立するのに3年もかかったんですよ」
以来、二人は住み込みのパチンコ屋や旅館などを転々とし、ここにたどりついたという。
「自分たちでも、何であんなふうになったのかわからないんですけどね。老いらくの恋、は失うものが多いってのは本当ですね」
と笑う正枝に、
「おいおい、47歳はまだ『老いらく』じゃないだろう」
と純一が訂正する。出会ったのが47歳なのだろう。そんなふうに顔を見合わせて笑った夫妻の顔には、経験した労苦にふさわしい皺が深く刻まれていた。だが、
「自分が選んだことですから」
とまっすぐに将と聡を見る二人の顔には、確かに幸せがあった。
運転しながら、聡は夫妻の話に自分を重ねていた。
博史を……思い出していた。
月曜日、火曜日と麓に降りてメールや留守電をチェックしていた聡だが、博史からの連絡があった気配はない。
危篤だといっていた薫は、どうなったんだろうか。
それを思うと聡は心臓がゆがむような、息苦しさを感じる。
夫妻は、お互いに、元の妻や夫、そして子供たちに申し訳ないことをしてしまった、と話していた。
特に、もう会えない子供のことを話すとき、正枝の目には光るものがあった。
すべてを失ったことも、妻や夫の苦しみを考えれば、当然のことだと言っていた……。
博史と結婚が決まって……指輪までもらっていたのに、将を好きになって別れを決めた自分は。
その報いに何を失うのだろうか。
そして何かの苦しみを与えられるのだろうか。
聡は不思議に怖さは感じなかった。
将は将で、夫妻の話を思い出して、純粋に感動していた。
17歳の自分には計り知れない、しがらみもあるであろう47歳の恋。
すべてを棄てて、全うすることができる。それほどの強い愛が本当にあるのだ。
そして、自分も、聡のためならすべてを棄ててもいい、と今一度、強く決心した将は運転席にいる聡を振り返る。
浮かない顔で運転に集中している聡。
おそらく、博史とその母のことを思い出して、罪の意識に悩んでいるのだろう。
穏やかなのにもかかわらず、沢村夫妻にあれほど強い結びつきを感じるのは、きっと二人がお互いの罪や苦しみをわかちあって来たからだろう。
幸福という人生の明るい部分だけでなく、暗い部分をもわかちあえる。
つらいことは二人で乗り越える。
聡の苦しみもわかちあって……二人で乗り越えたい。
そう思った将は、そんな決意表明のために、運転する聡の肩に手を置いた。
「運転、うまくなったじゃん」
とさりげなく、笑いかける。
聡は、将を振り返ると、つらそうな瞳のまま、口元で少し微笑んだ。
そして、視線を行き先に戻す。
そのとき、将が見つめていた、聡の瞳に明るい青が反射した。
車は暗い杉林を抜けて、明るい陽射しの当たる県道にようやく出たのだ。
澄んだ冬の青空が、希望のように二人の行く先に広がっている。