第335話 口づけのあと(4)

4日から図書館の開放が再開した。

16日から始まるセンター試験まで2週間を切ったせいか、3年生がいっせいに席を埋めていた。

聡は午後からの出勤だったが、さっそく英語問題での質問が殺到した。

その中に将はいない。

将は、今日からスタジオ撮影に入っているのだ。

受験生とはいえ14日からのドラマ放送開始に向けて、何かと忙しいらしい。

撮影は夜まで及ぶらしく、今週はいつもの、ネットとメールを使った個人授業も休みになるだろうとのことだった。

「先生。できました」

気がつくと星野みな子が聡のわきに立っていた。

「さすが、早いわね……じゃあ添削しておくわ」

聡は軽口を叩きながら答案を受け取った。

年内は顔を見せなかったみな子だが、今日はこっちに来たようだ。

英語が得意なみな子には、多くの実戦問題に触れるのがいいだろうと、過去問題を渡していたのだ。

みな子は目を伏せるようにして会釈すると、くるりと踵を返して聡の前を立ち去った。

その頬のあたりが、前より輝いているように見えるのは聡の気のせいだろうか。

聡はしばらく、そのすらりとした後姿から目が離せずにいた。

あのとき……将が口づけしていた、映像が脳裏に自動的にフラッシュバックする。

「先生、あたしらも英語するー。問題ちょーだい」

みな子の答案を握り締めたまま、しばらくぼうっとしていた聡は、ハッとした。

チャミ&カリナがにこにこと立っていた。

「センセー、またお腹おっきくなったよねー」

「今日、午前中、びょーいん行ってきたんでしょ?男か女かわかった?」

問題がほしいというわりには、聡のお腹について熱心に訊く。

どうやら二人は勉強に飽きて、気分転換に聡のところに来たらしい。

「お……」と一瞬言いかけた聡だったが、即座にまだわからない、と言い直した。

「えーほんとぉ、つまんなーい」

口を尖らす二人をよそに、聡は選択問題メインの問題集を探して席を立つ。

お腹の胎児が『嘘つき』といわんばかりに、ぼこりと身体を揺すった。

男の子と思わせんばかりのその勢いのよさ。

だけど……聡のお腹の中にいるのは、女の子だった。今日の検診でわかったのだ。

それが判別したとき、聡は、将を思い浮かべて心がはずんだ。

どんなに将が喜ぶか。

つねづね、聡に似た女の子がいい、と言っていた将である。女の子だったら『陽(ひなた)』と、名前まで考えていた将である。

『ひなたちゃんだったよ』

検診が終わって直ちに、メールを打とうとした聡だったが……その手が止まる。

――まだ、わからない。

聡は、メールを打たないまま、携帯をバッグにしまった。

わからないのは、胎児の性別が、ではない。

将がこの子の父親として生きるかどうかが……将が人生を自分に定めてしまって、それでいいのかがわからないのと……。

病院を出た聡はタクシーを拾って、乗り込んだ。

冷え冷えとした曇りの町が流れ出すのを確認すると、聡は背筋を伸ばした。

――これは将への罰なんだよ。ひなたちゃん。

聡は心で胎児に話し掛ける。

この3日間、聡は悩んだ。

クリスマスに呉れた小さな靴下と、自分への婚約指輪を目の前にして聡は悩み続けた。

どうして、将は、みな子にキスなどしたのか……。

最悪のことを想像して、胸はもやもやと痛み続ける。

しかし、出勤を前にして、聡はついに自分の中で結論を出した。

ちなみにこの3が日もネットとメールの個人授業は続いていたが……将はいつもの将だった。

自分との将来のために、必死で東大合格を目指す態度は変わらなかった。

だから、聡は……見なかったことにしよう。将を信じよう。と心に決めたのだった。

だけど。

あの一瞬だけは許せない。

たとえ気の迷いだとしても。

それは、女としての聡の素直な気持ちだった。

だから、せめてその罰として聡は……将が待ち望んでいることを教えないことにしたのだ。

それで、自分の気持ちがすべて整理できればいいのに。

聡は、コピーを取りながら、まだ消化できないやりきれなさを感じていた。

 
 

みな子は、みな子で……チャミやカリナに慕われながら図書室のコピーを使う聡を盗み見ていた。

本当は、担任の聡には、関西の大学を目指すことになったことを伝えなくてはならないのに、みな子はそれを言えずにいた。

言うべきことは言えぬまま、みな子は聡を盗み見るしかない。

きゃぴきゃぴとしたチャミやカリナにまじるアルトの声に、大人の女性の落ち着き。

マタニティがすっかりさまになったお腹の中には……将の子供。

自分にくれる指導も的確だ。

なのに、あいかわらず……年下から見てもどこか可愛らしい、聡。

――かなうはずがない。

みな子は、唇を小さく噛むと日本史の参考資料に目を落とした。

英語の答案を聡に渡してしまったので、次は日本史をやることにしたのだ。

そこはちょうど、飛鳥時代の天皇家の系図が記してあるページだった。

そこには、天智天皇と天武天皇、その複数の妻と子供の複雑な系図が記してあった。

――もし、昔なら。

飛鳥時代でも、平安時代でも、なんなら戦国時代でもいい。

無駄だと思いつつ、みな子は空想の世界に足を踏み入れてしまう。

……一夫一婦制でさえなければ、もしかしたら鷹枝将は、2番目の女として、自分を選んでくれたのではないだろうか……。

そうだ。

何も、一番じゃなくてもいいんだ。たった一人の女になんかならなくてもいい。

将の最初の子を身ごもった聡が正妻なら、自分は側室でいい。

聡が女性として、いまの自分より優れているのはわかる。

だから……2番目でいい。2番目でいいから、将に愛されたい。

ほんの少しでいいから将の愛がほしい。

自分は、鷹枝将が好き。鷹枝将だけが好きなんだ。鷹枝将以外の人の正妻になるより、将の側室の方がいい。

もしも鷹枝将が、自分を選んでくれるなら……嫉妬なんか、きっと我慢できるのに……。

――どうして、現代なんかに生まれてしまったんだろう。

そこまで行き着いたみな子は、自分の想像の馬鹿らしさとみじめさに資料を閉じた。

ため息をひとつ吐き出すと、問題集を開く。

 
 

自分の押したインターフォンが、虚しく中から響いてきた。

間を十分にあけて3回押して……大悟はため息をついた。

――留守か。

夏まで将と暮らしていたマンションを……大悟は訪れていた。

置きっぱなしにしていた瑞樹の遺品を、返してもらおうと思い立っての訪問だった。

諦めてエレベーターを降りた大悟は、それでももう一度10階のあたりを見上げた。

思えば、瑞樹と初めて出逢ったのも今ごろだった……とどんよりまではいかない白い曇り空に、大悟は目を細める。

青白い小さな顔の中で目ばかりが目立った制服姿。

おどおどと将を訪ねてきた様子は、大悟の中でおぼろげに揺れている。

 

クリスマスに西嶋家に引き取られてまだ10日ほどが経過していた。

タダで置いてもらうのに気が引けた大悟は、アルバイト扱いで西嶋光学工業の仕事を手伝っていた。

「まだ退院したてなんだから、無理しなくていいのよ」

節子は気遣ったが、

「俺がやりたいんです」

と大悟は雑用を進んで引き受けた。

社員には一切の大悟の過去は伏せられていたが、真面目な態度は、社員も感心するほどだった。

「新しい子、最近の子には珍しいですよね」

古株の社員にそう褒められて西嶋隆弘は自分のことのように相好を崩した。

しかし、大悟は……動いていたかったのだ。働くことで頭をいっぱいにしておきたかったのだ。

動いていないと、醜くて冷たい心の核が、表層に出てきてしまう。

それを恐れるばかりに大悟は、懸命に働いた。

正月は、家事を手伝い、中学の勉強のやりなおしに取り掛かった。

そんな大悟を西嶋夫妻は、温かい目で見守った。

忙しいけれど、穏やかな日々。

家族に信頼され、信頼する、あたりまえの幸せ。

それを手にしつつあった大悟の中で、急速にクローズアップされてきた想いがあった。

瑞樹だった。

家族に恵まれず、不幸なまま死んでしまったかわいそうな瑞樹。

瑞樹を……このまま忘れてしまうのは、あまりに彼女が可哀想だ。

大悟の亡き瑞樹への思いは、正月の間に急速に膨れ上がった。

3月には、命日がある。

それまでに、せめて……遺骨と遺品を手元に戻しておきたい。

そう思った大悟は、夕べ、瑞樹のことを西嶋夫妻に話したのだ。

 

大悟は、電話してから来るべきだったか、と後悔した。

だけど……将の携帯番号などまるで覚えていない。

それを記憶させた携帯電話もまた、入院中にとうに失っていた。

また来ればいいさ、と自分を無理やり納得させた大悟は商店街へと向きを変えた。

隆弘との待ち合わせまでまだ30分もある。

西嶋光学工業の仕事始めは明日の5日からである。

自分もお得意様に新年の挨拶をするから、と隆弘は近くまでマイカーで送ってくれたのだ。

時間をつぶすべく、コンビニに入ろうとした大悟は、ちょうど自動ドアの中から出てきた若者と目が合って……そのガラの悪さに顔をそむけた。

来ているのはジャージ風だったが、真っ赤な短髪に、耳介にぐるりとピアスの穴が開いている。

あまりまっとうではない人種であることを大悟の本能は見分けていた。

無視しようとした大悟だったが、

「大悟、大悟じゃんよ」

と呼び止められてギョッとした。

振り返った大悟に、隈取をしたような特徴ある目と、分厚い唇が記憶を呼び戻した。

「茂樹……?」

トレードマークのマカロニドレッドはなくなっていたとはいえ、それは確かに中学時代の同級生、前原茂樹だった。

「中学以来じゃん……」

前原は大悟を見るとニヤリと笑った。その溶けかけた前歯は一本が欠けたままで、大悟は嫌な予感がした。

「よ。元気そうジャン。……悪いけど俺、急いでるから」

とっさにやりすごそうと、大悟は後戻りをした。

そのまま走り去ろうとして……本当に立ちすくむ。

鏡のように商店街の風景を映し出したベンツが止まっていた。

「そう邪険にすんなよ」

尖った靴、スーツ、独特に香る整髪料で固めた頭に、鋭い眼。

大悟は……ベンツから降りてきた男を見て、蛇に睨まれた蛙のように身動きができなくなった。

 

30分後、隆弘との待ち合わせ場所に、大悟は現われなかった。

西嶋夫妻は、捜索願を出したが、大悟の行方は杳として知れなかった……。