第334話 口づけのあと(3)

聡との電話を切った将は、自室の静けさの中で、無意識にみな子の姿を思い浮かべていた。

うるんだ瞳。寂しげに去っていくうなじのあたり。

――やはり、きちんと謝っておかなくては。

そう思った将は、携帯を手に取るとみな子に謝罪のメールを打ち始めた。 

   >さっきは、本当にごめん。

ここまではいい。だがそのあとが続かない。

   >俺、どうかしていたんだ。

と打ちかけて思いとどまる。さっきの行為を、自分の意志とかけはなれた、動転と気の迷いのせいにする非道さは、将でもわかる。

   >もっと早く、みな子と出会っていたら……。

自分へのみな子の気持ち。

それに出来る限り答えるべく考えた文言に、出会っていたらどうだというのだ、と自問自答をする。

自分にとって女性はたった一人、聡だけだ。

みな子に対して誠実になるあまり、聡への不実をにおわせるその文言を将は、やはり消去するしかない。

なぜなら、聡がこの世に存在しないほどの事態にならなければ、みな子を選ぶことはないからだ。

   >でも、みな子は大事な友達だから。もし許してくれるなら、友達でいて。

やや自分に都合がいいものの、一番将の本心に近い言葉を、将はようやくつむぎだすことができた……だが、しかし。

もうすぐ関西に、引っ越してしまうみな子には、そらぞらしくないだろうか。

いや、そもそも。メールでどうにかしようということ自体が不誠実であるように思えてきた将は、みな子の携帯番号を表示させる。

数字の羅列の中に、

『あたし、鷹枝くんの、何なのかな』

ふるえる声と黒目がちの瞳がフラッシュバックする。

自分のだらしなさを責めつつ……将は、衝動的に通話ボタンを押してしまった。

電話して、何を話すというのだ、と咎める理性と。

いや、とにかく謝らなくてはという情と。

二つが渦巻きはじめる前に、電波がつながる乾いた音がした。

「……」

いつもなら、『もしもし、鷹枝くん?』と明るい声がするはずだが、携帯は電波のつながりだけの沈黙を伝えるのみだ。

仕方ないので将から

「俺……」

と声をだす他ない。そして声、という現実は将にそのまま謝罪の言葉をつなげさせることになった。

「今日は……本当に、ごめん」

自然にうなだれた将の耳に押し当てた携帯は、しばらく沈黙を続けていた。

みな子の声を待ちつつ、それが怖い将はさらに「ごめん」と続けようとしたが

「こっちこそ……さっきは、ごめん」

というか細い応答があり。将は意外さに顔をあげた。

「いろいろ、変なこと言っちゃって……。『あれ』も……」

キス、という単語を口にしようとして、みな子はその単語の生々しさに、代名詞に言い換える。

将だけにつながっている回線にそれを発するのは、挑発的な気がしたからだ。

 

みな子の涙は乾いていた。着物を脱いで着替えて、紐を部屋に渡して掛けて……となるべくそれを思い出さないように動く。

それは成功したように思えた。健康なみな子の胃は、空腹を訴えた。

コンビニに出るのも面倒だったので、インスタントラーメンをつくる。

しかし、その麺を啜りこもうとして……みな子は一瞬躊躇した。

将とあわせた唇。

その唇を、インスタントラーメンなんぞに使うのはもったいない。

みな子はラーメンをそのままにして、洗面所の鏡に自らの顔を映してみる。視線は自然に唇に集中する。

それは……泣いたおかげで少し腫れぼったいながら紅を差したような色にもなっていた。

初めてのキス。

初めて好きになった、鷹枝将と、キスした。

そして将は、絶対に、自分のものにはならない男。

みな子は、唇をあわせた瞬間を反芻してみる。

突然すぎて、紗が掛かったような記憶から懸命にもやをとりのぞこうと努力をする。

しまいには、引き出しの奥に隠した雑誌を取り出す。

そこには将のグラビアがあった。

本物の将より、目も細く少しいかつい印象の写真の中で、みな子の視線はその唇だけに注がれる。

形がよく、女の唇のようにふっくらとしている唇にみな子は初めて気がついた。

この唇が自分に……。

それを思い浮かべたとたん、その湿った柔らかさと温かさがふいに蘇る。

みな子はプールに入ったときのように、体中がきゅんと締まるのを感じた。

はずみで再び涙がこぼれる。

しかし、さっきのように哀しい涙ではなかった。

将が自分に口づけしたことを……むしろ、神が起こした奇跡のような気がしている。

 

「『あれ』も……気にしてないから」

みな子は出来る限り明るい声を出すようにした。

そう。気にしないでほしい。気にするあまり、自分から離れてしまわないでほしい。

「それよりも、お願いがあるんだけど」

みな子は将に返答の隙間を与えずに続ける。

「今までどおりでいて」

変な風に意識しないで。せめて友達として、卒業まで、一緒にいてほしい。

どうせ、卒業したら離れてしまう自分だから……。

「先生のことは……誰にも言わないから」

「みな子」

将は、誤解だ、と言おうとして止めた。

嘘を重ねても、みな子はそれをきっと信じないだろうとわかっているからだ。

「でもね。鷹枝くん。……あたし、嬉しかったよ」

「みな子……」

「本当だよ」

みな子の頬をまた、涙が伝った。次に続ける言葉のせつなさに、涙が先走ったかのように。

「だけど、忘れる。だから……お願い、今までどおりでいて」

本当は忘れない。いつまでも覚えている。死ぬまで抱きしめていく思い出。

だけど、『友達』の将を失いたくない。

恋人になれないなら、せめて信頼される友人のままでいたい。

「先生の……カモフラージュ役でもいいから」

カモフラージュという単語に、将の心に何かがちくりと刺さった。

頭から聡の姿が完全に抜けていた、あの瞬間。

さっきの、口づけは……カモフラージュなんかじゃなかった。

だけど、それを伝えてどうする。将はかろうじて、口に出す言葉を変換した。

「みな子は……それでいいわけ?」

我ながら自分のずるさが、やるせなくて……将の口調はやや乱暴になる。

「うん……いいよ。だから」

みな子は深呼吸を挟んだ。とどめを刺すがごとく、思い切る。

「あたしから逃げないで」