第233話 梅雨前線(2)

久しぶりにその名前を聞いたと思った。

覚醒剤所持で警察に捕まり、退学になった前原。

その隈取をしたような目を思い出しながら、将の中で、くだんの嫌なラインがますます色濃くなっていく。

「何か……ヤバそうだった?」

変な取引やってたりとか、という質問を将はかろうじて飲み込む。まで疑いを決定的に出したくない。

「いや、ちょっと見かけただけだから……。でも大悟、痩せたな。シャブでもやってるっぽい」

井口のほうが先に疑惑を口に出したので、将は擁護にまわらないといけなかった。

「瑞樹のことから……立ち直れないんだ、アイツ」

「もう3ヶ月以上も経つのに?」

「死に方が死に方じゃん」

「ふーん……」

井口は黙ったが、あきらかに解消できない疑惑は胸の中に残るようすだ。

将の中でも、その疑惑は決定寸前だ。

前原の友達といえば、捕まった前原に罪を被せてバックれたような連中ばかりだ。

だが。大悟と前原は同じ中学だ。単に同級生とつるんでいただけかもしれない。

将は、無理やり自分の中の疑惑を消そうとしたが、そうしようとすればするほど確信に変わっていく。

そのとき、教室に聡が現れたので、将も井口も窓のそばから席に戻った。

雨脚はますます強まり、窓からも雨が振り込みそうな勢いだった。

 
 

みな子はHR中、教壇の上の聡と、机に肘をついているのだろう、傾いた将の背中を見比べていた。

将の白いシャツは雨に濡れたのか、その下の浅黒い背中の色を透かしている。

それを見ていたら先週の日曜日、車の中で聞いた、

「本気で好きだから……。今は離れてる」

という言葉が蘇ってきた。

その直前の『みな子だけに言っとこうかな』という言葉で芽生えた、まさか、という淡い期待はすぐにかき消されたが、それにしてはみな子は落胆していなかった。

もともと期待自体が、錯覚のようなものだったからだろうか。

「先生と……生徒だから?」

みな子は訊き返した。錯覚だったはずなのに、下瞼が少し熱い。

それを瞳をあげることによって冷まそうとする。

「うん」

将は行き先から目を離さないままだ。車の流れはだんだん遅くなってきている。

「いつまで……我慢するの?」

「俺が大人になるまで」

将の口調は静かながら、確固たる決意に満ちていた。

……みな子の同級生の男子は、決意などをまじめに語ることはない。

ふざけているのが日常のデフォルトで、自分の中の核心に近づくと言葉もなく黙り込む。

みな子は、初めて聞く、同年代の男子の決意に動揺した。

何と答えるのが適切なのかわからない頭だけが、空回りして、セリフをつくった。

「だ、だから、いきなり、あたしのこと名前なんかで呼んだんだ?」

将は思わずみな子のほうを振り返った。

――違う。

反射的に将は口を開きかけた。しかし、結果的にそうなってしまっているのかもしれない、と言いかけた台詞を飲み込んだ。

無意識に、聡以外に気を惹かれているアピールを周囲にしてしまっているのだろうか。

それをしないと、聡に引き寄せられてしまうから。

渋滞に入った車内を前の車のテイルランプが赤く照らしだした。それが消えたとき、将は

「……そうかも。ゴメン」

とようやく答えることができた。

「イヤだったら、戻す……けど。イヤだよね」

「ううん!」

みな子は即座に首を振って運転席の将に顔を向けた。

「全然、ヤじゃないよ」

とまで続けて、しまった、強く否定しすぎたかな、と少し後悔する。自分の気持ちがバレてしまう、と危惧したみな子は、

「そんなことぐらい、どってことないし」

と付け加えながら、将の顔から無理やり視線を剥がそうとした。

みな子はすでに、将に名前で呼ばれる喜びにどっぷりと浸りきっているのだ。

この幸せを手放したくない。例え聡の代わりだとしても。

「ありがとな。みな子」

再び、車が停止して、車内が赤に染まる。将は、助手席のみな子に顔を向けて微笑んだ。

みな子の気持ちがどこまでバレたのかは、わからない。

 
 

梅雨前線に覆われたまま、暦は7月に入った。

7月1日からモロッコで収録した『E』のCM、そして最初の日曜の夜に『ウルウル滞在日記』とオンエアが相次いだ。

『ウルウル』のオンエアの日、鷹枝家では、日曜日ということもあり父の康三、義母の純代、

そしていつもは21時30分にはベッドに入るように決められている孝太も特別に許されて、リビングのソファにいた。

赤茶けてなだらかなサハラ砂漠に将が登場したとたん、

「お兄ちゃんだ!」

とパジャマ姿の孝太が嬉しそうに、画面を指差した。

病院では巌も

「10時からなぞ、お、遅すぎるわ」

と文句を言いながらも、付き添った30年来の仲である50代の妾・あゆみと共にテレビに見入った。

「あら。いい男。あたし、巌さんから乗り換えちゃおうかしら」

あゆみは、いたずらっぽく巌に目を走らせたが、巌はそんな戯言に付き合わず、テレビに真剣に見入っていた。

将の姿が映ったとたん、そのピンク色の目頭には、熱いものが溢れていた。

あゆみは立ち上がると、それをティッシュでそっとぬぐった。

 
 

聡も、ボーナスで買ったDVDに録画しながらも、画面の中の将を見つめていた。

5月の……将が海外ロケに行っていた間の、奄美ユリのドラマもきちんと見ていたが、今回は、まさに素のままの将だ。

羊づくしの食事に目を白黒させ、荒野に散らばった羊を集めるのにへこたれそうになり、その一家の長男と連れ立って『砂漠のバラ』を探しにいく、民族衣装を着けた将。

異文化と厳しい気候の中で、優しくたくましい人々と交わりながらも、将は将だった。

むしろ、厳しい環境で、将の本当の強さや優しさが際立ったがごとく、なんでもない場面で聡は心を動かされていた。

番組恒例の、涙、涙の別れの場面がくる前に、すでに聡は涙を落としていた。

 
 

『ウルウル』オンエアの効果はすごかった。

事務所所属のタレント別HPアクセス数も、瞬間的に1位を記録したほどで、将にはさまざまなオファーが舞い込んだ。

「将のいいキャラが出てたよね」

と社長も満足げだった。

素のままでつかえると思われたのか、バラエティ番組のオファーも多かったが、連続ドラマの収録中とあって、武藤や社長は慎重に仕事を選んだ。

仕事以外のプライベートでも、いきなり知り合いが増えたように将やその家族への連絡が増えた。

康三は、閣僚仲間で外務大臣の浅野一朗から

「ご子息、ご活躍ですなあ」

と声を掛けられた。

SHOが息子の将であることは公表していないから、康三は知らぬふりをした。

来年の総裁選を争う浅野は、油断ならない相手だ。

純代は、親戚一同からの電話応対に追われた。

こちらにもやはり、公表していないが、目ざとく見つけたのか、電話を掛けてくるのだ。

『立派に成長されて……。応援しますよ』という好意的な内容が大半だったが

「嘘をつくわけにはいきませんし……。内緒にしてくれと頼みましたが……困りましたわ」

と康三にこぼした。

将本人にも、どこからどうやって調べたのか、というような人間からの連絡がひっきりなしにあった。

真剣に携帯の番号を変えることを検討していた頃に、その電話は掛かってきた。

最近、ほとんどの電話は、サイレントマナーにして無視することにしているが、アラームをセットしていた最中だった将は、うっかり出てしまった。

「将!見たわよ!カッコよくなっちゃって」

電話番号に見覚えはなかったが、ハスキーな女の声に聞き覚えがあった。

「あ……。カオリさん?」

「久しぶりね」