第265話 叶わぬ恋(5)

「チュー、しなかったじゃーん」

将はまるでチューするときのように口を尖らせた。

台所のほうから、いい匂いが流れてきた。きっとあゆみのビストロ自慢のポトフに火が入ったのだろう。

「これからがあるんじゃ。わしは中学に進学したんだが……」

 
 

当時、義務教育は尋常小学校までで、その上には地域や学費、男女別などの違いで高等小学校(2年)、中学校(5年)、女学校(5年)などがあった。

その中でも中学校に進むのはある程度お金に困らず、勉強も出来る比較的エリートな存在といえよう。

国会議員の息子で成績優秀な巌が中学校に進むのは当然だった。

巌は、祖父母の助言に従って家を離れ、いずれ受験する一高に近い祖父母宅に居候することになった。

さらに小学校での成績を教師らから認められて、級長の上の、学年の総長に選ばれた。

だが、史絵と別れた巌は、気力も何もかも抜けてしまったようだった。

勉強もせず、読書も悪友から借りた春本などの悪書を読みふけるばかりで、たびたび学校をさぼり、ぐうたらな毎日を送った。

そんな巌だから、ただでさえ生え抜きの生徒たちの中で、成績は急降下していき、2年生にあがるころには、中ぐらいから中の下までをうろうろするくらいになってしまった。

たまに顔をあわせた継母などは聞こえよがしに

「十で神童、十五で才子、二十歳をすぎればただの人、というけれど、ただの人になるのが早すぎるんじゃないかえ」

とさも楽しそうに嫌味を言ったが、巌は我関せず、と無視した。

その継母の生んだ子供たちは、学習院に小学校から入ったのだが、その成績は今の巌とどっこいどっこいだと祖父宅にいる書生から聞いていたからだった。

悪友とつるんで自堕落な暮らしに耽る巌を、祖父母、及び父はおおむね静観しているようだった。

巌が心の拠り所にしていたのは史絵からの便りだった。

懐かしい手跡が書かれたそれを、巌はそれこそ宝物のように扱かった。

それだけを秘蔵の文箱に入れ、日に三度、必ず目にするようにしていた。

しかし、それも2年、3年と時が経つにつれて心惹かれなくなっていった。

ときおり思い出して取り出すこともあったが、それが何になろう、と巌はため息をついた。

どんなに思っても、所詮、他人の人妻なのだ……。

手に入れられないものに対して興味をなくしていく現金な自分に対し、

大人になったのだ、と嬉しくも、また、こうやって次第に薄汚くなっていくのだろうか、寂しさをも覚えた。

 
 

中学も4年の終わり。巌は一高(のちの東大)を受験し、当然のことながら落ちた(当時は中学4年で高等学校を受験できた)。

合格発表を見に行った巌は、それほどショックを受けなかった。

ろくに勉強もせずに、遊んでいたのだから当然の報いだ、と思った。中学四年で受験できただけでもめっけものだったのだから。

しかし、しばらくの間、巌は合格者だけが張り出された紙をしばらく眺めていた。

「鷹枝君、君も不合格か。悲しいのう」

悪友のうち一人、平岡が背伸びをするようにして、巌の肩にがしっと腕をからみつけてきた。

「なあに、来年もあるさ。今年は腕試し、腕試し」

我ながらカラ元気な声だと思った。

「さりとて、気晴らしをせねば、耐えられないのう。俺はセンシティブだから」

「行くか?」

「行こうぞ」

巌は、同じように一高に落ちた平岡と門田、犬飼と昼間から酒を飲みに行くことにした。

悪友は皆、

「我は○○小ではいつも1番だった」

と威張りながら、遊びすぎが祟って今は……、という巌と似たクチである。皆だらしなく髪を伸ばしているところでも似ていた。

「ヤケ酒は身にしみるなあ」

門田が言った。彼はすでに顔が赤い。

3人がいるのは、縄のれんの居酒屋である。

まだ暗くなるのには間があるのに、3人で銚子がすでに5本開いた。

カラのとっくりをくるくる回して、とっくりの先が差した人間が一杯飲み干すという遊びをしていたものだから、酒はどんどんあいていく。

「ヤケ酒というほど勉強したのか」

巌は笑いながら、とっくりが指してもいないのに、酒をついで口に運んだ。

この中学の4年間で巌が身につけた、他の追随を許さない才能といえば、酒の強さだろうか。

さすがは薩摩隼人の血筋などと、変な褒められ方をした。

「やれ巌君は現実的だのう……」

平岡が、箸で皿をチンと叩きながら、好色な目でへらりと笑った。

「で、このあと……行くか?」

「それはいい。グッドアイデアだ。不合格の不名誉は、女に癒してもらうのが一番だ」

それが好きな門田も犬飼も賛成した。ちなみに行き先は遊郭である。

「巌君は……どうする」

「俺はまだ飲み足りないから、そっちはいいよ」

巌は、あいかわらずおちょこを口に運びながら、そっぽを向いた。

「やっぱり」

3人は同時に声をあげた。

「鷹枝巌君。これを機会に童貞なぞ、捨ててしまった方がいいぞ」

「同感同感。巌君ならモテモテで選りどりみどりだろうに」

巌はおちょこから目をあげた。

その目は鋭くて、3人はギョッとした。

3人が縮み上がるのを見届けたので、巌はとっくりの酒に視線を戻して酒をペロッと舐めた。

もう1つの巌の特技は……喧嘩だった。

泥酔して乱闘になったときも、絶対に負けなかった。

刃物を持ったヤクザと対決して降参させたこともある。

そのとき、ヤクザの持った匕首は巌の眉を掠った。

そのときの傷が、右の眉尻に残っている。

 
 

「今もあるの?その傷」

将は、血は争えないなあ、と思いながら訊いた。

「おう。眉を見てみろ」

将は、長く伸びた巌の白い眉毛をかきわけた。

傷は、あれから80年以上も経つのに、たしかに痕跡を留めていた。

 
 

ケンカと酒命、つまり現代でいえばハードボイルドな奴として悪友から一目置かれていた巌だが、不思議に女遊びだけはしなかった。

年頃の健康な男子として、おおいに誘惑はされたのだが、いつも……心のある一部分が引っ掛かって、遊郭に足が向かわなかった。

引っ掛かった一部分とは……まさに史絵だった。

すべて忘れてしまったような自堕落な日常の中で、そこだけが忘れた頃にときどきうずく。

今度こそ遊郭に足を踏み入れるぞ、と思うたびに、なぜか史絵の泣き顔が浮かんだ。

――あれから4年。

ちらかりきった部屋の中にある、清らかで儚いカットグラスのような心を、巌はもてあましたまま16歳になっていた。

 
 

「梅毒になっちまえ。いっそ鼻がもげりゃいいんだ」

巌は挨拶代わりに毒付きながら、悪友3人と別れると、酒を冷ますべく桜並木にやってきた。

まだ飲み足りない、というのは遊郭を断る口実に過ぎなかった。

最近は、祖父母も巌の乱行を心配しているのが、ありありとわかった。

口やかましく言わず、何も言わないで心配しているのが、巌には一番こたえた。

「サクラチル、か……」

身長5尺8寸(約174センチ。当時の16歳としてはかなり長身)になった巌だから、桜の枝になどすぐに手が届く。

だが、肝心の桜は、まだ蕾も固くこごったようだ。

桜の枝枝に、春の夕陽が細く反射していた。

その枝に浮かんだ桃色の方が、桜の花などより、よほど美しいように思えて、巌は手をかざして夕陽を眺めた。

さすがに日没直前とはいえ、直射日光は巌の目を眩ませた。

巌は眩んだ目で、桜並木に向き直った。眩んでよく見えない目に、向こうから女がやってくるのが見えた。

巌は、よく見えないながらも、その小柄な体型、歩き方をどこかで見たように思った。

視力が回復するに従って、心臓がごとり、と動いた。

――まさか。

巌は、酒のせいで乾いた喉をごくっと動かした。

ごとり、と動いた心臓は、巌の全身を揺らすように、どくん、どくん、と脈打ち始めた。

女は何も気付かずに、伏目がちにこちらへ歩いてくる。

……その女は、まさしく史絵だった。

「……森村……先生?」

巌は声をかけた。

史絵のほうは、最初、自分を呼んだ人間が誰かよくわからなかったらしく、驚いたように身構えた。

無理もない。背は伸び、低い声は完全に男のものだ。そしていがぐりだった頭は、伸び放題のボサボサだ。

自分でも優等生だった小学生の頃の面影はまるでない、と思う。

僕です、鷹枝です、と言おうとしたそのとき、史絵の目が見開いた。

「た、鷹枝君?……そうなのね」

「先生!お久しぶりです」

「大きくなって……」

史絵は懐かしそうに巌を見上げた。

巌も嬉しさのあまり、言葉を失ったまま史絵を見つめた。

史絵は……キラキラ光る瞳や、色白で広い額は変わっていなかった。

いや、あのころよりさらに色白になった気がした。

丸かった頬は肉が削げたようになり、全体に華奢な印象になっていた。

史絵は、いったん嫁にいったのだが、4年近くたっても子が出来なかったために、離縁されて、東京に戻ってきたのだった。

 
 

「ひどい。大正時代になってもそんなことがあったんですか?」

思わず聡が口にした。巌はうなづいた。

「そうじゃ。むしろ、一夫一婦制になってからのほうが、そういうことは増えたはずじゃ。江戸時代は側女を許していたからのう。

だから跡取を生めない妻を離縁して、若い女と再婚することは、跡取が重要とされた家ではよくあったんじゃ。

森村先生は、もう27歳になっていたからのう……」

26歳の聡は自分の年齢に近い当時の女性の不幸に胸が痛んだ。

 
 

巌にとっては幸運なことに、史絵は、巌が身を寄せている祖父母の家の近くに、女一人で間借りしていた。

当時、女の独り暮らしはとても珍しく、なかなか部屋を貸してくれるところはなかったのだが、幸い前田藩時代の父の知り合いが貸間を手配してくれたのだという。

まもなく巌は手土産を持って、そこに足しげく通うようになった。

『勉強を教えてもらう』という名目である。

巌は、目の前にいる史絵を『これぞ運命だ』と熱い瞳で見つめた。

氷漬けになっていた少年の恋情は、史絵の実体を目の前にして、いっきに溶けて燃え上がった。

『結婚はもうこりごり』。そんな風に笑う史絵はどんな苦労をしてきたのだろうか。

お茶を入れる細い指は、関節ごとにひび割れて、痛々しい肉を見せた断面が指の動きで開いたり閉じたりした。

よく見ると、首も筋が浮き出るほど細くなっていた。

全体に脂肪がとれ、造作が浮かび上がったような顔は、その目と睫をいっそうくっきりと見せた。

それは却って美しくなったといえるが、巌にはせつなかった。

――俺だったら、先生をそんな目にあわせない。

巌は、史絵が受けた仕打ちを想像して、唇を噛んだ。

史絵は、そんな巌の気持ちを知ってか知らずか、淡々と勉強を進めた。

史絵の部屋は、家主の庭にある、文机だけを置いた簡素な6畳間の離れである。

台所や厠、風呂は家主と共同という、つましい暮らしの中で、史絵は自らも懸命に勉学に励んだ。

「流行の職業婦人として一生を仕事に捧げるわ」

冗談めかしてそんなことを言う史絵だったが、仕事に一生を捧げるというのは本気らしかった。

だから小学校の教師にもかかわらず、巌の受験勉強の指導もほぼ完璧にできた。

 

史絵と巌が再会して半年以上が過ぎた。

史絵と再会してから、巌の成績は生き返ったようにぐんとあがった。

身なりもきちんとし、悪友と遊び歩くこともめったになくなった。

そんな晩秋も深まった日曜日。

いつものように、本を片手に、縁側から史絵の部屋に入ろうとした巌は、家主宅のほうから女の話し声が聞こえるのに気付いた。

どうやら一人は史絵のようだった。

部屋の前の落ち葉を松葉箒でかき集めたあとがある。

箒がきちんとしまわれずに、垣根に立てかけてあるから、掃除をしているところを呼ばれたのだろう。

「史絵ちゃん。あの背の高い学生さんとはどういう関係なんだい?」

相手は家主夫人らしい。

「昔の教え子ですけど」

毅然とした史絵の声がする。それに対して、家主夫人のこえはあくまでも下出だった。

「そうかい。……こういったら何だけど、近所で噂が立ってるんだよね」

「噂って、何の噂ですか」

史絵の口調はあくまでもハッキリとしている。まるで教壇に立っているときのようだった。

家主夫人は、よくわからない問題を当てられた子供のように、さもいいにくそうに

「……あんたが、学校の先生様なのに、男を連れ込んでるってさ」

それでもはっきりと答えた。

「まあ……。ホホホ」

思いがけない史絵の笑い声に、巌は思わずそっちに身を乗り出す。

だが、丸く刈り込まれたツツジと散りかけたモミジに邪魔されてよく見えない。

いったん笑った史絵だが、それをピタと止めると、おもむろに言い放った。

「あの子は、私の教え子です。

あの子の名誉のために、男を連れ込んでるなんて言わないよう、今度から噂をする人に奥様から言っておいてくださいましな」

家主夫人の返事は聞こえなかった。

たぶんあっけに取られた顔をしているのだろう、と巌は前にみかけたことがある家主夫人の、頬が垂れた顔を思い浮かべた。

「わたしのことは、どんな風に言っていただいてもかまいません。だけど、教え子は将来ある身。間男扱いしないよう、重ねてお願いします」

思わず、巌は声がするほうの庭先にさらに一歩進んで半身を傾けた。

赤くなったモミジの葉陰に、巌は深々と頭をさげる史絵を見た。