「皮肉なことに、先生の縁談が調ったことで、わしは自分が先生をいかに好いているかを……先生がわしにとっていかに大切な存在かを確認したのじゃ……」
巌は、細めた目を、杉板天井のあたりに漂わせていた。
「でもさ。ヒージー。先生は、お母さんが病気っていう連絡で帰ったんだろ」
将はそのまま疑問をはさむ。
「あの当時、『ハハキトク』の電報は切り札でな。あれで田舎に呼び戻されて、見合いの席が用意されていた、というのはよくあったことなんだ。実は母親はピンピンしていてな」
「なんだ。それじゃ親の陰謀ってわけ?」
将はまるで自分が陰謀にハメられたように口を尖らせた。
「ハハハ……そういうことじゃのう。あの時代、20をすぎた娘が独身だったら、親はそれぐらいのことを画策して当然だったのじゃ」
巌は力なく笑った。
史絵の実家はI県で前田家に仕えていた武家である。
当時女性は学問など身につけず、早々と嫁に行くのが美徳とされていたが、進歩的だった史絵の父は、学問ができる史絵を女学校にやり、さらに師範学校にやった。
史絵はそんな父を大変に尊敬し、感謝していたが、その父は史絵の師範学校卒業を見ずに亡くなってしまった。
父が亡くなって母は元の領地で、老いた舅夫妻がいる○○村に移った。
史絵を教師にしろ、というのは父の遺言だったから、いったんはそれを守り、東京の帝大に進んだ長男のもとへ送り出したが、23にもなる娘にトウがたつのを心配していた母だ。
ついに強硬手段を用いたのだろう。
史絵は、おそらくそれに感づいていたに違いない。だが電話もない時代だ。
『ハハキトク』の電報の真偽は行ってみるより確かめる手段はない。
そして、まんまと見合いをさせられたのだ……。
結婚がきまった史絵は、2学期いっぱいで退職することになった。
本当は、すぐに辞めて10月には輿入れせねば、と母親は急いたのだが、史絵は『せめて卒業まで』と泣いて訴えたらしい。
そこで中間を取って、年内、つまり2学期いっぱいとなったのだ。
輿入れは4月に行われるという。
おそらく桜の花の下、白い綿帽子をかぶるであろう史絵はどことなく輝いて見えた。
そんな史絵を巌は盗み見ては、目があいそうになるとそらした。
そんな巌に、とうとう史絵のほうが声をかけた。
ある日、そっけなく帰ろうとした巌は史絵に呼び止められた。
「鷹枝君。夏休みの宿題の綴り方、また学校代表として市のコンクールに出されたわよ。おめでとう」
巌は、秋口なのに、すでに餅のような白い色になった史絵の広い額を一瞬見て、目をさっとそらした。
「ふん。……おめでたいのは、そっちだろ」
「あら。ありがとう」
史絵は素直に頬を染めた。
「……そんなに嬉しいのかよ」
史絵はそれには答えずにまっすぐに巌を見下ろした。見下ろす角度は年々鈍くなってきている。
まもなく……、その目は史絵と対等なラインになるだろう。
そして逆に巌が史絵を見下ろす日がくる。
……その日を巌は、心から待っていたことに気付く。
胸が苦しい。灼けつくように、そして息ができない。酸欠状態の脳がこんなことを巌に言わせる。
「卒業まで、一緒にいるって言ったのはどこのどいつだよ」
これは事実だった。巌だけに言ったのではないけれど。
『皆さんが卒業証書を受け取る日まで、一緒にいます』
史絵はたしかに教壇の上からそういったはずだ。
「嘘はいけない、って教えたのは、先生じゃないかよ」
史絵をなじる言葉は、あとからあとから出てくる。
本当はこんな風に責めたいんじゃない。
史絵がいなくなることを考えると気が変になりそうだ。
史絵に見守られない自分は、いったいどうなってしまうのだろうか。
史絵のいないころの真っ暗闇に戻りたくない。
――いつまでも一緒にいてほしい。
巌はこみあげてくる自分の思いに耐えられなくなり……。
「で、チューしたんだ」
ニヤニヤして先回りした将は、巌に
「たわけ」
と目を剥かれる。聡が『もう』と軽く将を睨むように笑みを浮かべる。
「まだ12だぞ。今はどうかしらんが、当時の12といったらまだ子供じゃ。小柄だった先生より背丈も低かったしな。
……わしは、先生を見ているのがつらくなり、逃げ出したんじゃ」
巌は、史絵に背を向けると、走り出した。
あまりに全力疾走をしたせいか、下駄の鼻緒が切れて砂利道で転んだ。
かまわずにそのまま、裸足で走る。気がつくと巌は、川原に来ていた。
そこは、何度か史絵とひなたぼっこをしながら、本を読みあった場所だ。
この3年あまりの間に、それは10回以上に及んでいた。
堅苦しい文語調も、史絵が読めば、温かい人情話が見えてくるようだった……。
巌は草むらの中に無理やり転がると空を眺めた。
目じりを溢れた温かいものは、9月も終わりの風に吹かれてしだいに冷ややかに、耳の後ろへと流れていった。
――先生が、嫁に行ってしまう。
巌は、鰯雲に花嫁姿の史絵を描こうとした。
しかしそれは巧くいかぬうちに、涙でくずれた。
――先生が、手のとどかないところに……。
巌は声をださずに嗚咽した。
それから。
2学期の間、巌は史絵を無視した。
史絵のほうは、何度か話し掛けようと試みたらしいが、それを頑なに拒否した。
本当は……巌は待っていたのだ。
拒否しても拒否しても、史絵が『新しいご本を持ってきたのよ』と声をかけてくれることを。
そっぽを向く自分を無理やりにでも、史絵のほうに向かせることを。
実際、いままでの史絵は、それぐらい強引に巌に指導をすることもあった。
『話をききなさい!いいですか?』
……だが、史絵は、もはやそこまでしてこなかった。
声をかけようとした手は宙をさまよい、一定のラインで止まる。
「やはり、おなごは結婚がきまるとおとなしゅうなりますなあ」
校長や教頭はそう噂した。史絵が竹刀を持って悪ガキ退治をするところは、学校の名シーンだったが、
この2学期の間、ついにそれを見ることはなかったからだ。
そして、ついに2学期の終業式。
どことなく濁った師走の空は、いまにも白いものをちらつかせそうだったが、まだ風花が舞うばかりだった。
史絵は、いつもの袴姿ではなく、羽織姿で教壇に立った。
結婚を控えた娘にしては、地味な色であったが、そのいつもと違った様子は、あきらかに生徒との別れを意識していた。
「皆さん、卒業まであと3ヶ月です。先生は皆さんより一足先に卒業しますが、風邪など引かぬようがんばって勉学に励んでください」
皆に通知表を配り終えた史絵は、張りのある声で教壇の上から皆に最後の言葉を語りかけた。
そのとき、一番前の生徒は、木製の教壇からパタパタと小さな音が響くのを聞いた。
教壇にはすぐに小さな水溜りができた。
生徒たちは皆、ハッとして顔を上げた。
史絵が涙を流しているのだ。
史絵は、涙で、今までにないほど顔を歪ませていた。
漏れそうになる嗚咽を引き結んだ唇で必死で堪えている……そんな苦しげな顔だった。
小さな丸顔は、すでに紅潮して桃色になっていた。
「……皆さんは。……私の、最初の教え子でした。だから……絶対に卒業するところを見たかった……」
振り絞るような声は初めて聞くものだ。
前に座る女子の肩が震えているのを巌は見た。
女子たちは、みんな堪えられずに下をむいて袂を目にあてていた。
男子も、あるものは唇をぎゅっと結び、あるものは膝の上で拳を握り締めている。みんな泣き出しそうになるのを耐えているのだ。
巌は……泣きもせず、ずっと史絵の顔を見ていた。
史絵は、顔を涙でぐちゃぐちゃにしながらも、その顔は正面を向いていた。
そして、おもむろに生徒一人一人の顔を焼き付けんとするばかりに、涙まみれの瞳で生徒をじゅんぐりに見つめはじめた。
そして、巌の番が来た。
「そのときの森村先生の目は、ウサギのように真っ赤でな。それでわしは、2学期の間中先生に冷たくしたことを後悔したんじゃ」
当時のことを思い出したのか、ほんの少しだけ、巌の瞳にうつる光がゆがんだ。
最後に、史絵に詫びたい。
帰宅した巌は、ありったけの小遣いを握って、乗合馬車に乗ると、そのまま駅に向かった。
史絵は、終業式を終えたらそのまま、郷里に帰るといっていたからだ。
何時の列車に乗るかわからないので、巌は改札で待ち伏せした。
師走の駅は、帰郷する人、そしてそれを見送る人でごったがえしていた。
だが、懐かしい人はすぐに見つけられた。
煮締めたような色の人々の群れの中で、史絵は季節外れに咲いた桃の花のようだったからだ。
「先生ーっ!」
巌は史絵を見つけると駆け寄った。
史絵はたいそう驚いたようで、目を真ん丸くした。
だがすぐに、目を細めて優しい顔を巌に向けた。
ごったがえすホームで、二人は対峙した。ホームにはすでに史絵が乗る列車がタールのような色の機関車に続いて止まっている。
巌は、勢いで駆け寄ったものの何を話していいかわからなかった。
吐息だけが、暗い色合いのホームでやたら白く目立つ。
「見送りに……来てくれたの?」
史絵はその美しい澄んだ声を巌だけに向けた。
巌は、無言でうなづいた。
「ありがとう」
史絵は、今までにないほど、とびきり優しい口調で礼をいった。
そして、巌の肩に手をおいた。
風花が舞うような寒さの中、肩だけに春が舞い降りたように暖かくなった。
「鷹枝君。中学に入っても……がんばってね。……きっと、きっと偉くなるのよ」
「先生。僕、先生がいなくなったら、独りっきりになっちまうよ」
本当はこんなことを言いにきたわけではないのに。
先生を祝福して、送り出そうと思ってやって来たのに。
ひとりでに恨みの言葉が口に出てしまった。
「独りじゃないわ。鷹枝君にはお父様だっていらっしゃるでしょう」
巌は首を横に激しく振った。
「先生。いかないでくれ。嫁になんかいかないでくれ。ずっと僕と一緒にいてくれ」
心のままを口にしながら、巌の目からも噴き出すがごとく涙が湧き出していた。
涙の勢いに押されて鼻水も一緒に出る。みっともないが、とめられない。
史絵は、羽織の襟元から懐紙を取り出すと、巌の涙と鼻水を拭き取ってくれた。
しかし、あとからあとから湧き出すものだから、懐紙は何枚も使われることになった。
巌は、肩どころか全身を震わせて、湯気を出すようにして、泣きに泣いた。
声は歯を食いしばって押さえたけれど、そのせいか鼻の奥がつーんとしてくる。
「……鷹枝君。先生はずっと一緒にいるよ」
史絵は、震える巌の肩に両手を置いて、見下ろすと確かにそういった。
「本当か?嫁に行くのを止めるのか」
巌は涙でぐちゃぐちゃになった顔をパッと輝かせた。
史絵は少し困った顔をして首を横に振った。
「いつだって、見てるから。先生ね。……巌君のこと、遠くから、ずっと見守っているから」
「そんなのいやだ」
巌は涙を飛ばしながら首を振った。
そのとき、ホームに止まった蒸気機関車が悲鳴のような汽笛を鳴らした――大量に吐き出された白い蒸気はホームにまで流れてくる。
出発の合図である。
巌も、史絵も、ハッとしてその激しく噴き出した蒸気に一瞬気をとられた。
「……巌君、元気でね。本当に見守っているから」
史絵は意を決したように、巌を見つめた。
そして巌の頬に新しく流れた涙を懐紙で拭き取ろうとして、それがないことに気付く。
史絵はハンカチーフを取り出した。それを右手に持って、涙まみれの頬に両手を添えた。
その手は、温かくて柔らかかった。……そのぬくもりこそ……おそらく、巌が一番ほしかった、憧れたものだった。
「先生」
史絵はハンカチで巌の涙を拭くと、それを手に握らせた。
もう時間がない。車掌が急ぐように声をかけてくる。
「えらくなるのよ。いいわね」
史絵はそう言い残すと、巌に背を向けた。その背を向けるまぎわ、史絵の目は涙で光っているように見えた。
「先生」
それを確かめようとして史絵を追った巌は、客車に乗り込まんばかりに近寄ろうとして駅員に止められた。
そして列車は、ゆっくりとリズミカルに力強く車輪を回して走り出した。
そのとき、史絵が……名残を惜しむように、巌から少し離れた客席の窓から顔を出した。
「元気でね」
蒸気機関車の音に負けないよう、史絵は叫ぶように巌に最後の呼びかけをした。
巌は駅員を振り払うと窓の史絵を追った。
史絵は自分のために涙を流しているか。それを確かめたい。
歩いて追いつけるスピードの列車なのに、駅のホームには同じように別れを惜しむ人が大勢いる。
それをかきわけるようにして巌は、列車の窓を追いかける。
しかし、次第に車輪の回転速度はあがり……巌がやっと人波を乗り換えたころには、全力疾走しないと追いつけないスピードになっていた。
「先生っ、先生ーっ!」
下駄を投げ出すようにして巌は懸命に走った。
マフラーがほどけて、ホームに落ちる。
着物の襟は羽織の下ではだけ、下駄のない足袋はあっという間に擦り切れ、裸足同然になったがかまわず巌は走り続けた。
だが、とうとうホームの端まで来ても……巌は、史絵に追いつくことができなかった。