第290話 運命(1)

将は、早朝だというのに足取りも軽くマンションを出た。

朝の陽射しは、いつのまにか暖色を帯びているというのに、空気は驚くほど冷たい。

だけど浮き足立つ彼には……北海道帰りだということもあるが……

夏がいってしまったことも、東京の空がいつのまにか高くなっていることにさえ気付かない。

9月に入るなり、北海道ロケが続いた将にとっては久々の登校だった。

もう9月も彼岸を過ぎてしまっていた。

 
 

1月から始まる元倉亮脚本のドラマは、蓋を開けてみると、ほとんど将が主役も同然だった。

将の役どころは、バイクで北海道を旅している途中、愛車を盗まれて、そのまま民宿にいつく青年だ。

いちおうトップクレジットは民宿の主人を演じるベテラン俳優になっているが、物語を実際に引っ張っているのは将だ。

脚の抜釘手術を終わらせた将はすぐさま北海道へ飛ぶことになった。

9月の北海道は、すっかり空が高くなり、陽光は金色がかった柔らかなものとなっていた。

秋は気配どころか、いきなり北の大地を澄んだ空気で覆ってしまったかのようだった。

舞台はB町にある本物の民宿のセットで行われた。

波打っているようななだらかな起伏の地面が、すべて畑で覆われている真ん中にある。

木々が色づく寸前に、夏のシーンを撮ってしまうのだという。

陽射しが「夏らしい」感じになるのは昼間のほんの2~3時間で、その時間を狙って撮影は集中的に行われる。

他の時間はゆったりとしていたので、将は待ち時間に

「この撮影用のバイクに乗って、このへん回ってきていいですか」

などと申し出たほどだ(もちろんダメだったが)。

仕方ないので、宿舎や車の中でセリフを覚える合間に、聡にたびたびメールを送った。

美しい風景に出会うたびに、それを携帯で撮影して添付する。

それは、朝霧が夢のように晴れていくアスパラ畑だったり、茜色に燃える夕映えの下で並ぶポプラ並木のシルエットだったり。

それに対して、聡は忙しいのか、返事は1日に1回程度、それも短いものばかりだったが、それでも将はメールを送らずにはいられない。

撮影待ちや宿舎で一人になると、あの夜のことが思い出される。

せせらぎに包まれて聡を抱いた幸せな夜。

「何、ニヤニヤしてるんですか」

武藤の代わりについてくれた若いマネージャーがけげんな顔をした。

目の前に広がるにんじん畑に聡の姿を思い出していた将は、「なんでもないよ」といいながら伸びをして誤魔化した。

 
 

 
「あ、鷹枝くん」

まだ時間が早いのか、教室にいた数少ない生徒の中で、星野みな子がまっさきに将に気付いた。

「よー、みな子。オハヨ」

将は入り口をくぐるようにしてみな子に手をあげた。

みな子は嬉しそうに授業のコピーの束を持ってきた。

みな子とも……ときおりメールを交わしていた。といっても、みな子から来るときは事務的な連絡がほとんどだ。

>2学期から、進学希望者とそうでない人に授業が分割されたよ。鷹枝くんは進学のほうだよね?

>そろそろ推薦入学を希望する人は相談するようにって。

そのたびに、将は

>いつもサンキュ

という文言と一緒に、お礼代わりに待ち時間中に撮った撮影風景などを添付してやる。

それは聡に送ったのと同じ畑の風景だったり、美しい白樺並木だったり、または共演者との寛いだ写真だったりした。

これはみな子が容易に、画像をネット上などに流出させるようなことをしない、とわかっているからできることだ。

みな子は、親しげに将の机に手をついて

「あのね。昨日言われたからメールしなかったんだけど、進学希望者は10月の全国模試を受けるようにって」

と新しい連絡事項を教えてくれた。そして

「今日は、補習までいられるの?」

と訊いてくる。

「うん。今週は学校週なんだ。仕事は放課後にちょっとだけ。今度のドラマは1月から放送だから『ばくせん』のときみたいに拘束厳しくない」

頬杖をついた将はみな子を見上げながら答える。

その、いかにも親しげなようすを見た他の女子生徒は

「やっぱり……」

と囁いている。

みな子は今や、聡に代わって、将の彼女とされているのだ。

当のみな子もそう言われていることを自覚している。

わざと、他のクラスメートに親しいところを見せているのだ……カモフラージュのために。

『本気で好きだから、今は離れている』

将の聡への思いを聞いたみな子は、自分の入る隙などない、と諦めた。

それと同時に、それでも将のことが好きな気持ちは消せないことを知った。

本気で好きだから、という理由で将が聡と離れていられるなら。

将のことを本気で好きなみな子だって、将の恋を……将が幸せになるのを応援したい。

聡に汚い嫉妬をぶつけるより、自己を殺して将のために献身的に尽くす。

こっちのほうがよほど救われる。

もちろんいつか、二人が別れてしまったときは、みな子に手が差し伸べられるかもしれないという計算もある。

だけど、それよりむしろ、仮に将と聡がこのまま結ばれたとしても笑って『よかったね』といってあげたかった。

そうすれば、少なくとも友情は続くだろうから。

初めての恋が、嫉妬に狂って泣いて醜い終焉を迎えるより、かけがえのない友情に転化するほうがずっとマシだとみな子は思ったのだ。

だから、みな子は、将が聡のことを諦めたかのような演技に協力すべく、将に親しげに振舞っているのだ。

みな子の気持ちをどこまで知っているのかわからないが、将もみな子の協力には感謝しているようで、何かの拍子に

「みな子、めちゃくちゃいい奴だよな」

と言ったことがある。

その一言で、みな子は思わず泣きたくなるほど救われた。もっともっと、何でもしてあげたいと思う。

そして……みな子にはさらなる希望を持っている。

「鷹枝くん、W大の一芸入試受けるんだよね」

みな子は、確認のように将の顔をのぞきこんだ。なんだか夏休み前より大人っぽくなった気がする。

「うん。いちおう、そのつもりだけど」

「あたしもね。ムリだとは思うけどW大受けてみる」

そうだ。……来年将と一緒にこの東京で大学生になる。それがみな子のささやかな希望なのだ。

「ホント?じゃ来年も一緒にガッコーいけるんだ」

「でも、こないだの模試、D判定だったからムリっぽいけど」

「今から頑張れば大丈夫だよ。みな子頭いいもん」

将の、この笑顔は、自分を歓迎しているのだと思いたい。

 
 

「お、将じゃん!学校やめたのかと思ったぜー」

井口が入り口でバカでかい声を出したかと思うと、そのまま将とみな子のほうに寄って来た。

「何、朝からいちゃついてんのヨ」

「いちゃついてないー。コピー渡してるだけだし」

井口の軽口に、みな子は軽く反論した。しかしそれも、計算づくだ。

案の定井口は

「あんまりベタベタしないほうがいいぜー。こないだどっかネットで『SYOの彼女は同級生らしい』って書かれてたぜ」

などと答える。

うまくいってるんだ、とみな子は内心ほくそえんだ。

あとで、将にこっそり『カモフラージュ作戦、うまくいってるようだね』とメールしようと思いながら、みな子は将の机をあとにした。

 
 

そのあとまもなく朝のHRが始まり、聡が教室に入ってきた。

半袖ではなく、固い生地のパンツスーツを身につけている。その姿は昨年、赴任してきたばかりの姿を思い出した。

教壇の上に立ち、教室を見渡した聡と、いち生徒として席についた将は一瞬目が合った。

引き剥がすようにして聡が視線をそらすのがわかり、将は軽く俯いた。

毛細血管に及ぶまで、すべての血液の中の鉄分が聡にひきつけられるような感覚。

あの、清流荘で抱き合ってから、もう3週間以上が経っているのに、将の中に残る聡の感触は、聡を求めてU字磁石に引きつけられる砂鉄のようにけばだっている。

将は、聡に逢えた喜びを全身で噛み締めた。

おかげで、聡が教師として何を言っていたのか、ほとんど聞いていなかった。

気がつくと生徒たちがザワザワと移動を始めていた。

生徒のうち半分が、教室を出て行くようだ。

「鷹枝くん、ここいい?」

みな子が席を移って隣にやってきた。

「え?今から何、英語じゃないの?」

「やーね。こないだメールしたでしょ。これから国語と英語は進学希望者とそうでない人で分かれて授業があるって」

みな子によると、進学希望者はこの教室で聡が教え、そうでない生徒は、視聴覚室で今まで通り映画や音楽を元に権藤が教えるという。

3年1組の進学希望者と合同の授業なので、席のほうは自由らしい。

将のもう片方の隣には「よぉ」と手をあげながらカイトが移ってきた。

「何、おまえも、進学すんの?」

およそそうは見えない赤毛のカイトを将は見つめた。

「ウン。俺さ、ゲーム会社に勤めたいんだ。……て、やっぱ学歴あったほうがいいじゃん」

カイトはやや照れて、それでも真面目な顔でプリントを広げた。

去年、毎晩のように将の家にたむろして、ときに女の子に悪さをしていた仲間とは思えないこの変わりよう。

やっぱり、人間、方向性が定まると、自然に努力するものなのだ。

まだ授業が始まるのに間があると思ったのか、カイトは将にいたずらっぽい顔で話し掛けてきた。

「そういやさ、井口に彼女できたの知ってる?」

「え、何それ」

「なんか、夏休みにどっかでパン屋の研修みたいなやつがあって、それで知り合ったらしい」

そういえば井口は毎朝、近くのパン屋にバイトに行っていた。

しかし、研修に参加するほど嵌っていたとは、将にとって初耳だった。

「ウッソー。あいつパン屋になんの?」

「さー、よくわかんない。でもダンサーの夢も捨ててないらしいけど」

そのとき、聡が再び教室に入ってきた。

さっきは気付かなかったけれど、ひどく顔色が悪いと将は気付いた。

黒っぽいスーツと対照的に、蒼ざめた顔は紙の様だ。

CDラジカセをひどく重そうに教卓に置いた。将の知る限り、いつもはそんなことはない。

それでも聡は声を張り上げて

「じゃあ、今から簡単な英文を3回掛けます。何て言ったか、ノートに書いて見てください。適当でもいいですからネ」

と言った。無理やりつくる笑顔が少しつらそうだ。

CDを掛けているあいだ、椅子に腰を下ろしてテキストに視線を落としている聡は、心もち眉根を寄せているような表情だった。

あきらかに具合が悪いのを耐えている。

そんな聡に気を取られていた将は、ロクに聴き取りできなくて、ノートは白紙に近かった。

何人かを当てたあとで

「じゃあ、正解を書きます……」

と聡が立ち上がった次の瞬間。

黒板に向かい、チョークを持った手をあげようとした華奢な体がぐらりと揺れた。

スローモーションのように崩れていく聡の姿に気をとられている矢先に、大きな音が響き、居合わせた生徒たちはハッとした。

聡は教壇の上に倒れたまま、動かなかった。