第289話 夢一夜(6)

ジリリリン、ジリリリン。

なんとも古風な電話の音が部屋に鳴り響き、重なり合ったまま眠っていた二人は同時に目をあける。

電話は、せせらぎも蝉の声も黙らせんばかりの勢いで、まだしつこく鳴っている。

上と下とで顔を見合わせると、上にいた将が、枕の先にある電話へ、文字通り這うように向かった。

――あ……。

そのとき、最後の1回を終えたまま聡の中にいた将が……ぬるりと抜けて、生暖かい液体を聡は感じた。

ティッシュに手を延ばす聡は、1つになったまま二人揃って眠り込んでしまったひとときを、温かく、少しだけ恥かしい気持ちで振り返る。

部屋はすでに朝でいっぱいだった。

軒の上にまわった太陽のかわりに、木々の緑が、爽快な色と風を部屋へと運んでくる。それに、裸はまったく不似合いだった。

「ハイ。あ、わかりました。すぐ降ります」

将は裸のまま、電話に答えながら、聡から受け取ったティッシュを使っている。

チン、と置くときまで古風な音をたてて電話を終わらせた将が、こちらを振り返った。

「朝ごはん、できてるって。……今、何時?」

「もう8時20分かな」

携帯で時間を確認する聡に、将が抱き付いてきた。

それは勢いあまって、聡を布団の上に再び押し倒す格好になった。

ひとしきり深い口づけを交わしたあと、次に移行しようとする将を

「9時にはJAFきちゃうんでしょ」

と聡はたしなめた。

将は残念そうに舌を出すと、起き上がった。

「それにしてもすげえな、この散らかり方」

将は二人がいた布団にちらばるティッシュを見て笑った。

暗闇の中で、くずかごがどこかわからなかったので放置していた、二人の体液がついたティッシュ。

それは聡が白バラに囲まれるように眠っていた夜明けより、また増えている。布団からはみ出すほどだった。

くずかごは、壁際に追いやられていた座卓の向こうにひっそりとあった。

聡はさすがに散らかしっぱなしが少し恥かしくなったのか、丸まったティッシュを拾い集める。

その無防備な姿に将は飽かず見とれてしまう。

つい1時間ほど前、朝の光の中で、その体の入り組んだ場所まで慈しみ、記憶したというのに……。

互い違いに折り重なるようにしてお互いの……将のための場所、聡のための場所を丹念に愛撫しあった。

ほとんど手探りのようだった昨夜に対して、朝は愛しい人の触感だけでなく、艶かしい色と形を浮かび上がらせた。

さっき、汗を浮かべて桜色だった聡の肌は。

どこもかしこも蝋のような半透明で、丸く揺れる胸には青い静脈が網目状に走るのが透けている。

聡は集めたティッシュをくずかごに押し込むと、乾燥機から出しておいた衣類を将に手渡し、自らも身につけはじめた。

将は、そんなにきれいな聡の体を服で覆ってしまうのは、なんだかもったいない気がした。

もっと見ていたい……。

しかし、そんな将の願いは叶うはずもなく。

将は仕方なくトランクスを穿くように、自分の欲望もひっこめるしかなかった。

 
 

朝食は、ご飯、みそ汁、浅漬けに干物、卵焼などが昨日の食堂に準備されていた。

簡単ですまないねえ、と奥さんは謝ったが、ふだんの朝食に比べると充分すぎるほどの質と量だった。

「よく眠れた?川の音はうるさくなかった?」

温かいものをテーブルに置きながら、奥さんがやたらにこにこと話し掛けてくる。

もしかして、夕べの秘め事がぜんぶ聞こえていたんじゃないだろうか、と二人は少し後ろ暗い。

大丈夫でした、と答えながら将は訊いてみる。

「あの……、高橋さんは?」

「ああ。お二人が起きる前に出ましたよ」

二人は顔を見合わせた。

どうやら、『行為』に夢中だった二人は、高橋の動きに気付かなかったらしい。

「いつもはもう少しゆっくりしていくのにねえ……」

思わず二人は、茶碗を持ったまま、下を向いた。

 
 

スタッフが気を利かせたのか、9時ちょうどにJAFがやってきた。

二人は宿泊料金を固辞しようとするご主人夫妻になんとか料金を受け取ってもらい、JAFの車に乗り込むと清流荘をあとにした。

明るい中で見ると、清流荘はいっそう古びていた。

屋根が赤いトタンだということも今気がついた。それは古びたおかげで、べんがら色のような色合いになり、周囲の緑と絶妙に調和していた。

さすがに9時にもなると蝉の声に誘われるように暑さが戻ってくる。しかしそれに、東京のような猛々しさはない。

風のひと撫でで、治まるような控えめな暑さの中、二人はミニの応急修理が終わるのを待った。

1時間かからずに修理とバッテリーの充電が終わった。

しかし応急手当だそうで、東京に戻り次第、きちんと修理する必要があるとのことだった。

うさぎを葬ったあたりにもう一度手をあわせて、さっそく出発することにした。

将の抜釘手術がある今日、急いで東京に戻らなくてはならないから。

「面倒だから、手術はもういいよ。のんびり帰ろう」

将はそう言ったが

「だめよ。ずっとこのあとも仕事が詰まってるんでしょ」

と聡がたしなめるように急がせる。

幸い、この道が聡の予測どおり、国道に通じていることは昨日わかっている。

車が故障した場所から、清流荘まで車だとほんの10分たらずだった。

フロントガラスに再び清流荘の姿が見えたとき、将は思わずそれを懐かしく見つめた。

きのう、二人がたしかに結ばれた場所。

将はハンドルを切りながらその古びた赤いトタン屋根の建物を何度も振り返った。

赤いトタン屋根はいつまでも、木々の影にひっそりと見えていたが、国道へ入るととうとう見えなくなった。

「……高橋さん、気付いてたんだよね」

聡がふとつぶやいた。

将は空いている国道を飛ばしながらわざと「何が」と問い返す。

「きのうの……アレ」

「4回もしちゃったこと?」

将はサングラスの中の目を聡にいたずらっぽく向けた。

聡は無言でハンドルを握る将の肩を叩いた。

車が少しだけセンターをはみ出て、将は笑った。

「ね、アキラ」

口をとがらす聡に将は甘い声を出す。

「何よ」

「アレ、やっぱりこのあとも卒業までお預け?」

「……当然じゃない」

「チェー。残念」

聡は、再び見えてきた槍ケ岳に視線を走らせながら、これからどうしたらいいんだろう、と考えていた。

一度は……将のために、将と離れる決意をしたのに。

それが、このところの色々で、すっかりなし崩しになってしまった。

おまけに、昨日ときたら。聡は、自分から誘って、将とむさぼるように愛し合ってしまったのだ……。

聡は、将とのこれからをどうすればいいのか、また不安になる。

このまま、自分の気持ちに素直なスタンスでいいのか。

それとも、再び距離をおくべきなのか。

人気俳優への道を歩む将。

昨日の忍者寺や、千里浜でもファンに慕われれていた……。

そんな将に、自分の存在は、いつネックになってしまうかもしれないのだ。

スキャンダルという意味もそうだし、将自身のモチベーション的にも。

「……キラ。アキラってば」

聡はハッとして振り返ると、視界に将を戻した。

「なに?」

「あのさ。今ごろ言うのもなんだけど……。アキラ、昨日大丈夫だった?」

「?」

聡は、将の言っていることがわからなくて、瞬きをした。

「ニンシンとか。俺、昨日、避妊具持ってなかったし……。思いっきりぜんぶ中に出しちゃったから……」

少しバツが悪そうな将に、ああ、と聡はようやくうなづくと、即座に

「大丈夫」

と答えてあげた。

「ホント?」

将はホッとしたように、顔をこっちに向けた。

聡はもう一度深く頷いて見せた。

規則的な周期をほとんど崩さない聡にとって、昨日は『安全日』といってよい日だった。

将は、いったん「よかった」と顔を進行方向に向けた。

だが、しばらくしておもむろに付け加える。

「……でもさ、アキラ。もしアキラがニンシンしたら、そのときは……絶対に、結婚しようぜ」

将の口調は、自分に誓うようだった。

聡はとまどった。嬉しい、という気持ちと、それでいいのだろうか、という迷いが聡を俯かせてしまった。

まるで聡の中の迷いを見透かしたような言葉に、聡は目の端で将を盗み見る。

しかし、将のほうは、楽しそうにハンドルを握っているだけだ。

どうやら単に将来の希望として、無邪気にそれを口にしただけらしく、聡はホッとする。

「……大丈夫よ。あたし、将に『出来ちゃった婚』なんて絶対にさせないから。それにしばらく妊娠するようなこと、しないでしょ」

将の顔を見ず、槍ヶ岳に向かってそう呟くのがせいいっぱいだった。