第390話 旅立ち(4)

1時間ほど前。

将が以前住んでいた……去年の夏まで大悟と二人で暮らしていたあのマンション。

将の部屋の、隣の住人は、激しい騒音で目を覚ました。

廊下中にこだまする、鉄製のドアを乱暴に叩く大きな音。

自分の部屋の扉ではないものの……それはマンション中の住民に響き渡っていると思われるほど大きな音だった。

若い男の喚き声も聞こえる。

隣の住人はチェーンをかけたまま、そっと扉をあけて様子をのぞいた。

どうやってオートロックの玄関を入ってこれたのか、痩せた若い男が隣の扉を叩いて……ときおり蹴っている。

この男こそ大悟だった。

「将! あけろ!」

叩きながら、しきりにわめき続ける。

隣の住人は……将の顔は知っていたが、生活している時間帯が違うせいか、大悟とは一度も顔をあわせたことがなかった。

「瑞樹を返せ! 返してくれ! あけてくれぇー!」

わめきながらガンガンと拳で力いっぱいドアを殴りつける。

その目は尋常ではなかった。

これだけ叩いて無反応なら留守だとわかってよさそうなものなのに、体当たりさえ始める。

そのドシーン、ドーンという音はマンション中に響いた。

そこかしこの住民が……違う階の住人でさえも固唾をのんで様子をうかがっているのが気配でわかった。

それにしても、鉄の扉にあんなに体当たりしたら、自分の体のほうがたまらないのではないだろうか。

隣の住民は騒音に辟易しながら少し心配した。

まもなく。

とうとう住民の誰かが連絡したのか、管理人がやってきた。

年配の管理人はおずおずと大悟に近づいた。

危害を加えられるのを恐れてか、大悟との距離をとったまま、

「あの……鷹枝さんは、ずっとお留守ですよ」

といった。

急に大悟が振り返ったので、管理人は、反射的に後ろに一歩下がる。

管理人は、目の下に真黒なクマが浮き出た大悟の顔を、やはり尋常じゃないと思った。

しかし、できるだけ穏便に出て行ってほしい。

それゆえに繰り返す。

「鷹枝さんは……ときどきお掃除の方がこられるだけで……ずっとお留守にされてるようですよ」

それを聞いた大悟は、やっと将の部屋のドアから離れた。

そして、管理人には返事もせず、エレベーターに向かう。

その体はふらついていて……すれ違いざまに管理人とぶつかった。

管理人は、あとを追うでもなく、黙って大悟の後姿を見送っていた。

 
 

大悟はエレベーターの中で、小刻みに震えていた。

気がつくとエレベーターの箱の中は真黒な蟻の群れで覆われていた。

蟻は足もとから1匹、また1匹と這い上がってくる。

「瑞樹……助けてくれ」

大悟は震えながら呟いた。

瑞樹の幻影は、目の前にいる。触れようとするが、触れられない。

かわりに、何やってるんだという理性が蟻の群れの中からずるりと心の中から這い出てきた。

大悟は深くため息をついた。

冷汗がこめかみから、背中から流れている。

無意識に内ポケットに手を伸ばす。

――ない。

わかっているのに。大悟は苛立たしいながら、すっかり忘れていた自分が少し可笑しくなる。

正気を保つ薬は昨日の晩で尽きてしまったのだ。

大悟はふらふらとエレベーターを降りた。

どうしてここにいるのか。その理由をもすっかり忘れていたことにいまさら気づく。

幻覚に囚われながらも大悟は……瑞樹の遺品をとりに、ここを訪れたのだ。

――瑞樹。お前、そんなに将のそばにいたいのか。

遺品を手にすることがかなわなかった大悟は、幻覚と理性のはざまで瑞樹の真意を見た気がした。

遺品となり果ててまで。

瑞樹は将の元に自分を置いてほしいのだ……。

――お前、本当に将が好きだったんだな……。

だけど、将は。あのアキラ先生を今も好きなんだろう。

聡を思い出した大悟は、柔らかい空気が一瞬通り過ぎていくのがわかった。

自分にも優しかった聡。

聡が今の自分を見たら、何というだろう……。

それに油断した大悟めがけて、一匹。大きな蜘蛛が大悟に向って這ってくるのが見えた。

大悟は反射的にそれを殺そうと、ポケットにあったサバイバルナイフを取り出した。

しかし、ぱちん、とナイフを開いた途端、蜘蛛の姿は薄れた。

かわりにナイフの刃に……ビルの谷間から射しこんだ一筋の朝日が、反射して……大悟の瞳を射抜いた。

白い光は、大悟を再び狂気の世界にひきずりこもうとしたが、大悟は辛くももちこたえた。

白い光は、大悟の中にある、狂気より恐ろしい念を、今、はっきりとあぶり出した。

将が憎い。

ずっと前からあった怨念。

自分でも見て見ぬふりをしていた深層。

ナイフは、将を殺せ、と大悟の心の奥深くまで切り込んだ。

将が憎い。

将を殺してしまえば。

支離滅裂に分離しそうな心は、みるみるうちに将への殺意に統一された。

ナイフをしまうと大悟は再び歩き出した。

その足取りはさっきよりしっかりしている。行き先はわかっていた。

――ここにいないのなら。将はきっと聡の家にいるに違いない……。

 
 

「大悟……逃げろ」

大悟はハッと我に返った。今にも倒れそうな将が目の前にいた。

その顔からはすでに血の気が失せていて、土気色になっている。

アスファルトにはジーンズを伝って真っ赤な血だまりができつつあった。

大悟は……自分の置かれた状況が、一瞬わからなくなっていた。

血で真っ赤に染まった右手に、血のついたナイフがこびりついている。

瞬間接着剤でくっつけたように、指から離れない、ナイフ。

大悟は、すべてを忘れて動揺した。

自分は将を刺したのか。

(刺した)

どうして刺したのか。

(瑞樹のために)

(瑞樹を死に追いやった元凶の将こそ死ぬべきなのだ)

さっきまでの正義が。将を殺すための正しい論理が。

爪に、手の皺に濃い赤の筋となって沈んだ将の血で。

温かく、べっとりと重い血で。

一気に軽く、そらぞらしくなっていく。吹き飛ばされていく。

代わりに将との日々が頭を駆け巡る。

助け合って暮らした中学時代。

自分のために、ヤクザを刺し殺した将。

命がけでシャブから脱出させようとした台風の夜。

将を、失っていいはずがない。

将が、この世から消えていいはずがない。

大悟はナイフを手にしたまま、激しく震え始めた。

「大悟……俺は……大丈夫だから……逃げろ」

将は苦しい息の下でなおも、つぶやく。

上体が地面に近づいて……今にも倒れそうだ。

血はいまや、押さえた傷口から直接地面へと滴っている。

「……将」

「はやく」

大悟は、震えながらうなづくと、一目散に来た方向へと駆け出した。

「そうだ……逃げろ……大悟」

将は大悟の後姿を見送ると、塀に寄りかかった。

もはや、自力で立っていられない。

視界に霞がかかってきて……脳天が冷たい。

手足は痺れて……すでに感覚がない。

「ア……キラ」

聡のところに行かなくては。

朦朧とした意識の中で、将はなおも強く思った。

聡に会って、引き留めなくては。

将は飛んでいきそうな意識をかろうじて握りしめると足を踏み出した。

――アキラ。俺を置いていくな。

あの角を曲がれば。聡の部屋が見える。

将はそれに向けて、ひと足、踏み出した『つもり』だった。

実際には……次の瞬間、将の体はアスファルトの路面に倒れていた。

青空がくるりと回転して、意識は白く蒸発して、途切れた。

往来に女性の悲鳴が響き渡った。