第391話 旅立ち(5)

――遅い。

ベッドに腰かけた聡は時計を見た。

この部屋に置いていく目覚まし時計は、8時40分を指していた。

さっき連絡があった時間を10分もすぎている。

……もうすっかりこの部屋を出ていく準備は出来ている。

大きなものは発送したし、聡が持っていくものはわずかな手荷物だけだ。

部屋も……わずかな時間ながら、掃除をしたせいかすっかり片づいている。

あとは、博史の迎えを待つばかり。

なのに、博史は依然現れない。

聡の視線は……油断すればローテーブルの上においたペアのマグカップに吸い寄せられてしまうようだった。

マグカップは息がとまりそうな切なさを聡の中にふいに蘇らせる。

早く。早く来てほしい。

そうでないと、せっかくの決意も覚悟も揺らいでしまいそうになるから。

聡は目の奥にこみあげてくる熱いものをこらえるために、お腹をさすった。

「遅いね」

感情のガス抜きをすべく、お腹に話しかける。

『ひなた』は聡に答えるように、くるり、と動いた。

と。外からサイレンが聞こえ始めた。救急車の音だ。

不吉な予感をかきたてるような音はどんどん近付いてくる。

だけど聡はそれが、まさか自分に関係のある音だとは気付かなかった。

それにしてもサイレンの音が見る間に大音量になった。

まるでこのコーポを目指しているかのようだ。

すぐ近くで病人でも出たのだろうか。

あまりにけたたましい音に、聡はベッドから立ち上がって窓から外をうかがおうとした。

そのとき、ふいにサイレンが止んだ。

そして、まるでサイレンと入れ替わりのようにチャイムが鳴った。

聡は、なぜかビクッと硬直した。

博史だとわかっているのに。

ローテーブルの上のマグカップが、見つめている。将のマグカップが。

マグカップが自分を引き留めているような錯覚を振り切るようにして聡は玄関に向かった。

「遅くなってごめん、聡……あれ、髪、切ったんだ」

やっぱり博史だった。

階段を駆け上がって来たのか息があがっている。

……ついに、来てしまった。

ついさっきまで、早く来てほしいと思っていたのに。

思わず飲んだ固唾を隠すように聡はほほ笑みをつくった。

「なんか、このすぐそばで事故があったみたいで、迂回させられたんだ。人だかりがすごくて」

博史も息を整えながら、言い訳をした。

そんな博史を気遣うように聡はフォローをいれた。

「ついさっきまで救急車の音が聞こえてた。大丈夫?」

「うん、俺は大丈夫。急ごう。病院で先生が待ってる」

聡はうなづくと、準備した手荷物を取った。

そして――もう一度部屋を見渡す。

ここに、勉強を教えてくれと将がいきなりやってきた。

ギプスの足をかばいながら、はじめて一緒に寝た日。

そして、傷ついた将を慰めるように、はじめて結ばれた。

将が真似して買った、CD。

将がくれたマグカップ。

将がたわむれに相合傘を書いた手帳。

将の思い出がしみついたこの部屋を、ついに発つ。

聡は最後にこの部屋の空気を大きく吸い込んだ。

涙をこらえるため、そして。

1時間と少し前にここにいた将のにおいを、最後に体にとりこむため。

将の空気は酸素になって、お腹にいる『ひなた』にも届けばいい――。

『ひなた』はぐるぐると活発に体を動かした。

深呼吸が終わった聡は、ゆっくりと博史がいる玄関へと歩き……部屋の鍵をかけた。

鍵は、新聞受けに入れておくことになっている。あとで毛利の部下が取りに来る手はずだ。

 
 

博史にかばわれるように聡はコーポの階段を降りると、待っていたタクシーに乗り込んだ。

「○○病院へ。急いでください」

ドアが閉まると同時に博史が運転手に言いわたした。

「はいはい。……なんか事件みたいですよ。すごい人だかりだ」

運転手のいうとおりフロントガラスからは、この先の角に人が大勢集まって車道まではみだしているのが見える。

パトカーのうち1台が進行方向に止まっているせいで、さらに車道がせまくなっている。

どうやら角のところで、何か事件があったようだ。

運転手がはみだした人をひっかけないように慎重に車をスタートさせたとたん、サイレンの音が再び鳴り出す。

ガラスが震えるような大きな音。

救急車が負傷者を収容して動き出したらしい。

『どいてください。道をあけてください』

救急車の拡声器から流れる声に、人だかりがわらわらと動きだし……ますます車道にはみ出てきた。

運転手はブレーキを踏むとチッと舌打ちをした。

タクシーの目の前の角から、救急車が出てきて、左折するとスピードをあげはじめた。

客の注文に忠実な運転手は、それきた、といわんばかりにその救急車の後を追った。

たまたま進行方向が一緒だったので、便乗しようというわけだ。

タクシーが順調にスピードをあげはじめたので、博史はほっとして傍らの聡をみつめた。

聡は……ほうけたように車の窓から朝の街に見入っていた。

もちろん、前をいく救急車の中に将が乗っていることなど、またその将はすでに死と隣り合わせであることなど聡は知るよしもない。