第398話 最終章・また春が来る(6)

「へい、らっしゃい」

格子戸を開けたとたん、威勢の良い声が響いた。

寿司屋の店主は戸口に将と次男の了の姿を見つけたとたん、さらに相好を崩す。

「鷹枝くん。久し振り」

くだけた口調で店主は将に話しかけてきた。

「憲ちゃん、ごめんね……忙しい土曜日に」

「いいってことよ。こっちも総理にひいきにしてもらってるっていったら宣伝になるし」

寿司屋の店主、つまり兵藤は笑った。

高校時代にクラスメートだったあの丸刈りの兵藤は、独立して小さな寿司屋を経営していたのだ。

その寿司屋は宣伝・取材を一切断っているにも関わらず大変評判がよく、予約がないと入れないほどだった。

土曜日の今日、久々の休日をとることができた将は次男の了を連れて、早めの夕食に、とここを開店前のここを2年ぶりに訪れたのだった。

「……二番目の坊ちゃん?」

兵藤は笑顔のまま将の横にいる了に目をとめた。

「こんにちわ」

了がぺこりとその小さな頭を下げる。

「奥さんやお兄ちゃんのほうは?」

兵藤は、了にこんにちわ、と挨拶を返したあとで訊いてきた。

「奥さんは学会。海は夜まで塾。義母(はは)は友達と食事」

そう答えた将に、了が割り込むように

「お兄ちゃんは来週ちゅうがくじゅけんなんだよ。それでね、お父さんが今日はシチュー作ってくれるって言ってたんだけど、焦がしちゃったの。考え事してたんだって」

と割り込んだから、兵藤をはじめ店にいる若い衆も笑顔になった。

「おいおい、了」

照れながらもカウンターに腰かけようとする将に、

「あの、お部屋も用意してますが」

お運びの女性が案内しようとしたが、将は

「久し振りに大将と思い出話がしたいから」

とやんわり断った。

 
 

「了くんは何のお寿司が好きなんだい?」

「アナゴ!」

兵藤に訊かれて素直に答える了に、

「了、アナゴはあとにしなさい。お寿司屋さんでは、まず季節のさっぱりとしたお魚から楽しむものだよ」

と将はたしなめる。了は素直にうなづいた。

「今日は何があるの?」

「それが、極上の安乗フグがあるんだよ。……鷹枝くんは本当に運がいい。薄造りにしようか」

「いいね」

フグ、ときいて了も目を輝かせている。了は子供のくせに、トラフグの皮が大好物なのだ。

「つい先週、井口くん一家が長野から来てくれたよ」

「へえ、井口が」

「上の娘さんの結婚式だって。……子供ができたらしい」

話しながらも、フグをさばく兵藤の手元によどみはない。

まるで手が作業を覚えているかのように、一切の無駄がない。

了はカウンターのいすの上に膝を乗せて兵藤の手元に見入っている。

「何だ、えらく早いな」

「早いって、もう22だよ」

「そんなになるんだ」

井口の娘がもう22歳で、しかも結婚して子供も生まれるという事実に、将は時の流れの速さを感じた。

井口とも、もうずっと会ってない。

「……井口もおじいちゃんか。で、あいかわらずなんだ?」

「ああ。あいかわらず、仕事のあいまに中学でダンスを教えてるってさ」

「そっか」

将は微笑むと、新潟の純米吟醸を手酌でお猪口に注いだ。

心は井口のあれからをたどっている。

高校を卒業した井口は、キャッシュバックでなんとかひきこもりの兄がいる暗い家を脱出し一人暮らしを始めた。

バイトのかけもちをしながら、ダンスへの夢を捨てない暮らしは、本人いわく「壮絶なビンボー」生活だったらしい。

水道を止められて、公園の水を汲み置きしたり、バイト先のパンの売れ残りばかり1週間も食べ続けていたりしたこともあったという。

『まったく芽が出なかったらとっとと諦めたのによォ』

本人がぼやいたとおり、ときおりステージのバックダンサーや映画などの声がかかったから、諦めきれなかったらしい。

そんな貧乏暮らしながら長野に住む、藤井さやかとの付き合いは、ときどき愛想をつかされながらも細々と続いていた。

そんな井口が夢を諦めたきっかけは、さやかの妊娠である。それは奇しくも井口が22のときだった。

さやかの妊娠を知った井口の行動は早かった。

ダンサーへの夢をすっぱりと諦めて、さやかがいる長野に移り入籍、そして会社勤めを始めたのだ。

今は長野で、さやかの夢だった『美味しいパンがあって気軽な値段で泊まれるB&B』を夫婦で経営して、そこそこ成功しているらしい。

3人いる子供も大きくなって、時間にゆとりができたここ数年、B&Bを経営する傍らで、週2回だけ地元の中学でヒップホップダンスを教えている。

教え子が全国大会に出場した、と嬉しそうに話していたのはいつだっただろうか。

他のみんなは元気?という質問に、兵藤は寿司を握りつつそれぞれの近況を話してくれた。

その手つきはまるで手品のようだ。

小さい了には、了の口に一口で入るサイズの握りを握ってくれる。

だから子供の了といえど、醜い『食いちぎり』をしないでいい。

特に考えながら握っている風でもなく、よどみなく握り続けている中から、気がつくと了の前に小さな寿司が出てきている、といった具合。

いちいち確認しなくても手がちょうどいい量を見切っているようなのだ。

「鷹枝くん、これなんだかわかる?」

兵藤は、いったんクラスメートの近況を話すのをやめて、淡いピンク色の塊を将に見せた。

「……フグの肝?」

「さすが、鷹枝くん。……食べたことある?」

「一度だけ。○○県で」

フグの肝は、ときに毒を持つとされ、一般に食用を禁じられている。

しかし、まったりとして一切の臭みがない美味ゆえに、こっそり食べる地域や店もあるのだ。

政治家になる前にこわごわ食べた将も、その美味に思わず唸ったほどだ。

「そっか……。でも一国をになう総理には、残念ながら出せないね」

「どうせ当たりっこないけどね」

と軽口をたたきながらも将は、自分の立場で、今それを食す無責任さについては、充分にわかっているからそれ以上は言わない。

養殖フグならほぼ、毒にあたることはないとされるが、天然もののトラフグは可能性は少ないとはいえ、エサによってあたる可能性もあるかもしれないからだ。

しかし目の前にある肝は、食べられないとなるといっそうなまめかしく見えた。

天然ものの、しかも貴重とされる安乗フグだけに、その肝はおそらく極上の味だろう。

禁じられた美味。

そんな言葉が頭に浮かんだ将はふと、甘い既視感を覚える。

許されないそれは、ただひたすらに切なく、甘かった。

あの頃は、そのあとに待っているものなど、何も考えやしなかった……。

兵藤の見事な仕事ぶりを眺めながら……気がつくと将は、聡の話題が出てくるのを、いまかいまかと身構えていた。

そもそも、ここを急に訪れる気になったのも、それが原因だったのだ。

 
 

とうとう……聡の話はひとかけらも出てこないまま、最後の玉子焼が出てきてしまった。

兵藤が修行していた店の味をそのまま引き継いだ甘じょっぱい味は、将も了も大好物だった。

お運びさんが、濃いお茶を置いてくれる。

そろそろ、開店時刻になる。

警備の都合上、将がカウンターにいる間は、店は貸切状態にしないといけない。

兵藤に迷惑をかけられないから、そろそろ帰らないといけない。

諦めた将が、おあいそを、と言いかけたときだった。

「そういえば、鷹枝くん。1年くらい前に先生もきてくれたよ」

と兵藤は何気なく付け加えた。