第399話 最終章・また春が来る(7)

「先生って……」

油断していたところへふいに持ち出された本題に、将は思わず兵藤の顔を見た。

「そう。アキラ先生。ずっと外国暮らしだったみたいだけど、日本に帰ってきてるんだ」

兵藤はさっきと変らない笑顔のまま続けた。

「先生のお友達のライターさんがずっとうちを贔屓にしてくれててね。それで、先生と娘さんを連れてきてくれたんだ。それが、先生の娘さんって、あの女優の月舘よう子だって、鷹枝くん知ってる?」

「ああ。……昨日、対談した」

心の動揺が声に現れないように苦心したのと、よう子の知名度に、将の中で嬉しいような怖いような思いがよぎる。

「そうかー。本当に驚いたのなんのって……」

兵藤はよう子の美しさについて、まだいろいろと述べていたが、そこへ質問を割り込ませる。

「先生は、元気そうだった?」

「ああ。先生も、あいかわらずきれいだったよ。50すぎたとは思えない若さでね」

「大きな病気をされたと聞いたけど」

「うん。うちに来たのも、快気祝いって言ってたな。でも、言われなきゃ病み上がりとはわからなかったよ」

兵藤の表情には悲壮さのかけらもない。

だから、聡が余命宣告を受けていることは知らされていないのだろう。

ただ……将は、聡がひとときにせよ元気でいる証明を得たことに、少しだけ安堵する。

今度、先生をまじえて同窓会をしたいね、と別れ際に兵藤は言った。

 
 

香奈が帰ってきたのは夜9時すぎだった。

ただ今、の声に、リビングのソファーで将と並んで本を読んでいた了が玄関へとすっとんでいく。

資料に目を通していた将もコーヒーカップを置いて立ち上がった。

妻が帰ると、急に家は賑やかになる。

大きな荷物をひきずるようにして現れた香奈は、かなり疲れているようだ。

目の下にクマができている。

それでも将の姿を見つけるとにっこり微笑んだ。

香奈の荷物の1つを引き受けた了が重そうにそれを持ちながらも、しきりに「お母さん、今日ね」と話しかけながら、まつわりついている。

「おかえり。学会はうまくいったんだろ」

「うん。学会はね。でも日本に帰ってきてからが疲れたわー」

スイスからの飛行機は昼には日本に着いていたが、多忙な香奈はそのあとも会議や打ち合わせが相次いだのだ。

ときに総理の将より忙しいほど仕事に打ち込む香奈を、とがめるつもりは将には毛頭ない。

世界に通用するほど優秀な学者である香奈の能力を、女性であるというだけで将の世話だけにとどめておくのは国としても大きな損失だからだと思うからだ。

だけど……今夜の将はふと思う。

これが聡だったらどうだっただろうか。

聡が、将と何日も会えない程忙しく仕事をこなしたなら、将は果たして今のように冷静で待っていられただろうか。

そんな疑問を……そんな風に聡と香奈を比べること自体ばかばかしい、と将は自ら打ち消す。

自分も成長しているのだ。

聡を愛していた頃の未熟で若い自分と、今の自分は違う。

ただひたすらに甘え、触れあい、抱き合うことが愛情表現だと思っていた若いころ……。

そんな若い自分と、社会への責任があり、家庭という実体を保持し続ける粘り強さが要求される今を比べること自体がおかしい。

しかし、そんな風に否定すればするほど……あの激しく純粋だった愛情のかけらはキラキラと心に刺さってくるようだ。

 
 

「お兄ちゃんは?」

香奈が言う、お兄ちゃんとはもちろん長男の海のことだ。

「まだ塾だよ。もうすぐ帰ってくると思うけど」

何気なく答えながら……将は、一瞬どきりとしていた。

なぜなら香奈は、長いこと将のことを「お兄ちゃん」と呼んでいたから。

『お兄ちゃん、どうしちゃったの!……最近お兄ちゃんらしくないよ! しっかりして!』

ふいに、まだ少女だった香奈の声が脳に響く。

リハビリの一環として将は、この血のつながらない従妹の家庭教師をしていたことがある。

聡を失って死人のようになっていた将に、香奈はそんな風に叱咤激励したのだ。

将がなんとか立ち直れたのは、香奈の存在が大きい。

とはいえ結婚するまで、香奈に男としての感情を抱いたことはない。

香奈のほうも、11才で将と出会って、23才で結婚するまで、ずっと将のことを「お兄ちゃん」と呼んでいた。

仲の良い従妹として、つかず離れずの付き合いをしていた二人が結婚することになったのは、30才を迎えた将に周囲が「そろそろ身を固めろ」とうるさくなってきたのと、政治的な事情である。

将のもとに何枚か届けられた見合い写真の中に、まだ大学院生だった香奈のものがあった。

見合いの話は一切断っていた将だが、『なんだ、香奈ちゃんか』と思わず写真を手に取った。

からかうつもりで香奈本人に連絡すると、

『あたしも、まだ結婚なんか早いと思うんだけど、おじい様がうるさくて』

とこぼしていた。

おじい様――つまり将の義母、純代の父でもある――は総理をも務めた政界の有力者である。

つまり、政界の名門・岸田家と鷹枝家をより強く結び付けるための政略結婚をもくろんだのであろう。

『お兄ちゃんだったら、結婚してもいいかな。勉強も続けさせてくれるでしょ』

と無邪気に言ってのける香奈は可愛かったし、何より政治的なメリットが大きかった。

そんなわけで、もともと知り合いだった二人だが、儀礼的に見合いをした。

見合い、交際、結納……ときちんとした手順は、まるで「ごっこ遊び」のようだった。

ときおり、お互いクスっと笑いあいながら、儀式をこなし、二人は夫婦になった。

結婚してからもしばらくは「お兄ちゃん」だったが、さすがに海が生まれてからは、やっと「あなた」「お父さん」という呼び方に変わった。

傍目にはあざとい政略結婚で結ばれた夫妻だろうし、激しい恋愛の末に結ばれたわけでもない。

それでも、二人は少しずつお互いをわかろうという努力と、温かいものを積み上げてきて……安らぐ家庭を作り上げたのだ。