第125話 やめられない ※改題

「じゃあ、将さま。お大事に」

毛利はマンションの玄関で将を降ろすと、本当は具合など悪くないのを知っているくせに、そういってベンツを運転して行ってしまった。

最後に鋭い目配せをしたので、将は聡のコーポに戻るわけにもいかない。

将はため息をついて、エレベーターに乗った。

携帯をあけて聡の待ち受け画面に表示された時刻を見る。10時30分すぎだ。聡からの連絡はない。

大悟と瑞樹が暮らす中に、お邪魔虫させていただくしかなさそうである。

――まさか、エッチの最中とかじゃないよな。

鍵を取り出した将は一瞬迷った。

だが、なんだか、予感のようなものが、将にチャイムを押させることなく鍵を開けさせた。

玄関に大悟の靴はない。

将は、松葉杖をついて、ずかずかと部屋にあがった。

洗面所のドアを開ける。そこにいてちょうど振り返った瑞樹と目が合った。

瑞樹は、大きな目を転げ落ちそうなほど見開いて将を見た。

将のほうも、同じように目を見開いていた……しかしその先にあるのは、瑞樹の顔ではなく、彼女が持った注射器である。

「何やってんだ!」

将は、松葉杖を投げ出して瑞樹に近寄ると、その手から注射器をもぎ取った。

瑞樹は、目を見開いたまま凍りついたように、無抵抗でそれを手から離した。

洗面台の上には……風邪薬ほどの大きさの透明な袋に入った白い薬。

「お前……、大悟の留守に……!」

将は、薬が入ったセロファン袋を乱暴に破いて、洗面ボウルの中にぶちまけた。

クリーム色の洗面ボウルに散った薬は粉砂糖のようだった。

将は蛇口から水を出すとそれを全部流してしまった。

瑞樹は、その1万もする薬が水に流されていくのを、止めるでもなく、呆然と見ているだけだった。

二人はしばらくその場に立ち尽くしていたが、線香花火のように膨らんだ沈黙に耐えられなくなった将がぽつりと口を開く。

「……いつから、やってんだよ」

瑞樹は観念したように呟いた。

「……11月ごろから」

「前原か……?」

瑞樹は、目を伏せたまま頷いた。将はため息をついた。

「今日、大悟は……?」

「……ハケンに行ってる」

派遣での日雇いの工場勤務に大悟は行っているのだという。

「大悟が真面目に働いてるのに、お前、隠れてこんな……」

「やめられないんだ」

瑞樹が将の言葉をさえぎるように、低く呟いた。

「やめたいけど、やめられないんだ。やめなきゃって思ってるのに……」

瑞樹は、ゆっくり淡々と告白した。自嘲するようにも見えた。

「薬は……あれだけか?」

瑞樹はいちおう頷いた。将は深くため息をついた。

「大悟は……、お前とやり直すって言ってた。それを裏切るような真似をするなよ」

「わかってる」

将の言葉を聞いたとたん、瑞樹の大きな目に涙が噴き出してきた。

「わかってるのに。大悟が心配してるのもわかってるのに……あたし……」

あとは言葉にならなかった。瑞樹は両手で顔を覆うと、肩をふるわせてむせび泣きだした。

将は、思わず、瑞樹を抱きしめなくてはならない気になった。それをぐっと抑える。

別に、瑞樹のことを好きなわけじゃない。

だけど、こうやって女が目の前で泣いているのを見ると、支えてあげたくなってしまうのは、男の性(さが)なのだろうか。

瑞樹のことを抱きしめるわけにはいかない将は突っ立って、泣いている瑞樹を見守るしかなかった。

 
 

将は、少し落ち着いたところで瑞樹を狭い洗面所からリビングに連れ出した。

瑞樹は、放心したようにソファに腰を下ろした。

あいかわらず痩せているが、ショートカットになったせいか、以前よりずっと少女らしく見える。

「ずっと家にいるからいけないんだ」

将はカフェオレをつくって渡した。

「学校に……」

言いかけて将は黙った。今朝のヤクザ教師を思い出したからだ。

学校、と聞いて瑞樹は顔をあげた。カフェオレの湯気が少し彼女を元気付けたらしい。

「ところで将、今日学校は? なんでこんな時間に帰ってきたの?」

「あ、ああ。ちょっと忘れ物してさ」

将は取り繕った。

ヤクザ教師のことも、聡の転勤のことも、聡の部屋に戻れないことも、なんだかまだ言ってはいけない気がした。

「そう……」

瑞樹は別に疑ってないようだったが、カフェオレの入ったマグをサイドテーブルに置くと、

涙が乾いた目を見開くようにして

「あたし、もう学校には行かないかも」

と落ち着いた口調で言った。

もともと、瑞樹は、聡が担任になってから休みがちだった。修学旅行から帰ってからはずっと休んでいる。だから将は、特に驚かなかった。

「やめるの?」

との問いに、瑞樹は、少し微笑むように頷く。

「……働くのか?」

「働くのも……いいかもね」

将と目をあわせずに、ショートの髪を自分でさらっとかき上げる。

少し投げやりな感じの、だけど今までの瑞樹に見たことのない飄々とした態度。

将はそんな瑞樹にたとえようのない不安を覚える。なんだか影が薄いような……そんな不安。

「お前さ……。大悟を好きなんだよな」

「なんで?」

瑞樹は顔を傾けて、少し目を見開いた。

「いや……」

将もなんでそんな確認をしようと思ったのかよくわからなかった。

「……大悟はお前のことを、似たもの同士だって、すごく大事に思ってるから」

「そう……」

瑞樹は、もう一度サイドテーブルからカップを取り上げて、カップの中に顔の半分を隠すようにそれを飲む。

「好き……だよ」

瑞樹はカップの中に話し掛けるように言った。少し間を開けて付け加える。

「あたしのこと心配してくれるし」

それを聞いて将は安心した。

「そうかー。そうだよな。あいつはいいヤツだもんな。オレに負けずにイケメンだし」

アハハとわざと明るく、将は頭を掻いて笑った。そうしないとなんだか間が持たない気がして。

瑞樹もカップに向かって少し照れたように口角を上げた。

――大悟のことは……お父さんとかお兄さんみたいな『好き』。

そんなことを瑞樹はもちろん口に出さなかった。

 
 

『忘れ物』と言った手前、将はまたマンションを出なくてはならなくなった。

玄関に立った将は、また携帯を開けて聡の待ち受け画面を見た。連絡はない。

別に外でサボるのは、慣れているし、やぶさかではないが、松葉杖をついた足で外をぶらぶらと歩き回るのは面倒くさい。

足さえ普通だったら、車でどっかに行くのに。と、思い至った将は、車の中でぼんやりすることにした。

聡がいなかった今朝は、朝食も抜きだったので、弁当屋に寄る。

「あら、こんな時間にどうしたの?」

案の定、おかみさんにチェックを入れられたが、

「はあ、休講だったんです」

と大学用語を使って抜け目なくフォローする。

弁当が入ったビニール袋と、コンビニで買ったペットボトルと漫画雑誌を持って、将は久しぶりにローバーミニに乗った。

運転するわけじゃないので、めいっぱい座席を後ろにずらしてリクライニングを倒す。

暗い駐車場の景色のせめての景気付けに、FMをつける。

「あー腹減ったァ」

と独り言と共に弁当のフタを開けようとしたときに、ダッフルのポケットに入れた携帯からメールの着信音が鳴った。

将はあわてて、弁当を助手席に置くと、携帯を取り出した。

……待ち焦がれた『アキラ』の表示。