第143話 ボイコット(2)

「俺、授業ボイコットする。全部」

将のボイコット宣言にクラス中の皆が目を丸くした。

「お、おい。そんなことしたら、ヤクザ、いや京極が」

井口が身を乗り出して、止めるべく立ち上がろうとしたところで

「僕も付き合う」

と澄んだ声がした。丸刈りの兵藤だった。

兵藤は凛とした迷いのない顔で席に戻ると、いったん机に入れた教科書をカバンの中に戻し、将の後に従った。

「……あたしも、行く」

スクッと立ち上がったのは、女子クラス委員の星野みな子だった。

手早く教科書をカバンに入れて、将と兵藤の後を追う。

さすがにそれ以上、立ち上がる者はいなかったが、将だけでなく、真面目な兵藤に星野がボイコットに加わったことで動揺が広がっていた。

中には

「あんなことしたら、また連帯責任とかいわれんじゃないの?まったく無責任なヤツらだよなー」

と、とばっちりのポイント減を恐れるあまり、あからさまに非難するものもいた。

教室に残った井口は、非難したやつの顔を横目で睨みつけた。

金髪をやめたとはいえ、ガタイが大きく、普通にしていても目付きがもともと悪い井口に睨まれて、そいつは黙り込んだ。

しかし井口もポイント減は避けたいクチである。

井口は、なんとか無事卒業して、もらえるキャッシュバックを、あの引きこもりの兄がいる暗い家からの独立資金に充てようと計画している。

そいつがグチをいいたくなる気持ちもわからなくはなかった。

 
 

将たち3人はとりあえず視聴覚室で作戦会議をすることにした。

将が、視聴覚室の一番前の椅子にどっかりと腰掛けたとき、1時限目の始業のチャイムが鳴った。

「これからどうする」

将の後ろに座った兵藤が訊いた。

「サボっちゃおうか」

半分ふざけて答えた将に、

「サボリとボイコットは違うでしょ」

と同じく後ろに座った星野みな子が軽蔑したように将を見た。

「どう違うのよ、星野サン」

将は振り返ると、みな子の机に頬杖をついた。

一瞬、キスができるほどの距離まで近づいた将の顔に、みな子はあわててのけぞった。

「だ、だからぁ。ボイコットってのは何か意志を表明しないと」

一見鋭い印象の、男性的な切れ長に見える将の目。

それは整える必要のない端正な眉毛ゆえそう見えるのだ、とみな子は初めて知った。

眉の下の目は、睫が長く、大きな瞳を持つ二重瞼である……というのは至近距離まで近づいた者だけが知る秘密だ。

そんな距離に近づいたら最後、その切なくも甘くも見える瞳に、女は簡単に陥落してしまうだろう。

……それを垣間見てしまったみな子は、ただドキドキする。

本人は、といえば、自分がそんな罪作りな目をしているとは、まるで気付いてないらしい。

「なるほどね」

将は、あわてたみな子にまるで気付かず、前を向くとカバンの中からレポートを取り出した。

そして

「本当は、パソコンで作成したいよなあ、こういうの」

などと言いながら、机に屈み込んで、なにやら文字を書いている。

みな子はまだ、想定外のドキドキをもてあましながら、その肩幅を盗み見る。

将のことをイケメンだと騒いでいるのは、主にギャル系の女子生徒である。

みな子たちオタク、すなわち二次元を愛する女子からみれば、将は『ヨゴレ』過ぎていた。

――何を、誰とどんな風にどれだけしているかわかったもんじゃない。

みな子らから見ると、将はてんで遠い存在だった。

だけど……みな子は思い出している。

1年のときに偶然見た、将の意外な優しさを。

 

あれは5月の放課後だった。みな子は教室で漫研のクラブ活動に励んでいた。

漫研も部室はあるが、狭い部室は漫画雑誌や同人誌であふれんばかりになっているので、実質の活動は教室で行うのが通常だった。

勉強ができるみな子は、もちろんこの学校を志望していたわけではない。

滑り止めの学校の入試日、運悪く虫垂炎になってしまった。

ランクを落として受験した女子高も、必要以上に緊張したせいなのか、落ちてしまい……まったく腑に落ちない状態で荒江高校に入学したのだ。

そんなみな子が漫研に入ったのは、たまたま入学式のときに隣に座った子に誘われたからだ。

聡明なみな子は知っている。こういう『頭の悪い』学校に限ってイジメやシカトが激しいことを。

特に自分のように――ギャルでもなく、サービス精神旺盛なしゃべりも苦手で、マイペースで、プライドをこっそり隠し持っていて、下手に勉強さえできてしまう生徒は――

女子生徒にとても嫌われやすいタイプであるというのは、みな子が中学時代に学んだことだった。

だからこそ、早めに『どこかに……所属する』ということが重要だ、とみな子は考えた。

低偏差値校の女子は、だいたいギャルかオタクに2分されるらしい。

ギャルにはどうしてもなれないみな子は、学校ではオタクに属しておけば安心だ、と漫研に所属することにしたのだ。

次の同人誌は新人特集だという。どんな漫画を書こうか。

陽の当たる校庭をぼんやりと眺めながら、みな子は悩んでいた。

みな子はイラストは嫌いではなかったが……むしろ巧いと人から褒められるほどだったが、話を考えるのは少し面倒だった。

鉛筆を軽く紙の上に走らせる。それはみな子好みの美少年キャラの顔になっている。

校庭に再び目を移すと、なぜか制服のまま、3人の男子がサッカーを始めたところだった。

たぶん上級生だ。制服のだらしない着こなしでわかった。

いや、サッカーではなかった。

白いビニール袋に入れたゴミをサッカーのゴールに向かって蹴りこむ、という遊びを一人一人順番にやっていた。

何が面白いのか、ゴールに決まるたびにゲラゲラと腹を抱えて笑う。

下品な笑い声はみな子のいる窓辺まで届いた。

舗装していない校庭は夕陽の中で、みな子が前にテレビで見たサハラ砂漠みたいな色になっていた。

陽がかなり傾いているのが少年たちの影の長さでわかる。

みな子は、その時点では何も気付かなかった。

2人ほどがゴールを決めた時点だった。

校庭の塀を乗り越えて、猛スピードで一人の少年が駆けてきたかと思うと……ゴールを決めたばかりの男子を思い切り殴りつけたのだ。

その殴り方は鮮やかで、身のこなしは素早く……アニメの1シーンを見ているようだった。

私服の少年は、上級生より小さくみえたのにダントツ強かった。

遊んでいた上級生がほうほうの体で退散するのに10分もかからなかった。

少年は、ゴールの網の下に転がっていたゴミ袋を拾い、縛ってある口を開けた。

見ていたみな子は思わず『あっ』と声をあげた。

ビニールの中からは血だらけの何か、小動物が出てきたのだ。

あの上級生たちは、ビニールの中に小さな動物を入れて、それをサッカーボール代わりに思い切りシュートしていたに違いない。

――ひどい!

見てしまったみな子は、教室を出て、校庭へ駆け出た。

ちょうど、少年がその血だらけの動物を抱いて、こちらへ歩いてくるところだった。

長めの明るい色の茶髪に、耳には3個ずつピアス、腰パンにしたジーンズと、いかにも『不良です』とわかる格好にも関わらず、全身に西日を受けて、何故か輝いているように見えた。

「うっ」

その動物を間近で見たみな子は口を手で押さえた。子猫だった。可哀想な子猫からは腸がはみ出ていた。

あんなに血が出てるなら、もうとっくに死んでるだろうと、みな子は思った。

少年の服はすでに猫の血で汚れていたが、少年はそんなことにまるで頓着しないようだった。

少年は、夕陽を背中に立ち尽くしているみな子に気付くと、

「このへんで犬猫病院知らない?」

と訊いた。まだ、あどけなさが残る声だった。

それは……みな子が現実で初めて見た、といっていいほど美しい少年だった。

夕陽がまぶしいのか、端正な顔をややしかめているが、その金茶色に輝く瞳でみな子をまっすぐに見つめた。

「し、しらない……」

「そっか」

少年は、みな子の横を素通りした。血の匂いが一瞬、ツンと鼻をついた。

振り返ったみな子は、少年が抱いた猫から、弱弱しく『ニャー……』という声が聞こえた気がした。

みな子は、その少年が忘れられなかった。

だが、それ以来、校内や、学校近くを歩くときは注意していたのだが、少年の姿を見ることはなかった。

ひょっとして天使なのかも、という自分の考えを、馬鹿馬鹿しいと振り払う。

「わー、これいいね。みな子のオリジナル?」

という声に驚いてみな子は顔をあげた。漫研の先輩の声に、そのへんにいた部員が皆集まってきた。

みな子のスケッチブックの上にはあのときの少年が描かれている。

すっかり治った猫を抱いて、笑顔になっていた。笑顔はもちろん、みな子の想像だが。

無意識に描いてしまっていたことに、みな子は顔を赤くした。

しばらくして、みな子は、あの少年が実は、入学以来欠席していたクラスメートの鷹枝将だということを知り、愕然とするのだった。

――あの猫、その後どうなったの?死んじゃったの?

みな子は聞きたかったけれど、めったに学校に来ない将だ。

なかなか訊くチャンスがなかったし、だいたい、札付きの……みな子は信じていないけど『人殺し』なんて噂のある将に話し掛けるのも憚られた。

それに、将はしばらく学校にこないうちに『ニョキッ』と音を立てるように、いつのまにか大男に変貌してしまった。

それは猫を助けた頃の、天使のような少年とはまるで別人の『男性』が現れたかのようだった……。

 
 

その将が、こんなに近くにいる……。ボイコット仲間として。

さっき、間近で見た瞳は、あのとき夕陽に照らされたときのままだった……。

「できた!」

見つめていた丸まった背中が、急に起き上がったので、みな子は再びのけぞった。

席を立った兵藤の後に着いて将の机の上のレポート用紙をのぞきこんだ。

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 人権侵害教師・京極の罷免を要求する!

 

 我々は、教育という言葉を曲解し、生徒の正当な権利を迫害する京極の行為の数々を断固許さない。

 よって彼を2年2組の担任、および英語担当からの罷免を要求するため、一切の授業をボイコットするものとする。

 

     2年2組 鷹枝将

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知ってる限りの硬い表現を使って、将はようやく文章を書き上げた。

将は、連名のサインを書くように指示しながら、

「誤字ないかな。星野サン」

と親しげに話し掛けた。

みな子は、急に話し掛けられてまた、ドキっとしたが、

「たぶん……ない、と思うけど」

となんとか冷静に答えることができた。

逆に1年以上、ほとんど授業をサボっていたのに、よくこんなに漢字の熟語を手書きで使えると感心する。

「でもさ、意志を表明したところで、受け入れられるかな」

と署名し終わった兵藤が上目遣いで言った。

「まあ、無理でしょ」

書いた本人の将も、いいかげんに答えながら伸びをする。

そんな格好をすると、ただでさえある上背がグーンと伸びて、いっそうあのときの少年と掛け離れてしまう、とみな子は思った。

「いいんだ、オレ、学校クビになったって」

伸びをし終わると将は、片方ずつ肩を上げ下げしながら言った。

すると兵藤も

「そうだな。僕も、寿司屋になるのに、もともと高校なんて関係ないしな」

と笑った。将と兵藤の視線はしぜんにみな子に集まった。

「あ……、あたしだって。退学ぐらい。……高卒資格試験ぐらいチョロイわよっ」

みな子はあわてるあまり、思わず豪語してしまった。

「さっすが、星野サン!」

「キャ!」

思わずみな子が声をあげたのは、将の長い手がにゅっと伸びてきて、みな子の肩を軽く叩いたからだ。

……そんな声をあげてしまって、逆に照れたみな子は、すっくと立ち上がると

「これ、さっそく提出しにいきましょ」

と将の手書きの声明文を手にとった。

将は、さっきからみな子が可愛らしいヤツだと思っている。

流行りのツンデレちゃんなのかな、と廊下を大またで歩く姿を微笑ましく追った。

ふと、萩にあったアルバムで見た、高校時代の聡もこんな感じだったのかな、と想像した。