第157話 弟と入浴

湯船に浸かっていた孝太は、入ってきた将を嬉しそうに見上げた。

「ちゃんと洗ったか」

将の問いにも元気にうなづく。

「そうか」

「お兄ちゃんとお風呂に入るの初めてだね!」

「バカいえ。お前が覚えてないだけで、2歳ぐらいのころずいぶん面倒見てやったんだぞ」

「そうだったね」

といいながら、孝太は腰掛に座る将の裸の全身を見回した。

流線型の筋肉が浮き出た肉体は、冬で多少褪めたとはいえ、浅黒い褐色だ。

それが、徐々に白い泡で包まれていく。

孝太は、将がシャワーをあびて、軽く体を洗う一部始終を珍しそうに見ていた。

将は、何で、とも思ったが、思い当たった。

父が忙しい孝太は、男性と風呂に入ることがない。

だから大人の男のハダカが珍しいのだ……。

将もヒージーの家に預けられるまではそうだった。

『人の体をあんまり見るな』と注意しようとも思ったが、まあいい。

将は孝太の視線を気にせずに湯船に浸かった。

「ふー」

クナイプの入浴剤が入った黄色っぽい湯は将で増えた体積分、湯船からざざーっとこぼれ落ちた。

将は入浴剤の香りに憩いながら湯船のふちに寄りかかった。

マンションの浴槽としてはかなりゆったりつくってあるので大男の将と子供が入っても、それほど窮屈ではない。

「お兄ちゃん。大きくなったね」

普通大人が子供に言う言葉を孝太のほうが口にした。

「あー。孝太ももうすぐでっかくなるぞー」

将は湯船の両ふちに両手をかけて、適当に答えた。

「違うよ。おちんちんがだよ」

孝太はいたずらッ子の目をくるっと動かしてこっそり言った。こんな顔を孝太がするのは珍しい。

「ハァ?」

将は一瞬目をむいたが、『コラ』と孝太に軽く湯を飛ばした。手でつくる水鉄砲である。

湯を飛ばされた孝太は、嬉しそうに反撃してきた。

しばし、水鉄砲合戦になる。

将は、かつて、同じように風呂の中でヒージーにならったお湯の飛ばし方のいくつかを孝太に伝授した。

最初はうまく飛ばなかった孝太だがすぐに要領を得て遠くまで飛ぶようになった。

「……お兄ちゃん、おうちには、もう帰ってこないの?」

ひとしきりびしょぬれになって、二人は並んで湯船のふちにつかまるようにしているときだった。

「ん……お兄ちゃんはもう大人だからな」

将は、孝太を優しい目で見た。

湯船のふちに並んでいる将の手と孝太の手を見比べる。

孝太のそれは将と比べるとかなり小さくて色白だ。

それでもモミジのようだった頃から比べると確実に成長している、と将は思う。

今も可愛いが、輪ゴムを腕や足にいっぱいくっつけたような赤ん坊の孝太は、本当に可愛らしかった。

懐かしく思い出している将に、孝太が言った。

「ぼく、お兄ちゃんともっと一緒にいたいな……」

そんなことを言われると、少し孝太がふびんになる。

こうやって兄に甘えたいほど、今日の孝太は寂しいのだろう。

「孝太、頭あらってやろうか。な?」

将は湯船からザバッといきおいよくあがった。

そんな将の裸の背中から尻に孝太の視線が集まるのを感じた。火傷のあとを見ているのだ。

「ぼくのほっぺたと同じ火傷」

遅れて湯船のふちをまたぐ孝太はそんなことを言った。

「ぼく、覚えてるよ、あのときのこと」

「そうか」

将はに孝太の頭にシャンプーを垂らした。

お互いトラウマを掘り返すこともない、と聞き流すことにしたのだ。

水鉄砲合戦でびちゃびちゃになった孝太の頭は新しく濡らす必要はない。

将は指に優しく力をこめて孝太の頭のシャンプーを一通り泡立てると、自分で洗ってみるようにうながす。

「おにいちゃんを置き去りにして、おかあさんは、おとうさんに怒られてた」

今度は自分の頭を泡立て始めていた将、思わず手を止める。

「おとうさんが? 火事のときは仕事でいなかっただろ?」

孝太は目をつぶって、自分の頭にコシコシと指をたてながら、

「ううん。おとうさんいたよ。すごく大きな声でおかあさんに『バカッ』って言ってた。なんでお兄ちゃんを置いてきたんだって。

それで、火の中に入ろうとして、止められて、お兄ちゃんを呼んで泣いてた」

将は、風呂場の鏡にうつる自分の顔を見つめた。

父に似ているといわれる顔はそのまま父の康三の顔になる。

――あいつが……オヤジが……泣いてた?

将の中で、父の表情はだいたい固定されている。その顔は、無表情に近い顔だ。

自分を見つめる目は怒っているか、非難しているかのどちらかだ、と思っていた。

笑い顔でさえ珍しいのに、父が泣くところなんて想像もできなかった。

だいたい、康三は将の実母である環が死んだときでさえ、涙を流さなかったのだ。

将は、ありえない、と立ち上がると栓をひねり、シャワーをいきおいよく出した。

おまけに康三は、将が大火傷で入院していたとき、ロクに顔も見せなかったのだ。

それ以前も、家に帰ることが少ない康三は、将のことなどまるっきり顧みないように思えた。

テストで、武道の試合で、ピアノの発表会でどんなによい成績をとろうと、当たり前のような顔をして声1つかけなかった父。

孝太は記憶違いをしているのだろう。

そう思った将は、孝太の頭にひとしきりシャワーを掛け終わった後、

「それさ、おじいちゃんと間違えてるんじゃないかな?」と訊いてみた。

当時、祖父はまだ存命で、近くに住んでいたから、祖父が駆けつけるのはありえる。

曽祖父の巌(ヒージー)ほどではないが、祖父も将のことをかなり可愛がっていたから。

「ううん。おとうさんだよ。おじいちゃんはおしごとで外国に行ってたもん」

そうだ。あのとき外務大臣だった祖父は、国際会議で留守だった。将は思い出した。

将は腑に落ちない思いで、自分の頭にシャワーをあてる。

考えこむあまり、目をつぶるのを忘れて、シャンプーの入った水分が目に沁みる。

「……っつ」

あわてて水流を顔にむけてそれを洗い流す。

「大丈夫、お兄ちゃん?」

孝太が、小さい頃よく将にいったフレーズを、久しぶりに繰り返した。