第160話 復帰

3月に入って最初の月曜日に卒業式があった。

全学年2クラスずつの荒江高校だから、生徒は全員出席だ。

暦の上ではもう春という今日、まだまだ寒い体育館に全校生徒が並んで座り、端の壁際に沿って全職員が座っている。

在校生として、卒業式に初めて出席する将の視線は、壇上の校長や卒業生からたびたび逸れた。

なぜなら、壁際に並んで座る教職員の中に、スーツ姿の聡の姿があったからだ。

 

聡が2年2組の担任に復帰することが生徒たちに告げられたのは、先週あった期末試験のあとのHRでだ。

兵藤の流血事件があった次の週から、ヤクザ京極は謹慎になり、毎日のHRは学年主任の多美先生が担当した。

それをきっかけに、将たちはボイコットを中止し、通常通りの授業に戻っていた。

たぶん聡が戻ってくるのだろう、という予想は生徒たちの噂でさんざん流れていたが、あらためて多美先生から告げられて生徒たちは皆ワッと歓声をあげた。

そんな中、複雑な表情をしている生徒が2名いた。

一人は……星野みな子だ。

バレンタインの前日に、抱き合う将と聡を目撃してしまった彼女である。

今日卒業式も、職員の席に座る聡と、斜め前方で他の生徒の上に横顔の半分が飛び出しているような将をかわるがわる見ていた。

その将の視線は、たびたび聡のほうに注がれているのは、みな子にもわかった。

もう一人は……言うまでもなく将だ。

「将、よかったな」

多美先生による告知のすぐあと、井口に背中をバンバン叩かれたが、それほど嬉しいわけではない。

なぜなら。二人はこれで担任教師と生徒に戻ってしまうからだ。

聡が山梨に行っている間、つまり将の担任教師という立場ではない間、二人の関係は随分進んでしまっている。

恋人同士としかいいようがない。

それを、止める、もしくは後退させることができるだろうか……。

将は、できない、と強く思った。

担任だろうと、何だろうと、聡は自分の最愛の恋人であることは変わりない。

だけど、聡は。大人である彼女は、立場やけじめを大事にする。

つまり、担任教師と生徒に戻ったということは、二人がこれ以上進展できるのが卒業まで延びるということを意味する。

将は……目の前で卒業証書を授与される3年に目を移した。

あと1年。自分があそこに立つまで、聡を抱くことは許されない……。

将は小さくため息をついた。

 
 

先週の週末。

大きな荷物を持って、山梨から引き上げてきた聡を将は出迎えた。

将は同じ週の頭に、半ギプスも取れて、ようやくステッキをつかずに歩けるようになっている。

彼が半ギプスが取れて最初にやりたかった1つが、車の運転だ。

マニュアルのローバーミニは運転に左足も使う。ゆえにギプスの間は運転をまったくできなかった。

将は意気揚揚と、ローバーミニを運転して新宿駅に向かった。

そして聡を乗せるとそのまま、彼女の家に泊まったのだが……。

「あのね。将」

聡はシャンパンの最後の1口を飲み干すとあらたまった。

将は、聡の復帰祝いにシャンパンを用意していたのだ。

聡の家にはシャンパンフルートがないのでワイングラスに注いで、いましがた乾杯したばかりだ。

「校長先生から注意されたの」

「何を?」

「将とのこと」

「えッ」

聡の隣に座る将は目をむいて聡を振り返った。即座に毛利の姿が頭に浮かぶ。

あのとき……そう。聡が突然転勤させられたとき、彼はたしか校長室にいた……。

「何ていわれたの?」

「将と個人的な関係か、って訊かれて……」

もちろん聡は否定した。仲がいいことは認めるけれど、決して『関係』などではない。と。

「そしたらね。一部の保護者から、誤解を受けているようだから、行動にはくれぐれも気をつけなさいって念を押されて。……いちおう、それだけなんだけど」

一部の保護者。間違いなく毛利だろう。

「そんなこと、気にすんなよ。恋愛は自由だろ」

そういう将に、聡は哀しげに首を横に振った。

「たしかに、恋愛は自由よ。だけど担任教師になったからには、他の生徒への立場や影響があるし……」

聡は、高校時代の自分を思い出していた。同級生と教師の恋愛を不潔だと思っていた自分に。

「だから、校長先生の言い分ももっともだと思うんだ」

「アキラ……」

将は目を伏せた。そして自分でシャンパンを注ぐと、それを喉をそらすようにしてぐいっと飲み干すと、聡の目を見据えて言った。

「俺、学校辞めようかな」

「将、何いうの……」

聡も目を見開いて将を見つめた。

「だって、そうだろ。担任と生徒の関係がダメなら、俺が生徒じゃなくなればいい」

「将……」

絶句した聡に将は腕を伸ばして、柔らかく抱きしめる。

「アキラ。俺、アキラのためなら学校なんて全然惜しくない」

言葉に呼応するように将の腕の力がだんだん強くなっていく。

「……だめよ」

将の匂いと体温に包まれた聡は、一瞬それに酔った。だけど、自分にからめられた腕を解いて、将の目を見る。

「せっかく2年続けられたんじゃない。高校は卒業して……。ううん、大学にも行って」

「アキラ……」

「私だって、将のためなら何でもできるわ」

将が、だったら二人で、と言いかけるのを聡は止める。

「将。私は、将の未来を潰したくないの。二人は、今だけじゃないのよ。ずっとずっと続く長い人生に比べたら、卒業までの1年なんて……」

聡はそういうが、将にとっては1年は永遠のように長い。

「アキラ、アキラは卒業まで俺と会わない、っていうの?」

将は思わず声をふるわせた。

「学校で毎日会えるじゃない」

「いやだ!」

将は聡の体を再び抱きしめた。今度は渾身の力を腕に込めるように強く激しく。

「俺、アキラとこうやって抱き合えない状態が1年も続くなんて耐えられないよ!……やっぱり学校を辞め……」「将」

絞り出すような将の声に対して、聡の声は低く冷静だった。

「私を口実にしないで」

「アキラ?」

将は思わず、聡の肩を掴んで自分の体から離すと、その顔を確認した。

聡も……、双眸を見開いて将を見据えていた。

「学校や受験から逃げる口実にしないで」

「何いってる……」

将の唇は言いかけて止まる。聡の見開いた瞳から涙がこぼれたからだ。

「お願い。将。辞めるなんて言わないで……。私、私のせいで、将の人生を台無しにさせたなんて後悔したくないの……」

「ア、アキラ……」

「私、将が学校を辞めるなら、別れる!」

聡は、ついにそう言い切ってしまった。見開いた目も、眉も唇も歪んでいる。その歪んだ眼から涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。

「ふっ……、ううっ……」

歪んだ口元から嗚咽が漏れた。いつのまにか肩で激しく息をしている。

ついに聡は顔を手で覆ってしまった。

別れる、という言葉を口にしてしまったことに、自分が傷ついたかのように……。

将は聡から告げられた突然の『別れ』という単語に呆然としていた。

「私、将と別れたくないよ……。ずっと一緒にいたいよ……」

聡は顔を覆っていた手をはずすと、涙でぐちゃぐちゃになった顔で、将を見上げた。

「アキラ」

聡が将の胸に寄りかかってくるのと、将が聡に手をのばすのとがほぼ同時だった。

「将……。私、自分より将が大事なの……」

聡の吐息のような告白に、将も目が熱くなった。

結局、『別れ』まで持ち出して、学校に行かせたい聡に、将は従わざるを得なかった。

だけど、週末だけ、ばれない様にするから恋人として会いたい、と将も泣きながら訴えた。

聡は、それについては黙って頷いてくれた。

 
 

卒業式も無事終わり、まだ桜の蕾も固い学校の前では、しきりに卒業生と在校生が写真を撮影しあったり、恒例のボタン争奪戦が行われていた。

青い空に負けずに卒業生の顔が晴れやかなのは、月末に振り込まれるキャッシュバックのおかげでもあるだろう。

将も、上級生の女子から、撮影申し込みの激しい攻勢を受けていた。

背の高い将は、上級生の女子と並んでも見劣りなどもちろんしない。

逆にぽっと顔を赤らめる、上級生の女子のほうが、年下に見えるほどだ。

そんな様子を微笑ましく見ていた聡は、多美先生から声をかけられた。

「古城先生、京極先生への引継ぎはどうでした?」

「ハイ。とてもスムーズに終了しました」

京極は、山梨の新学校の校長に元通り収まったのだ。

先日、聡と入れ替わりになるように山の学校にやってきて、聡から引継ぎを受けている。

彼だけでなく、3月からは何人か教員も山の学校に入り、本格的に準備をすることになっている。

「それにしても、私たちも驚きましたよ。彼に英語教育の経験がまったくなかったなんて……」

多美先生が頭を掻いた。

「ええ。もともと経営畑の方なんですってね。社会人向けに、自己啓発セミナーをされてたって私も聞きました」

聡は、京極が言ったそのままを伝えた。聡が接した京極は、外見ほどに恐ろしくはなかった。

「校長や教頭も、何でそんな人を英語担当にしたのやら……。そりゃうちは私立だし、別に教員免許は不要といえば不要ですが……」

多美先生は苦笑いをした。

多美先生はそれが将の父・鷹枝康三の秘書の毛利からしくまれたたくらみだということは知らない。

 
 

当の毛利は、随分前に博史からメールを受け取っていた。

『例の件はもういいです。ご迷惑をおかけしました』

「フン。だから男女のことは……」

とメールを一瞥した毛利は呟いた。

男女のことは、やはり、ハタであれこれやったところでどうにもならないのである。

結局、博史と将の女の取り合いは、将が決定的勝利をおさめたらしい。

毛利が、それでも『どうにもならない男女のこと』に手を突っ込んでいたのは、

キレた博史がマスコミなどに官房長官に不利な情報を垂れ込むことを恐れたからであって、

その危険がなくなったのならもうどうでもいいことだ。

毛利は、返信もせずにノートパソコンを閉じると、席にふんぞり返って、若い秘書に茶を持ってくるように言った。

 
 

「京極先生も生徒に舐められるまいと必死だったそうですね」

聡は微笑んだ。卒業生の担任ら屈強教師たちも今日は、相好を崩して生徒たちと写真に収まっている。

「ハァ。それだけじゃないと思いますが……」

多美先生は、松岡飛び降り事件の際の京極の言動を一瞬思い出した。が、わざわざ聡に伝えることもないと

「新しい学校で彼は?」質問に切り替える。

「特に科目は持たないそうです。学校運営と、全寮制ですので生活態度とかそういう方面をビシビシと鍛えるそうです」

「そうですか……。それにしても、古城先生、いや、アキラ先生が戻ってらして本当によかった。がんばってくださいよ」

多美先生は聡の肩をぽんと叩いた。ターミネーター顔に柔らかい皺が刻まれた。