「ギャーッ!うそっ!」
美智子は将を見るなり絶叫した。洞窟を模した静かなバーに場所は移っていた。
「背、高っ!足、長っ!顔、小さっ!」
と将の全身を見回した上で、
「めちゃめちゃイケメンじゃん……聡」
と聡を振り返った。
幸い、今日は木曜だから客は少なめで、美智子の絶叫に一度は振り向いた客もすぐにそれぞれの話に戻って、あたりにはジャズが流れる静かな空間が戻ってきた。
「どうも……」
将は笑顔でぺこっと挨拶をしながら名乗るべきが迷った。
というより、偽名の山田を名乗るべきか、本名を名乗るべきか判断しかねたのだ。すると聡のほうが
「鷹枝……将くん。だ、大学生なの」
と美智子に紹介した。
こういうバージョンもありか、と将はとりあえず「鷹枝です」と改めて挨拶した。
美智子はまだ興奮気味で
「いや~ん、年下の彼氏ぃ」と身をよじらせると
「あ、どうも。幸田美智子です。東京××の編集部にいます~」
とピンクメタリックの名刺入れから名刺を取り出して将に渡した。
「ヤダー、ちょー、聡、びっくり。ほんっとにイケメンだよね」
美智子は聡と将の両方をかわるがわる見た。
あげく
「ねえ将くん、だっけ。モデルやんない?」
などと誘っている。将のほうもまんざらでもなさそうで
「ハァ……」
と頭をかきながら、聡にさりげなく「何頼んだ?」と訊く。
聡は「カシスソーダ」と答える。
すると将も店のバーテンに軽く腕をあげると「カシスソーダもう1つ下さい」と頼む。
「ちょっと~、カッコイイ~。あたしこんなにカッコいい子初めて見た~」
美智子は黒々とアイラインを引いた目を細めてうっとりしている。
「ねえねえ、いつ、どこで知り合ったの?」
「えっと……」
聡は将の顔を見ながら、記憶をたどる。
出会いは弁当屋でバイトしていた頃だ、というのはわかる。
だけど、いつ頃から将を意識したんだろう。その辺を思い出せない聡に変わって、将が話し始める。
「アキラがバイトしてた弁当屋に、買いに行ったのがきっかけです……」
それから将は、閉店直後だったにもかかわらず、聡が親切にも主人に声をかけて、将のために弁当を用意してくれたこと、
さらに40円足りなかったのを聡が貸してくれたことを美智子に説明した。
聡はまるで覚えていなかったことだ。
「ホント? 私そんなことしたの?」聡は将に訊き返した。
「あ、覚えてないんだ、ひっでえ。俺は詳細に覚えてるのに」と将。
「いや~ん、将くん、聡にぞっこんなんだ。一目ぼれ?」
「ハイ」
将はやや照れながら、頷いた。美智子が
「いいな~、うらやまし~」
とまた甲高い声をあげる。
別れ際に美智子は、
「ねえ、聡、将くんの電話番号、聞いちゃってもいい? 本当にモデル頼むかもしれない」
「え……?」
聡は将の顔を見上げた。将は
「別に、いいですよ」
と美智子に携帯の番号を直接教えた。
「将、いいの……?」
もう夜11時近い電車は、座りたければなんとか席が見つかる程度の空き方だった。
なんとか2人並んで座れる席を見つけて電車のシートに腰掛けたとき、聡がつぶやくように将に問い掛けた。
「何が」
将は聡により掛かるようにもたれながら答えた。
「モデルなんて……。将、高校生だってのがバレたら」
「何、嫉妬?」
「ちがうっ……。心配してるの。またお父さんに何か言われたら……」
聡は以前、将がスキャンダル記事になったときのことを思い出していた。
「大丈夫だよ。それに美智子さんだって『頼むかも』っていってただけだし」
「そうだけど……」
将の傾けた頭は、聡の頭にすでにくっついている。
「心配すんなよ……」
膝の上に置かれた聡の手の上に将の大きな手が重なった。
寒々しい夜の列車の照明なのになんだか、ほんのり温かく思えてくる。
「それよりさ。今日だけ、聡の家に泊まってもいい?」
将は、頭を聡にもたれかけたまま、甘えた声で囁いた。
「……今日は、平日よ」
本来二人が教師と生徒でいなくてはならない日だ。
「いいじゃん」
「将、今日、どうしたの……?さっきから変よ」
美智子との食事にいきなり割り込んできたり。
「あとで……話す。今日は、アキラと一緒に寝たい」
小さな声で囁いているのだが、まん前に立つサラリーマン風の男性に聞こえてしまったようだ。
男性はスポーツ新聞の陰から横目でチラリと二人をにらみつけると、再びスポーツ新聞に戻っていった。
「将ってば……。こんなところで」
聡は顔を赤くした。
「いいじゃん……。ね、アキラ」
将はまるでキスするみたいに、聡の顔のまん前、至近距離に自分の顔を移動した。
聡は下をむくしかなかった。
将は、聡の部屋に入るなり、靴をぬぐのももどかしく、聡の体を抱きしめてきた。
そして、口づけ。
「ちょっと、将……今日、絶対変」
そういいながらも、聡は将の濃厚な口づけを受け入れてしまう。
聡だって、将と一緒にいたい。くっついていたい。それを大人の、社会人の、教師の理性で押さえてるのだ。
それをこんな風に、抱きしめられたら……。
聡の理性なんてひとたまりもなかった。
将は、聡に口づけと抱擁をほどこしながら、じりじりとベッドのほうに移動すると、聡をベッドに押し倒した。
「やっ……。将……、ダメ」
押し倒された聡は将の体の下で、軽く抵抗した。
軽く、というのは、たぶん最後まで求めているわけではない、というのが大体わかっていたから。
将はたぶん、今日何か寂しいことがあって、それで聡に甘えたいのだ。
案の定、将は
「アキラ、ダッコ」
といって自分もベッドに横になった。
聡は自分の横によこたわった将に腕を伸ばすと、ぎゅっと抱きしめてやった。
将の胸に顔をうずめる。熱い体温を確かめる。
将のシャツの胸のあたりから香ばしい匂いがすることに聡は気付いた。
「焼肉の匂いがする」
聡は顔をあげると、5センチと離れていない将の顎に囁いた。
「今日、焼肉行ったの?」
将はなおも聡を強く抱きしめながら、「うん……」とつぶやいた。
「何かあったの……?」
聡は苦しくなるほど強く力を込める将の腕の中で、喘ぐように訊いた。
将はしばらく答えずに、聡の背中をしきりに撫でていた。
「アキラ、アキラは……いつまでも俺のそばにいるよな」
ぽつりと呟いた。
「どうしたの、将」
聡は、将の力がゆるんだ隙にゆっくりと身を起こすと、額にかかった将の髪をゆっくりとかきあげた。
髪の下の瞳は、すがるように聡を見上げていた。
将は、聡を見つめたまま、
「大悟が、滋賀にいっちまう」
と言った。
「仕事が見つかったの?」問い返す聡に
「うん。瑞樹と二人で住み込むんだって」とゆっくり答える。
「そう。大悟くんと葉山さんが……」
聡は、寂しく、せつない将の目を見つめながら優しく髪を撫でた。
親友が部屋を出ていくのがそんなに寂しいのか、と聡は将の心の寂しさを慮った。
だけど、将の哀しい瞳は、大悟のことだけではない。
今日は大悟のことも含めて、あまりにいろいろなことがあった。
母の死の回想。父が墓前に備えていたアネモネ。
そして、自分を見捨てている、と思った父が実は自分に期待していたということ。
しかし、急にそんなことを知っても将はとまどうばかりだった。
将は自分が見捨てられていると思っていたからこそ、家を出てさまざまな非行を重ねたのだ。
そして正当防衛とはいえ殺人まで犯してしまった。
将は自らのアイデンティティが揺らぐ中、聡に救いと癒しを求めていたのだ。
「将。私は、ずっとそばにいるよ……。だから安心して」
聡は子守唄のように、将に囁きかけた。
低いけれど優しい響きに将は安堵に包まれるのを感じた。
「大悟くんだって、落ち着いたらまた会いにいけばいいじゃない。……ね」
髪をなぞる聡の優しい指。将は、再び腕を伸ばして聡を抱き寄せた。
聡は将の上に乗るように抱きしめられた。こうすると将の鼓動がよく聞こえる。
「アキラ……、ずっと俺のそばにいろよ」
「将……」
「やくそくだぜ」
聡は頷く代わりに、将に体重を預けて将の胸に耳を押し当てる。
ゆっくりとした鼓動に安らいでいく。
将は将で、柔らかくて甘い香りがする聡を抱きしめることで、急速に寂しさもとまどいも、アイデンティティの揺らぎもどうでもよくなっていった。
聡がいれば……なんでもどうでもいい。
「あ、そうだ。将」
急に聡が将の体の上で、肩を起こした。
「ね。あたし、匂いキツイ?」
「え?」
唐突な聡の質問に、将は
「え?匂い?って×××の?」
と思わずきわどい単語を口にしてしまった。
「ヤダ!」
聡は、将の顔を傍らにあったクッションでぼすっと叩くと起き上がった。
「ってー」
将は鼻を押さえて、聡を追うように起き上がった。
「アキラ?あれ、泣いてるの?」
聡は、プーッと膨れたまま、思わず目から流れたものを手の甲でぬぐっていた。
将が後ろから肩に手を置いても、フンと振り払う。
将は可笑しくなった。聡は今日はなぜか匂いのことをとても気にしているらしい。
「ちょー、アキラ、アキラの匂い、俺はぜーんぶ好きだってばー」
そういいながら、将は聡を後ろから抱きしめる。
「アキラ、ごめんよぉ」
そうやって抱きしめた聡は、ほんのり甘い香りがする。
この甘い香りがどんなアロマより自分を癒してくれるんだ、と将は聡に伝えたい。
「アキラ、アキラはめっちゃいい匂い。俺いっつもラリっちゃいそう」
と将は囁きながら、聡の髪のあたりで、鼻をくんくんさせる。
ふざけて口にした、ラリッた、という単語で、将は瑞樹を思い出した。
瑞樹に禁断症状が現れるのを心配していた大悟が脳裏にフラッシュバックのように現れた。
――大悟、間に合ったかな……。
将は、機嫌を治した聡と口づけを交わしながら、大悟と瑞樹を思っていた。
どうか二人で幸せになってほしい。
将は、聡を愛することで生まれた、心のきれいなところで願っていた。
しかし……その頃、瑞樹はこの世に、もういなかった。