そのまま身を翻して、振り返りもせず、聡は走り去ってしまった。
将はローバーミニによりかかってようやく立っていた。聡の姿が見えなくなったとき、涙が膨れ上がってきて、それは頬を伝った。
――行くなよ。俺を置いていくな。
今度こそ本当に世界から見捨てられたような気がした。
あれは同級生が高校受験を控えた15歳の冬だった。
古くて汚いアパートの1室。風が吹くと、ベニヤのドアがガタガタと音を立てた。汚い砂壁のあちこちは砂が剥げ、ひびが入っていた。畳はあちこちがささくれて、裸足で歩くと刺が刺さった。
そんな家でも外にいるよりははるかにマシだった。寒さ―――風を凌げるという点だけでも。そこは将が唯一、親友と呼べる少年の家だった。
将と少年はたった一つの暖房器具である電気ストーブにあたっていた。
少年とその父の二人暮し、というにしては家具がまったくない6畳間。ほとんどの家財は「あいつら」が持っていったという。
電気ストーブは民生委員の人が好意で持ってきてくれたものだった。そこへ、ヤクザのような「あいつら」が突然やって来たのだ。
ヤクザは少年の父親の居所を執拗に少年に聞いた。
少年の父親はおそらく多額の借金を抱えていて、取立てから逃れるべく姿をくらましていた――
将もその少年の父親を見たことがなかった。もうずいぶん前から。
「知らない」という少年をヤクザは殴った。そのまま理不尽に殴られ続ける友人。止めようとした将も連れのヤクザに1発殴られた。
ケンカ慣れしている大人の手加減しない1発は、まだ15歳の将を真の恐怖に陥れた。将は恐ろしくて、流しの隅でへたりこんで見ているしかなかった。
そのうち、ヤクザは刃物を取り出した。友人の指をつめる、と言い出したのだ。障害者になったら年金が出る。それで借金を返せとむちゃくちゃな理由だ。
もう一人のヤクザは友人の手を床に固定した。
『やめて、やめてくれ』という友人の絶叫が響いた。
将は絶叫に操られるように、知らず、流しから出刃包丁を取り出していた。
『観念しろや』ヤクザのセリフは自らへの言葉となった。
将は無我夢中で体を丸めて、ヤクザの腰のあたりに突進していった。
『ぐああっ』
気がつくと、友人に向かって刃物を振りかざしていたヤクザは倒れ、大量の血を傷口から噴出していた。
将たちが軽い怪我をしたときに見るようなどす黒い血ではない。朱色のような鮮やかな赤い液体が定期的にどくっどくっと脈打つようにヤクザの体から流れ、ささくれた畳を血で染めた。
もう一人のヤクザは『ひぃいい!』と叫んだぎり逃げて、とうにいなかった。将は返り血を浴びて突っ立っていた。
『ショウっ……』友人は泣きながらそんな将にすがりついてきた。
結局ヤクザは出血多量で死んだ。
が、将の父が手をまわして、ヤクザを刺したのは将ではなく、友人だったということにされた。
将が刺したのを知っていたはずの連れのヤクザも、半年ほどたってどこかの港に浮いているのが発見された。ブロック塀を括りつけられた無残な腐乱死体として。
友人は、正当防衛性が認められたものの、それまでの素行から、鑑別所に入っている……。
将は、なんとか自力で運転してマンションに戻ってきた。
体ごと倒れこむようにドアを開ける。すると部屋の奥からは瑞樹が出てきた。
「……将、どうしたの」
塩で汚れた服、バリバリに乱れた髪、それよりも異様なのは赤く充血した目と憔悴しきったような顔である。
将は瑞樹の声などまったく聞こえなかったかのように、また瑞樹などいないかのように、歩を進める。
今日は瑞樹以外はまだ誰も来ていないらしい。土曜日の11時前だから外で遊んでいるのだろう。特にピアス男の井口は最近は踊りにハマッていると聞いた。将はキッチンに入ると、冷蔵庫から水を取り出し、がぶ飲みした。
「将、今日はどこにいってたの」
瑞樹は将のあとを追うように傍らに立った。将は無視してキッチンを出ると、ソファに寝転がった。置いてあった漫画を開く。
「誰と会ってたの?」
瑞樹はソファの足元に立つと将を見下ろした。お気に入りのヴィンテージのジーンズを穿いているところを見ると、単にいつものドライブではなさそうだ。
「あの、キョーシと会ってたの?そうなのね」
とたん、将は漫画雑誌を閉じて体を起こした。
「うるせえよ!」
怒鳴りつける。思わぬ大声、そしてその形相に瑞樹は黒髪を揺らしてひるんだ。
が、彼女には、今までの関係から、まだ自信があった。
「ふられたのね」
そういうと、体を起こした将の横に腰かけた。将はそれを拒むように立ち上がるとバスルームに向かって歩き始めた。その将の前に立ちふさがるように瑞樹は
「そうでしょ」
と将の顔を見上げた。将からみたその目は三白眼になっている。笑っているような口から
「代わりになってあげるから、さ」
という言葉。そして、将のジーンズに手をかけようとする。
――今までなら。そのまま将は、瑞樹がしたいように、下半身を預けたのだが。
将は瑞樹の手を振り払うと静かに言った。
「……出ていけ」
「……?」
「出ていけと言ってる」
「……将」
将は瑞樹の手を掴むと、引っ張った。そのまま玄関のほうへ歩く。
「将、どうしたの?将ったら」
「出ていけッ!邪魔なんだよッ」
将は瑞樹の手をつかんだまま、裸足で玄関のドアを開けた。
そのまま力いっぱい瑞樹を突き飛ばす。瑞樹はマンションの廊下に倒れた。その上に玄関にあった瑞樹のサンダルをも放り出すとドアを閉めた。夜のマンションの廊下にその音はひときわ大きく響いた。続いて内側からチェーンをかけるチャリチャリという音。
「将、どうしたの、何を怒ってるの?」
瑞樹は立ち上がると、閉じられたドアを叩きながら叫んだ。
「将!将!ねえ、ショウ!」
瑞樹はしつこく叫んだ。隣の住人が、その騒ぎにドアを開けてこちらを見る。瑞樹はかまわずドアを叩き続けた。
と、ドアが開いた。
「将」
チェーンの鎖の分だけ開いたドアからは瑞樹のバッグが放り投げられた。
「将、どうしたのよ、私、何か悪いことした?」
瑞樹は必死で、細く開いたドアをキープしようと手を割り込ませる。
ドアの細い隙間から見上げた将の顔……瑞樹がこれまで見たこともないような冷酷な目でこちらを見下ろしていた。
いや、瑞樹のことを人としては見ていない。そんな視線。
「ケガするぞ」
それだけのセリフでドアに割って入った瑞樹の手をひっこめさすと、将はドアを閉めてしまった。
瑞樹は冷え込み始めたマンションの廊下に裸足で立ち尽くしていた。
聡は放心していた。
タクシーを拾い、部屋にたどりつくと、水を飲み、そして塩でバリバリになった服を脱ぎ、シャワーを浴びた。
そこまではほとんど無意識状態だった。習慣というか本能で動いていたに過ぎない。汚れも落として、ようやく「ヒト」としてマシになるといろいろなことが頭に浮かんだ。
――いろんなことがあった1日。
楽しかった海、幼くして亡くなった将の母、レストランで貴公子然とした将、父・官房長官との偶然の出会い、父親に無視される将、酔っ払った将の重み。
そして、再びの深い口づけ。
しかし、今の聡にはそんなことより、将の背負った過去のほうにより心が動かされていた。
――あのまま、置いてきてよかったのかしら。
同時に後悔もした。突然の唇に動揺してしまったが、置いてきてはいけなかったのではないだろうか。
問題児と名高い将。偽造免許証や、同級生を思い切り殴りつける姿。
「何をやっても許される」との開き直り。
それはすべて、人並みはずれた寂しさが一因なのには違いあるまい。聡は、床に入っても将のことが頭から離れなかった。
聡は夢を見た。
博史と海岸を歩いている。顔は逆光でまぶしくて見えないが、こんな風に並んで歩く男性は博史しか考えられない。
なぜか裸足。黒い砂に吸い込まれるような足が気持ちいい。
博史はなぜか突然海に駆け出していった。顔を見ようとするがあいかわらずまぶしくて見えない。
ざぶざぶと中へ入っていく。静かだった海がだんだんと波が高くなっていく。
ついに波が彼を隠してしまった。
聡は追って海へ歩こうとするが、粘りついたように足がなかなか動かない。それでもなんとか博史に追いついた聡はその背中に抱きついた。そのまま二人は海中に倒れこむ。
とたん床が抜けたように、海の中に二人抱き合って沈んでいく。その沈んでいく感覚が気持ちいい。髪も服も海水になびいている。
ゆらゆらと光る海面がどんどん遠くなっていく。
深い青の世界を二人はゆっくりと深みへと降下しながら長い口づけを交わした。水中のはずなのに息が苦しくない。
冷ややかになっていく海水の中で柔らかく温かい唇をお互いにむさぼった。
聡は目をあけて自分を抱く男の顔を確認しようとした。するとそれは博史ではなかった。
将が、寂しい顔をして微笑んでいた……。