「それでね。社長のスカウトはちょっと置いといて、とりあえず、こんどこっちに出てくれないかしら」
デザートを食べ終わったところで、今度は美智子が雑誌を取り出した。
将も知ってる若者向けのメンズファッション誌である。
「置いといてって、何よ」
と橋本は文句をいいながらも、椅子に寄りかかった。
「街のベスト・ジーニスト50、っていう読者参加企画なんだけど」
タイトルどおり、街で見かけた、ジーンズの着こなしがいけてる一般人を撮影し、一言コメントと共に紹介する春・秋の人気企画だ。
「これに出てくれないかな。今週の土曜なんだけど」
「え、これってヤラセだったの?」
将は驚いたのと、相手のメインが美智子に移った油断で敬語を使うのを忘れた。
その雑誌の企画は、てっきり取材陣が街角に出て、ちゃんと取材しているのだと思っていたから。
「ヤラセなんかじゃ……。ただ、念のため何人かあらかじめメイン候補を用意しておくだけ。いちおう、広告主から最新モデルも用意してもらえるしね」
「えー、なーんだ、そういうことだったのかぁ。……ガッカリ」
「うう~ん♪ そういう普通の言葉づかいもカワイイ」
橋本が、再度テーブルに頬杖をついたので、将はハッとした。
「あ、……すいません」
将は橋本に軽く頭を下げた。
「いいのよぉ。別に」
橋本は鼻をならした。
「出ときなさいよ。その企画。遊んでギャラもらえるようなものよ。求められてるのは素人なんだし、ラクよぉ」
ハーブティを淹れながら橋本は、将にその雑誌の企画に出るように勧めた。
「でも……」
将はコーヒーカップに手をやりながらうつむいた。
「うちのほうの返事は、よく考えてくれていいのよ。……ところで将くん、家出てどこに住んでるの?」
「○○町、友達と一緒に。……そうだ、美智子さん」
将は、あることを思いついて顔をあげた。
聡は、一昨日に美智子から送られてきた『mon-mo』を眺めていた。
頤を少し上に向けるように、やるせない瞳をこちらに向ける将。
二次元化されているのに、聡は心をわしづかみにされるような気がした。
始業式の今日は、さすがに残業もなく、聡は5時30分には部屋に帰り着くことができた。
3月28日……あの急な撮影の日以来、1週間も顔を見ることができなかった将をもう一度よく見る。
顔のあたりをなぞる。だけど二次元の将には何の感触も温かみも、ない。
こんなに顔をみなかったのは、山梨に急に転勤になったとき以来だ。
今日久しぶりに、教室で顔を見た将は、すこしやつれているように見えた。
恋人を失った友人を慰めるように暮らす将。そしてその友人の恋人は、かつて将とも……。
将はどんな気持ちを抱えて毎日を過ごしているのだろうか。
あの葬儀のとき。激しく取り乱した将の苦悩は、聡にも伝わった。
きっと後悔と懺悔を繰り返す日々を送っているに違いない……。
こんなときこそ、そばにいてあげたいのに、葬儀以来、逢えたのはあの1日だけだ。
メールは毎日のようにやりとりしているけれど、『ないよりはまし』ぐらいなものだ、と聡は思う。
『元気か』
『今日、何をしたか』
『ちゃんと食事をしたか』……。
聞きたいのはこんなことじゃないし、伝えたいことだってメールの文字にしたらひどく軽軽しい。
ただ、隣にいたい。
つらい気持ちとかやりきれない思いを、癒せないにしても共有したい。
否、それよりも。
聡が、将に会いたかった。将と触れ合いたいのは聡のほうなのだ。
将を思って、聡が深いため息をついたとき。
玄関のチャイムが鳴った。
聡が振り返ったときには、ガチャと鍵が回る音がした。
鍵を持っているのは……!
転がるように聡が玄関に駆け寄ったとき、ドアが開いた。
聡が一番会いたかったひとがそこにいた。
「アキラ!」
「将!」
午前中は教師と生徒だった二人は、しばらく玄関で抱き合ったまま立ち尽くした。
たった1週間なのに、懐かしい将の匂い。
将の胸のあたりに顔をうずめた聡は、しばらく、そのぬくもり、胸の固い弾力を味わっていたが、匂いの中に異質なものが混じっていることを嗅ぎ取った。
揚げ油の匂い。
胸から顔をはずして見ると、将は手に白いビニール袋に入った弁当を持っていた。
「一緒に食べようと思って、買ってきた」
将は、聡に微笑みかけながら、ビニール袋を高くあげた。
「……大悟くんは大丈夫なの?」
「うん。教習所終わっていったん帰ったけど、いなかったから。携帯かけてもつながんなかったんだよね。で、もう俺、聡に逢いたくて限界だったからこっち来た」
逢いたくて限界。そんな言葉が嬉しくて、聡はもう一度、胸に顔をうずめる。
「なんか、ここもすごく久しぶりな気がする……。あ、アキラも俺に見とれてたの?」
やっとあがって床に座った将はローテーブルの上に広げられた『mon-mo』を見つけて、いたずらっぽく笑った。
聡だけに向けられた表情に、見とれてしまった聡は、素直にうなづいた。
「ホント?ホントに?」
将はさも嬉しそうに、聡の顔を見た。
そんな子供のように得意げな顔と雑誌の中のやるせない瞳の将はまるで別人みたいだ。
聡だけが知っている将。思わず聡は、目の前の将に対して言葉を漏らす。
「将、ヤバすぎ……」
将は嬉しそうに顔を崩して、ますます聡に近寄ってきた。
「もっと褒めて。俺、アキラに褒められるとゾクゾクする」
しかし、聡の唇から、もはや褒め言葉は出なかった。
なぜなら、それは将の唇でふさがれたから。
二人は、1週間ぶりに、お互いの唾液を味わうかのような、深い口づけに酔った。
「へー。美智子にイタリアン、おごってもらったんだー」
「俺はパスタが食べたいっていったんだけどサ。なんか豪勢なコースだった」
買ってきた弁当に、聡手作りのみそ汁を付けただけの夕食だが、二人で食べるだけで、昼間のコースランチよりよほど旨い気がしている将だ。
「でさ、またモデルのバイトやってくれってたのまれた。今度は○○で」
「へー、○○?スゴイじゃない」
その男性向けファッション誌は聡も知ってる有名誌だ。そこのモデル出身の人気俳優が何人かいる。
ちなみに、芸能プロダクションからスカウトされたことについて将は、はなから断る気でいたから、話題にしない。
「それがさ。読者のベストジーニスト、みたいな企画あるじゃん。あれ、ヤラセだったんだぜー……」
将は可笑しそうに、その内情を話した。
「で、そのヤラセの片棒を担ぐんだ。いいバイトじゃない」
聡も面白そうに、相槌を打った。
「うん。あとさ、それに大悟を誘おうと思ってサ。美智子さんにはナシ付けといた」
「大悟くんを?」
「イケメンじゃん、アイツ」
たしかに、大悟も将とはまるで異質だが、イケメンの部類に入る。
それにさ、と将は少し声を落として続けた。
「アイツ、カウンセリングのとき以外、ひきこもってんじゃん。だから、バイト手伝え、とかいって無理やり連れ出そうと思ってんだ。……もう、あれから……そろそろ1ヶ月経つんだし」
「そう……」
聡は、それっきり目を伏せて黙り込んだ将を見つめた。
一生懸命耐えて、乗り越えようと努力している将が透けて見えるようで、聡は胸が詰まった。
何か、話さないと、と思うけれど、何も出てこない。
励ましの言葉はたぶん重過ぎるし、関係ない話題もわざとらしすぎる。
聡は、目の前の弁当を食べるしかなかった。
ご飯と一緒に口に入れた、たくあんを噛む、ボリ、という音がやたら響く気がする。
しかし、その音は、将を少し明るい気持ちにさせた。
「ね、アキラ」
先に食べ終わった将は、ローテーブルに肩肘ついて、聡を見つめた。
そんな瞳は、なんだか大人っぽくて、見慣れているはずなのに、聡はときめいてしまう。
将は……見るたびに成長していく。
辛い日々を過ごした将の瞳はまたいっそう深みが増した。聡は思わず吸い込まれそうになる。
将は、自分がそんな瞳をしているのに気付かないのか、いたずらっぽい口調で
「18の誕生日、何くれるの?」
と訊いてきた。
聡は話題が変わって、とりあえずほっとした。みそ汁を最後まで啜って、
「将は、何がほしい?」
と訊き返す。
「そんなの、決まってんじゃん」
将は、はずみをつけるように、肩肘に預けていた頭を起こした。
「何」
聡は箸を置いて、将に向き直った。
「アキラ」
「んもう……」
将のやや真剣な瞳に、聡は下を向いた。
「ダメって言ってる……」
「1日、いや一度だけでもいいんだ」
将は聡の言葉を遮ると、隣の聡のほうに膝を進めた。そのまま聡の体を抱き寄せる。
「一度でいいから、聡と結ばれたい」
強く聡を抱きしめながら、将はせつなく訴えた。
後年。将自身も気付かない心の奥深いところで、何かを予感していたのではないか……聡は若い彼を思うたびに考えてしまっていた。
将は……もうすぐ18歳になる。