「ごめんね……。誕生日なのに」
将の腕の中で、聡はつぶやいた。
もうすぐ、将の誕生日が終わる。二人は聡のベッドの中で肌を寄せ合っていた。
「気にするなよ……。それより痛くない?お腹」
将はパジャマに包まれた聡の体を抱き寄せて、優しく囁いた。
「……大丈夫」
土曜日が待ちきれなくなり、聡を抱きたくなった将だが、聡はあいにく、まだ生理日だったのだ。
しきりに謝る聡を将は包むように抱きしめた。
「いいよ、明日1時間目から英語だろ。もし、今日したら、明日思いっきり顔に出るだろ。これでよかったんだよ」
と将は聡の肩をさすりながら、優しく言って聞かせる。
枕もとのスタンドが、ベッドを温かく照らしている。
将は、素顔の聡を飽かず見つめた。
こちらを見つめる瞳が熱をもって黒糖飴のように光っている。
スタンドの灯りで琥珀色になった髪がいとおしい顔をふちどっている。
あわてなくても、いい。どうせ土曜日には……。
将は、聡の額に唇をよせると、目を細めた。
至近距離ならではの将の甘い瞳。長い睫。聡も彼を飽かず見つめている。
眠るのが惜しい。夢の中でもこうやってずっと抱き合っていられたら。
二人とも同じことを考えながら、ワインの残滓がもたらすまどろみの中に引き込まれていった……。
結局、将は今日も聡の部屋に泊まることになりそうだ。
木曜日。久しぶりのハケン労働を終えて大悟は心底疲れていた。
今日は菓子工場へのハケンだった。
女の子のハケンも多い行き先だから、楽なことを大悟は期待していた。だが……。
そこで働く者は宇宙服もしくは放射能の防護服を思わせるような白い制服を着る。
靴は借り物だが、皆が借り回したせいか、やけに臭い靴を履く時点で大悟の労働意欲は減退していた。
大悟はやけに暑い、焼き場に連れて行かれた。
むせかえるような甘い香りが『美味しそうないい匂い』だと感じたのは最初だけだった。
髪を包む制帽と、そしてマスクで覆われた顔から見えるのは目のあたりだけ……それがいやにくっきりとした男に、
「この鉄板、掃除してね」
と言われる。口調からどうやら外国人のようだ。
1枚だけでもかなり重い、黒い鉄板にはお菓子のサイズにあわせた小さな窪みが等間隔に空いている。
「ここのゴミを指でとるヨ」
窪みにこびりついた焦げなどを、軍手の指でひっかいたり、なすったりするようにして掃除していく。
力仕事だが単純作業、楽勝だと大悟は思った。
だが、それは最初だけだった。
まだ熱い鉄板を運んで、軍手の指をつかって掃除をし、そして所定の場所へ運ぶ。
それを繰り返しているうちに、だんだん指が痛くなってきた。
焦げ付きをとるのには結構指の力がいる。
中には指のほうが曲がりそうになるほどしつこく焦げ付いたものもあった。
それに、重い鉄板を運ぶのも重労働だ。
大悟が所定の位置に運んだ鉄板に、さっき作業の説明をした外国人が、同僚と笑いながら新しいお菓子用の紙を敷いている。
こっちの作業は楽そうだ。
大悟は鉄板を運びながら、いつか代わってくれるのだろうと期待した。
「チョット」
声がかかって、やっと交代かと大悟は急ぎ足で呼ばれたほうへ行った。
「もうチョト急いでネ」
大悟は脱力した。だが、言われたことはやる、という基本的な責任感が大悟を動かした。
大悟は疲れを意識の外に追いやるように、がむしゃらに働いた。
「熱!」
あまり急いだのか、軍手に覆われていない腕に、鉄板の取っ手が触れてしまった。
じゅっと音がした気がする。
気がつくと大悟の手首には細長い楕円形の赤い痣が出来ていた。
ヒリヒリする。すぐに冷やさなくては……本能が警鐘を鳴らす。
しかし、そんな暇はなさそうだ。大悟は、痛みを無視して仕事を続けた。
ようやく昼休みになった。
大悟は、制服のまま社員食堂の椅子に座り込んだまま、しばらく動けなくなるほど疲れた。
当然食欲はない。昼食代が少なくてすむ、というのを心の拠り所に、しかしまだ午後があと5時間もあると思うとうんざりした。
手首の火傷は水ぶくれになっていた。
その痛みを耐えて、午後も鉄板掃除をする。誰も大悟と交代してくれる者はいなかった。
「ちょっと、そこの人」
勤務時間があと2時間に迫ったところで、ようやく大悟は鉄板から解放された。
かわりに固太りで大柄な年配女性の社員に呼ばれてついていく。
女性とはいえ、マスクの上の目はやぶにらみで、嫌な予感がした。
「このシールを貼って。この見本の通りにね」
とセロファンに包まれた菓子がいっぱいに詰まったプラスチックの箱を運ばされる。
しかし、焼き場よりは涼しいのと、単なるシール貼りが今度の作業ということで大悟は心底ほっとした。
見本と言われた菓子を、大悟は手にとってしげしげと見る。そして注意深くシールを貼り始めた。
女性社員は、そのままシール貼りを大悟にまかせると、太った体をゆすりながら、他のところへ行ってしまったのだが、ようやく1箱分、大悟が終える頃に戻ってくるなり、
「あーあ!」
と声を出した。大悟の顔のすぐそばに、やぶにらみの目がある。
歯槽膿漏だろうか……嫌な匂いがして、大悟は思わず顔をそむけたくなった。
「全然違う!このシールは、真ん中っていったでしょ!もうっ」
え?と大悟は目を丸くした。
彼女は大悟が貼ったシールをこれみよがしに剥がして貼りなおしている。
大悟は見本を見なおした。それには、真ん中より少々上にシールが貼ってあるように見える。
しかし、
『アンタ、真ん中とは言ってないでしょう。この見本のシールは真ん中より上に見えますが!』
と口答えをするほど大悟は子供でもない。
「すいません」
と無難に謝ると、シールの貼りなおしを手伝おうとした。だが、
「もういいっ!こっちをやって」
と同じような新しい菓子のシールを貼るように言われた。
「ここに見本があるから、今度は間違えないようにね!」
――別にさっきだって間違えたわけじゃないのに。てめえがちゃんと教えないからいけないんだろ。
大悟は、胃のあたりがモヤモヤするのを堪えて、注意深くシールを貼った。
すると横で貼りなおしをしながら、また、女は
「あ~ああ」
と手を出してきた。再び嫌な匂いがマスクを通して大悟を襲った。
「アンタ、ちゃんと見てんの?」
「え?」
「ホラ。これはこう!」
女はシールを逆さまだと指摘した。だが大悟にはさっぱりわからない。
しかし、よく見るとわずかに模様が入っている間隔が違った。
――上下があるなんて、教えられもしないで、わかるわけねえよ。
大悟のモヤモヤはさらにイガイガと胃のあたりで暴れ始めた。
そのあとも、シールを貼って並べ終わったあとで、
「並べ方が違う!これじゃ数がわからないじゃない」
といきなり怒鳴られたり、片付けとけと言われたので、シールを貼った後の台紙を捨ててたら、
「あーあ、これは数を数えるのに必要なのよっ!」
あげく
「アンタ、何にも考えてないでしょ」
とまで罵倒された。
しかし大悟は、胸が熱くなるほどのストレスに耐えた。
鉄板のときに駆使した足、そして指ももうボロボロだった。
そこへ罵倒の嵐。
労働ってこんなにつらかっただろうか。
勤務時間が終了したとたん、大悟はマスクと帽子をはずして更衣室の前の廊下に座り込んだ。
するとさっきの口臭デブ女も勤務終了だったらしく、まわりの白衣に「お疲れさまー」といいながらにこやかにこちらへ歩いてきた。
大悟はいちおう、しゃがみこんだままとはいえ「お疲れ様です」と頭を下げた。
本当は口も利きたくない。
女は
「あら、アンタ、さっきのコ?……ふーん、結構カワイイ顔してんじゃない」
と立ち止まった。
大悟は見上げるふりをして、斜めに睨みつけた。
しかしそれを悟られないように頭は軽く会釈して、口元は笑いながら
「どうも」
と愛想をいう。
「また、来なさいよ。お疲れ様ー」
と女は大悟の視線の質を見分けないまま、やぶにらみの顔に能天気な笑顔を浮かべて更衣室に消えた。
――クソッタレ。
思わず口に出そうになるのを大悟は抑えた。
それだけ消耗した1日だったのに……8250円。それが今日の手取りだった。
「くそっ!」
大悟は現金だけをポケットにねじ込むと、明細を破り捨てた。
……自分はスタートラインでひどく損をしている。
それはもはや無視できないほど強く大悟の心に閃いていた。
もし……あのとき。
将の身代わりで人殺しの罪をかぶらなかったら。普通に高校に行って……。
と一瞬考えた大悟は、ひとり、ふっと笑う。
借金から逃げ回るような親しかいなくて、高校なんかいけるわけがない。
カンベツに入ろうと入ってなかろうと、大差はない。大悟は一生懸命そう思おうとした。
自分が選んだ道だ。将のことを恨みたくなかった。
『身代わり』。
大悟は、あることを思い出した。
将の身代わりに人殺しの汚名を引き受ける代わりに、大悟は相当のものを受け取る約束になっていたのだ。
大悟に面談した将の父親の代理人である弁護士は、言ったはずだ。
『成人するまで困らない程度の金額を受け取れます。もし、進学なさりたいなら力になってさしあげることもできます』と。