第200話 相合傘(1)

「じゃ、あさって水曜日、9時に迎えに来るから。……モーニングコールは8時でいいわね。

学校の方は私から電話しておくから。……ああ、そう、明日はジムと演技指導だから、わかった?」

武藤が運転席から顔を出して、降りた将に繰り返す。

すべて車の中で一度言い渡されたことばかりだ。

「台本は読めるところだけでいいから、いちおう目を通しておいてね」

「ホイホイサー」

将はもらった台本とスケジュールをひらひらさせて、そっぽを向いた。

「んもうっ。ほんとにわかってる?……じゃ、明日忘れずにねっ」

と武藤の運転する車は、夜の中に走り去っていった。

もう夜9時を過ぎている。

ちなみに将が手にしている台本は『ばくせん2』のものではない。

△△さんの紹介で、プロデューサーに挨拶に行った将は、そこでもかなり気に入られたらしい。

ただ、演技経験はほとんどない、というところで、本当にその役をできるのかどうか試すことになった。

つまり、プロデューサーが今クールで担当している連ドラのゲストのチョイ役で急遽出演させて、様子を見ることになったのだ。

「女弁護士モノでね。将くんは、冤罪を被せられた不良少年の役。あまりしゃべらない役だけど、そこそこ演技力は必要だから頑張って下さいよ」

とプロデューサーはにこにこと笑った。

5月3週目放送ということで、あさってから早くも台本(ほん)読みが始まり、今週中にリハーサルがあり、来週には撮りが行われるという。

放送日まで1ヶ月足らず、である。

テレビドラマの収録が意外にせっぱつまって行われるのが将には意外だった。

「最近は主要キャストだけ先に決めて、ストーリーはあとからつくる、というドラマも多いの。『ばくせん』のような人気シリーズの2作目なんかは別だけどね」

と、帰り道、武藤が車を運転しながら説明する。

今日台本を渡されたこのドラマも例外でなく、おかげでスケジュールがおせおせなんだという。

「これも、飲酒喫煙の奴の代役?」

と将が聞くと、武藤は平然と

「いいえ。プロデューサーのごり押し。今ごろ、どっかのプロのペーペーのコが泣いてるはずよ」

と言ってのけた。つまりすでに決まっている配役をプロデューサー権限で将に変えたのだ。

「そんなこと……しょっちゅうあるの?」

将はなんだか罪悪感のようなものを感じて武藤に訊いた。

「あまりないね。まあ、今回は、もともと決定済みの子が少しPのイメージと違っていたっていうのもあるから……

もっとも、そのプロダクションにも局のほうで埋め合わせを用意するだろうから、将が心配しなくても大丈夫」

「ふーん」

将は窓の外を流れていくとりどりの街の灯に目を移した。

別に将はテレビやドラマに出たくて出るわけじゃない。

そりゃ『ばくせん』の中田雪絵や、今回の女弁護士ドラマの主役を演じる人気女優にじかに会えるのはまんざらでもない。

だけど本気で俳優になりたいわけでもない。なりゆきでどんどん道が出来ていくから進んでいるだけだ。

そんな将だから、他人の役を奪ってしまったというのが少しせつなかった。

 
 

武藤の車が見えなくなると、将はさっそく聡に電話を掛けようと携帯を取り出して電源を入れた。

今まで武藤の命令で電源を切っていたのだ。

待ちきれない足は駐車場のほうに向いている。

「あ、アキラ?今からそっち行くけど」

有無をいわせない言い方をしながら車のキーを解除する。

「……そのようすだったら、すっかり元気になったみたいね」

プライベートな、低めの聡の声。いつもの声だけど久しぶりのような気がする。

「ご飯は食べた?」

聡のほうから訊いてくれるのが、むずむずするほど嬉しい。

運転席に乗り込むと、勢いよくキーを差し込む。

「……食べた。けど食べたい」……ほんとうは聡を食べたい。

「何ソレ」

と笑いを含んだ聡の声。

すっかり元通りなのが嬉しく、また不安になる。

――昨日のことは、幻だったんだろうか。

綿菓子のように……甘い記憶も感触も溶けてしまって、何も残っていない将である。

「昨日……」と将はいったん舌に乗せかけて

「いいや、直接言う……じゃすぐ行くから」

と一旦電話を切った。

シートベルトを装着し、アクセルを踏もうとしたとたん、留守番電話センターからの着信音が派手に鳴った。

電源を切っている間の着信。もしかしたらハルさんかもしれない、と将は再び携帯を手にとる。

メッセージはやっぱり、ハルさんだった。

『何度かおかけしたのですが、出られないようですので、こちらに失礼します。

巌様の意識が戻られました。ご心配されていたと思いますので、取り急ぎお伝えしておきます。また掛けなおします。失礼します……』

丁寧の上に、さらに丁重を重ねるような口調でもたらされた、巌の無事の一報に将は心からホッとした。

とりあえず、自分のせいでヒージーが死ぬことは避けられた……。

ハルさんに掛けなおそうかとも思ったが、もう9時、年よりは寝ている時間なので明日にしようと、将はより明るい気分で、アクセルを踏んだ。

 
 

薄手の寝巻きに着替えた聡は、風呂上りなのか、ピンク色の頬のままのすっぴんだった。

瞼の水色もない。そんな聡にほっとして、将は玄関先で聡を抱きしめる。

「ちょっと……、将、苦しい」

きつく抱きしめすぎたのか、聡が小さく悲鳴をあげた。

寝巻き越しでも昨日の感触が蘇るかと試したのだが、力を込めすぎたようだ。

残念ながら、この柔らかさやぬくもり、甘い香りが昨日と同じかどうか判別できない。

いつもの聡であることは変わりないけれど。

「ごめん……」

「いちおう、ご飯だけあるよ。それともコーヒーがいい?」

聡が将を中に招きいれる。そんな態度も普通だ。

「あ、うん。……じゃあ、コーヒー」

将の顔をみた聡が、ふっと笑った気がした。

 

「今何してたの?」

背を向けて、コーヒーの準備をしている聡に、将はできるだけ何気なく声をかけてみた。

聡は、豆が入ったドリップペーパーに湧いたお湯をたらたらとかけながら

「お風呂から出たところ。髪乾かしてた」

と答えた。その答え方も別に特に変わったところはない。

その淹れ方がつもよりことさらに丁寧な気がするのは、テレビの音がしないからだろうか。

「昨日さ、俺……」

将はせっかちにも、本題を切り出すことにした。

聡はちょうど、淹れ終わったコーヒーポットとカップを持ってくるところだった。

思わずその胸元に目が行く。

今日はブラジャーをしているようだ。薄手のパジャマの生地にその線がわずかに透けていた。

ここのところ将と二人きりのときは、ノーブラのことも多いのに。

「そうだ。将」

コーヒーを注いでいた聡は、目を見開いて将の顔を見た。

黒糖飴のような瞳の大きさに思わず見とれた将だが、次の瞬間、聡はくるりと背中を向けると、飾り棚の前にあった小さな紙袋を持ってきた。

「ハイ。これ。18歳の誕生プレゼント」

今度は将のほうが目を見開いた。

「マジ!」

「うん。遅くなっちゃってごめんね。土曜日に渡せばよかったんだけど……」

将は紙袋を嬉しげに見つめた。

見たこともない店名だが、厚手の紙で出来た濃い色の袋はいかにも高級そうだ。

「ありがとう……うれしー。あけていい?」

聡も微笑んでうなづく。

シックな包装紙を爪をたてて丁寧に剥いで、その中の箱を慎重にあける。

中には上品な色合いの万年筆が入っていた。

「万年筆!」

将は、聡の顔を見つめた。聡は万年筆を見つめながら

「何をあげたらいいか、わかんなかったから。これだったら邪魔にならないでしょ。

今は使わなくても、とっといたら将来使うだろうし」

と控えめに選んだ理由を声にする。

好きな人からのプレゼント。

それだけでも嬉しいのに、このプレゼントが一生ものになりそうな高級品だというのは将にもわかる。

ペンの握り心地を試したり、色艶をいろいろな角度から見る将に、聡も嬉しそうに

「でね……このインクが実はイカスミなんだよ」

と付け加える。

「へえー、イカスミ。どんな色なんだろ。さっそく書いていい?」

将は瞳をくるっと動かして聡の顔をのぞきこんだ。

「もう使うの?」

「アキラ、手帖持ってきて」

「え?」

「このペンで最初に書きたいことがあるんだ。だから、はやくー」