台本読みは無事終わった。
「どう?将くん」
と将に近寄ってきたPに
「初めてっていうけど、本当に勘がいいわ!とってもイケメンだし先が楽しみね」
と割り込むように絶賛したのは、奄美ユリだ。台本読みが始まる前と正反対の態度に将は唖然とした。
土人って言ったのはどこのどいつだ、と、皮肉が頭の片隅をちら、とかすめるが、それは口に出さず、将は笑顔で頭を下げた。
「ユリちゃんのお墨付きをもらえれば、鬼に金棒だよ」
Pも恵比須顔だ。
「あさってからも頑張りましょうね!将くん」
ちなみにあさってはリハーサルだ。
「ハイ」
ユリは、極上の笑顔で微笑むと立ち上がって将に手を振った。
何もかも許したくなるオーラに、将はやっぱり大女優なんだな、と感心した。
「すごい、将。奄美ユリに気に入られるなんて」
衣装合わせも終わって、事務所に戻る帰りの車の中で武藤は感嘆した。
「あれって気に入られてるの?最初、土人とか言われたしぃ」
将は気疲れして後部座席にもたれている。
「奄美ユリの好みは野性的なタイプよ。今付き合っているロックシンガーのKさんなんてまさにそういうタイプじゃない。
身長が高くて足が長いところも将と似ているわ。……だからといって将、誘惑に乗るんじゃないわよ」
「だーれが。あのひと、もう30代だろ」
と将は悪態をつきながらも、内心、奄美ユリに誘惑されたらそれはそれでちょっと嬉しい、と思った。
だけど自分には聡がいるから、誘惑に乗るつもりは毛頭ないけれど。
武藤は「冗談よ」と笑って
「まあ、奄美ユリは、気分屋だけど、裏表のないさっぱりした性格で有名よ。
誘惑するならハッキリ言われると思うし、たぶん年下の男は子分にしたいだけだと思うわ」
「ええー。今日のあのイジメがさっぱりした性格?」
将は顔をしかめた。前半の、あのねちねちとした、役名間違いのどこがさっぱりとした性格なのだろう、と思う。
「彼女、T歌劇団の出身だから芸には人一倍厳しい人でね。それで実力派と言われているんだけど、
たぶん今回の配役交代のことで何か誤解したんじゃないかしら……。まあ許してあげなさいよ」
「ふーん。別にいいけどぉ」
もともと将は口で言っているほど気にしてはいない。
「それにしても……T歌劇団出身の奄美さんに褒められるなんて、やったじゃない。彼女はお世辞を言わないことでも有名なのよ!」
と武藤は思い出したように振り返った。
台本読みが終わっても将は解放されなかった。
こんどはリハーサルに向けて、事務所で演技の猛練習があった。
しかし、台本読みのときと違って、一度、プロの俳優たちの演技をまのあたりにした将はふっきれたように照れを捨てて、自分の役を表現できるようになっていた。
「飲み込みがいいよ。それと人に訴える目力は逸品だね。トシのわりに表情も豊かだよ」
指導にあたった演出家も褒めるしかなかった。
演技力はそこそこ認められたものの、発声練習には骨が折れた。
特に「滑舌」をよくするための発声練習は本当に疲れた。
「将くんはもともと声質が低いから、より明瞭にしゃべらないと、何しゃべってるか視聴者に聞こえないよ」
と注意される。
将は一生懸命ハッキリしゃべっているつもりなのに、それでも「不明瞭だ」と指摘される。
「だけど、その声の低さが、女性にはウケると思う。特に、年とってから。日本の俳優は声が甲高い人が多いから。……だから頑張ろう」
頑張ろうと言われても。もともと将は何のために頑張っているのか、わからない。
とりあえず、やれ、と言われるからやっている。
だんだん舌がだるくなって、ろれつが回らなくなる直前に、ようやくレッスンが終了して将は解放された。
来た時同様、武藤がマンションまで送ってくれた。
「明日は、午後から『メンズmon-mo』の撮影だから。学校には早退届を出しておくから。校門に12時30分に迎えにいくからね」
そういって武藤は夜の中走り去っていった。もう時計は23時を指していた。
将は長い一日を思って、深いため息をついた。
「遅かったな」
ソファに寝転んでテレビを見ていた大悟が、帰ってきた将を見つけて声をかけた。
お互い、マンションで出会うのはあの頭突きの金曜日以来だ。
まだ、ジーンズを穿いているところを見ると、今帰ってきたところらしい。
サイドテーブルの上に缶ビールが置いてある。
「ああ。バイトでな」
将はややロレツが回らないまま答える。しゃべりすぎて舌がだるい。
そして自分も冷蔵庫からビールを取り出して、リップに手をかけた。
プシュっという音がとてつもなくいい音に思える自分は、やっぱりすごく疲れているのだろう。
それきり言葉もなくテレビを見入る大悟は、少し疲れているようだった。
「お前さ……。昨日どこ行ってたの?」
将は一人がけのソファのほうに腰を下ろして、ビールを飲みながら大悟に昨日の泊まりについて訊く。
「いや、バイトとか」
大悟はソファから身を起こすことなく、テレビから目を離すことなく、答えた。
「偽シャブ売りの?」
疲れていた将、単刀直入に訊いてしまって、しまった、と少し思った。
「偽シャブだって?」
大悟はその黒い瞳をぐるりと将の方へ動かした。
「井口から聞いたんだ。お前、また偽シャブ売り始めたんだろ」
引っ込みがつかなくなった将、井口に訊いたことを前面に出すことにしてビールをあおった。
「……」
大悟は一瞬将の顔を見つめたが、将がビールをあおっているのを見て、再び視線をテレビに戻した。
だから、将は無言の大悟にしびれをきらしたように再び話すしかない。
「あれサ……バレたらヤバくない?小学生相手ってわけでもないんだろうしさ。……まさか本物ってことないよな」
できるだけ、角が立たないように、冗談めかす。
将の、できる限りの丸腰の口調が大悟に届いたのか、大悟はテレビから目を離すことなく話し始めた。
「脱法は本物。……瑞樹の遺品に入ってたのを売りさばいた」
「えっ」
「もう全部売り払ったよ」
瑞樹の遺品と聞いて、将は一瞬、あの最悪の薬……つまり覚醒剤のことを思い浮かべた。
が、脱法ドラッグと聞いて、また、すべて売り払ったと聞いて少しホッとした。
それでも、悪いことには変わりないが。
「そっか。……もう、そういうことすんなよ。いいトシなんだしさ」
と将は言いながらも、我ながらうそ臭いほど説教臭いなと、言葉を引っ込めたくなる。それを切り替えるように
「ところでサ、三宅さんから連絡あった?」
と訊いてみる。
三宅弁護士の名前に大悟が再び、その黒い瞳をテレビからこちらに向ける。
「いや。俺も、さっき帰ってきたばっかだから。三宅さんがどうしたの?」
「や……あのさー」
将は、大悟の鋭い視線に、少し躊躇する。
前かがみになってビールの缶をいじりながら、意を決して話す。
「保護者がいなくて、お前がいろいろ困ってるって聞いたからさあ……」
と前置きをしつつ将は、巌の運転手・西嶋の弟が、大悟の保護者になってくれるという件を伝えた。
「西嶋さんは俺も小さい頃から知ってるけど、すっごくいい人だし……。
弟さんも小さな町工場を経営していて、特許付きのすごい技術を持ってるんだって。
だから潰れる心配はないから……大悟の金を使い込むとかそういうのは心配しなくていいし」
その口調からも、将は大悟に払われる金のことも、またそれが親戚に使い果たされていることも知っていそうだった。
なんで将が、それを知っているのか、と大悟はけげんに思ったが、悪い話ではないので、とりあえず
「悪いな。いろいろ面倒をかけて」
と言っておいた。将は大悟の言葉に安心したのか、
「これで、金のことで困らなくて済むじゃん。怪しい薬を売らなくてもいいし」
と背もたれに寄りかかった。
「それにさ……大悟が希望すれば、だけど養子縁組だってしてくれるらしいよ」
それには大悟は返事をしなかった。
「な、いい話だろ。いきたけりゃー学校だって行けるし。うまくいけば社長を継げるかも」
将は、大悟の沈黙には気付かず、明るい調子で続けた。
「ああ……そうだな」
ようやく大悟は言葉を返した。
しかし返事をしながらも、ひどい屈辱を感じているのは否めない。
将は……最初から、金で大悟の人生を買ったのだろうか。
殺人犯という汚名に穢れない……人生を。
そして、自分は無垢な人生を、将に売り渡してしまったのだろうか。
「俺、先に風呂に入っていい?」
将は、大悟が感じている屈辱にまるで気付かないらしく、凝ったらしい首をカクカクと左右に動かしながら訊いてきた。
「いいよ」
大悟はできるだけの笑顔をつくった。
そして
「将」
と呼びかける。
「んー?」
バスルームへ歩く将は伸びをしながら振り返った。健やかに伸びきったその腕はもう少しで天井に届きそうに見える。
「ありがとうな」
「そんな、改まるなよ。照れちゃう~ん」
とふざけながら将は白い歯の笑顔でバスルームに消えた。
リビングに一人残された大悟を、ふたたび屈辱が包んだ。
養子縁組だって。
誰が、そんなもの。
と唇を噛み締める。
本当は……大悟はとうの昔に実の父などあてにしていなかった。
かといって誰かの養子になるなんて、想像もつかない。
という以上に、将にそんな情けを掛けられる自分がみじめだった。
将の罪を被ったことを、金で清算することに甘んじる自分が情けなかった。
本当は、将が見つけてきた保護者だって頼りたくない。
食い扶持が、部屋代が、学校が、月なにがしかの小遣いが何なんだろう。
と一旦は思った大悟だが、やはりそれは大きかった。
いま、大悟の手の中には、脱法ドラッグを売った万札が少しばかりある。
だが……将の罪を被った金に一切頼らないなら、一生暗闇の中ですごさなくてはならない。
大悟の真っ暗な脳裏に、白い粉が舞い散る。
まだ……瑞樹が残した、あの白い粉薬のほうには手をつけていない。
だけど、あれを売るとなると……暗闇に生き、おそらく暗闇に死んでいったであろう父親の二の舞だ。
しかし……それもいいような気がしている自分を、大悟はあわてて揉み潰した。