「ね、ロマーヌ、頼みがあるんだけど」
篠塚がロマーヌに英語で話し掛けた。
「あのさ。君たちが話してるところを撮影させてくれない?」
篠塚はジャケットのポケットから小さなデジカメを取り出した。
ここに来るのにもカメラをちゃんと用意して来ていたのだ。
英語でロマーヌにそう頼んだあと、
「今、ちょっといい顔してるからさ」
と日本語で将に囁く。
ロマーヌは
「ええっ!私が、写真集に載っちゃうの?パリでも買えるかしら」
とおどけながら快諾した。
そこで篠塚はまずはカメラ目線の二人の姿を撮影した。
「SHOの昔の彼女、スクープ……」
と小さくふざけながらシャッターを切る。
あとは二人で適当に話してて、と篠塚は席を離れて撮影に没頭する。
「ふふ。緊張しちゃうわ。ショー、お母さんは元気?」
将の母・環を知っているロマーヌはテーブルに肘をついたまま、髪をいじりながら訊いた。
そんな仕草もなんだか、パリジェンヌっぽい。
だが将は、なごやかな雰囲気を壊す事実を伝えないといけない。
「日本に帰って、すぐに死んだんだ」
できるだけ、もう過去のこと、というように話したつもりだったのに、ロマーヌは大きな青い眼をまた見開いた。
「なんてこと……。そう……。ヘンなこと訊いてごめんなさいね」
「もう10年も前だから、気にしないで。……ところでロマは、リセ(高校)にいってるんだよね」
将は話題を変えようとした。
「そうそう。今、私は人生の一大難局に立たされているの」
ロマーヌはコミカルなほどに顔をしかめた。
将には『人生の』に続く言葉の意味はわからなかったが、その大げさな表情で、ロマーヌも話題を変えることに協力してくれているんだとわかった。
ロマーヌも、幼い頃に父母が離婚し、母がいない寂しさについては身にしみているのだ。
「あと1ヶ月でバックが始まっちゃうから……」
とロマーヌは続けた。
「バック?ああ、バカロレアね」
それは将も聞いたことがある試験だ。
『バック』、つまりバカロレア試験はフランス全土の高校3年生に対して行われる、高校卒業資格認定試験だ。
その厳しさは往年のコメディ映画『ザ・カンニング』でも揶揄されているが、
何しろこれに合格しないと『スーパーのレジ打ち以上の仕事に就けないぞ』と高校生(リセアン・リセエンヌ)は皆、教師から口を酸っぱくしてどやされるという。
教科はおよそ20種類にも及び、その中には哲学やmentionといわれる面接・口述試験なども含まれる。
また、良い大学に進むためにはこれで高得点を取得する必要がある。
つまり、フランス人の人生の鍵を握る試験なのである。
ロマーヌは頬杖をつくと、ため息をついた。
「理工学校に行きたいから、頑張らなくちゃ。彼氏にも会うのも我慢して毎日勉強なのよ」
彼氏、のところでチラリと将のほうに目をあげた。
「ロマ、彼氏いるんだ」
と、誘いに乗ってあげる。彼氏のことを話したいんだろうと思ったからだ。
それは図星だったらしく、ロマーヌは今までで一番愛くるしい笑顔で微笑んだ。
ちょっと頬がばら色に染まった気がする。
「うん。ショーには悪いけど。大学生なのよ」
そういいながら、ロマーヌは立ち上がると自分の部屋にいったん入って、写真立てごと1枚の写真を持ってきた。
そこにはロマーヌと恋人が肩を組んで写っていた。
「彼はアンドレ。ほら、ちょっとショーに似てるでしょ」
将はウソ、と思った。そこには某地方の地タレから俳優になったあの人に似ている男が写っていた。
背が高いところ以外で将との相似形を探すのは難しかった。
「や、優しそうじゃん」
将はお世辞の言葉を探した。
「優しそう、じゃなくて本当に優しいの」
ロマーヌは将のほうなど見ずに、写真に見入っていた。
「でもずっと会ってないの」
「何で?」
将はキョトンとした。
「やーね!勉強しなくちゃいけないからに決まってるじゃない」
ロマーヌがあまりにも早口だったので、将は目をパチパチとさせた。
「ああ」
ロマーヌは自分が早口すぎたのにきづいて
「あたしね、建築家になりたいの。そのためにはぜひ理工学校に入りたいんだけど、バックで高得点を取らないと、受験資格も与えられないの」
とゆっくり話す。
「彼に会ったら、虜になってしまって勉強が手に付かなくなっちゃうでしょ。だから彼と会うのを我慢してるの。……今、私の人生で一番大事なときだから」
ロマーヌは頤(おとがい)を傾けて、写真の中の彼に見入った。
「会えばいいじゃん?アンドレに」
あまりにもロマーヌがせつない顔をしていたので、将は思わず口走ってしまう。
「ダメよ!」
ロマーヌはキッと将を睨んだ。
「今は人生で大事なときだもん!」
「会いたいときは会うのが自然なんじゃないの?」
そういった将の心には、はっきりと聡が浮かんでいた。
「試験より、彼といる方が大事なんじゃないの?彼がいれば人生なんてどうにでもなるんじゃないの?」
と言いながらも、将はその言葉が、あまりにも現実離れして甘いことに気づいていた。
そして聡といるとき、そんな風に思っていた自分の……甘さにようやく気づく。
「ショー、何いってんの?彼とは試験が終われば会えるけど、試験のやり直しは……人生のやり直しは利かないのよ」
ロマーヌは少し軽蔑するように言い放った。
ロマーヌの口調に気づいた将は、言い方を変えてみる。
「アンドレだって寂しがってるんじゃない?」
「ううん。……アンドレだってわかってる」
ロマーヌは再び視線を写真のほうに落としながら首を横に振った。
「それに……アンドレのせいで、私が試験でひどい成績を取ったら……。理工学校に行けなかったら、きっと彼は自分のせいだ、って苦しむと思う」
将はドキッとした。
聡が言っていた言葉と重なる。
「彼は、私の人生を理解してくれてるから……。今が人生で一番大事なときだって、彼が一番よく知ってるから……彼のためにも頑張らないといけないの」
ロマーヌは何度となく『人生( ラ・ヴィー )』という単語を使う。
それを発音するとき、きついほどに口角を横に広げる。それはロマーヌの決意の表れのようだった。
将は考え込んだ。
同い年のロマーヌが、ここまで自分の将来を見据えている。
そのために、一時的に恋人に会えないのも、構わないという。
『今が人生で一番大事なとき』
というのは聡も……よく言っていた。
聡のためだったら、人生なんてどうでもいい。
そんな考えは甘いとどこかで自覚しつつ、いつも聡と一緒にいたい将はうそぶいていたのかもしれない。
だけど、自分は建築家になりたいロマーヌのようになりたいものがあるわけじゃない。
いや、だからこそ。
教師の聡は教壇の上でよく言っていた。
『就職は、スタートが自由な椅子とりゲームのようなものだ』と。
早く目標を定めてダッシュをした者が、より夢を叶える確率が高くなると。
『将来の目標を決めていない人は、いろいろと経験を増やして、早く自分がなりたいものを見つけるために、人の数倍は行動してください。
なんにもなりたいものがないから、といってダラーッとしてたら、結局、面白くも給料も高くない仕事をやるハメになる確率が高まりますよ』。
将は教壇の上にいる聡に見とれながら、聡と一緒だったら『面白くない仕事』でもかまわない、とすら思っていた。
でも……そんなふうに『面白くない仕事』についた将を見たならば、聡はやはり、自分のせいだ、と苦しむのだろうか。
「お、いい顔」
気がつくと、篠塚が将の近くでカメラを構えていた。
「もっと悩め。若者たち」
とおどける。
「ま、一生あえないわけじゃないし。あと2ヶ月。辛抱すれば彼と二人でヴァカンスだもん」
ロマーヌは伸びをするように腕をぐーん、と上に伸ばした。
そして、元の体勢に戻ると、
「ショーは彼女いるの?いるんでしょ」
と青い眼をくるっとさせて、こっちに身を乗り出してきた。
瞳の色にあわせたのであろう、耳のピアスが髪の下でキラリと光った。
「うん……」
将はうなづいた。
「どんな人?」
ロマーヌの問いに『先生』と答えようとも思ったが、さっきの話から、少し気恥ずかしい。
それに、篠塚もいる。
答える代わりに将は携帯電話をポケットから取り出すと、待ち受け画面を見せた。
「へえ……。『カワイイ』」
聡の写真を見たロマーヌは、日本語で『カワイイ』と将に向かって微笑みかけた。
「何て名前?」
「アキラ」
ロマーヌはアキラ、アキラと何度か繰り返した。
まさか後に、このロマーヌと聡が関わりあいを持つことになるなど、そこにいた誰も想像しえなかった……。