第224話 ローズオイル

成田に降りるなり、空気がねっとりしているように感じた……湿気。

2週間も砂漠にいた将は、日本の空気に、まといつくような重さを感じた。

それでも、やっぱり懐かしかった。

聡がいる国。

聡と同じ空気。

将はさして美味しくもない空港の空気を吸い込んだ。

「あらー陽にやけたわねえ」

成田までわざわざ武藤が出迎えてくれた。

モロッコまで海外ロケに同行した彼女だがCM撮影終了時点で帰国している。

『ウルウル滞在日記』の収録で将に付いていてくれるのはカメラとコーディネーターだけ、というテレビにしては極めて少人数で行われたのだ。

「どうだった?ウルウルきた?」

『ウルウル……』はその名のとおり、現地人の家庭にホームステイし、最後には別れがたくて泣いてしまうから、というのもある。

「ウルウルどころか大泣きしちゃったよー。……大変だったけど」

将は陽に焼けた顔から、白い歯を見せた。

砂漠で放牧をするベルベル人のテントでの1週間は、将にとって何もかもはじめてのことばかり、まさにカルチャーショックだった。

羊を追いまわし、羊の屠殺から解体に立会い、少年たちと一緒に『砂漠のバラ』と呼ばれる結晶を見つけに行く。

過酷な気候に加え、日本のような利便性がまったくない暮らしに、さすがの将もめげそうになったが、

それを支えたのは、将のもちまえの好奇心と、ベルベル人の家庭の人々の素朴な優しさだった。

特に2歳年下の、その一家の長男とはことさら仲良くなった。

「いや、将くんは根性あります。あの環境で10代のタレントさんだったら、だいたい1回は泣きが入るか倒れるところですけど、将くんは泣き言を1回も言いませんでした」

同行したカメラマンが褒めた。

「よく頑張ったわ」

武藤は満足そうだ。

本当は……将を支えたものはもう1つある。

聡。

聡に、頑張ると約束したから、将はつらい仕事も耐えたのだ。

砂漠の夜は、信じられないほど冷える。

昼は50度近くまで気温が上昇するのに、夜は0度近くまで下がるのだ。

最初の夜、寒さに眠れなくて、将は外に出てみた。

すると、夜空はすごい数の星に覆われていた。

それは、あの二人っきりで一夜を過ごした、北海道のニセコ山頂を思い出させた。

以来、将はつらくなると、聡を思い浮かべて自らを癒した。

ここでへこたれたら、聡はますます遠くなる、と自分を叱咤激励したのだ。

 
 

「3日間、完全オフにしてあげたから、ゆっくり休みなさい」

マンションまで送ってくれた武藤はそういったが、翌日、将は時差ぼけを押してきちんと起きると学校に出掛けた。

「うぉ、真っ黒だな。パリで日サロいったん?」

井口がそういったとおり、白いシャツを着た将は、ますます日焼けが目立つ。

「バーカ。モロッコだよ、アフリカだよ。サハラ砂漠だよ」

「サハラ砂漠の土産が、なんでクッキーなわけ」

早くもユータが将の土産のクッキーを開けている。

「かわいいけどさあ」

ユータがくわえているクッキーは顔をかたどったチョコサンドで、そんなに変わったものではない。

3種類の表情がかわいいが味は『普通に美味しい』程度だ。

「でも、うまくねー?てか、土産買う時間ほとんどなかったし、おまえらにガスール石鹸とかやってもしょうがないじゃん……って、それクラス全員分なんだから、何枚も食うなよ」

「せこっ!」

そんな様子を、みな子は見るともなく、見ていた。

手の中には、将が欠席しているあいだの授業を記録したノートのコピーがある。

極力きれいな字で、わかりやすくメモをとったのは将のためだからだ。

何でそこまで、と問われたら

『この間、助けてくれたから。それにクラス委員として当然のことよ』と答えようと思っていたが、

あんな風にこわめの男子とつるんでいるところに、ノートを渡しにいくのはみな子でも出来ない。

そこへ、前の扉が開いて、聡が入ってきた。朝のHRだ。

「おはよう」

教壇の上から皆に投げかけるその言葉が……みな子には、将に向けられているように思えた。

実際は、聡が将に視線を投げた時間は、他の生徒と極めて平等な一瞬だけだったのだが。

しかし、聡は、その一瞬で将の様子を焼き付けた。

陽に焼けた肌。それは白目とのコントラストが際立った。

そのせいか自分に向けられた瞳はいっそう大きくなったかのように見える。

将のほうも、頬杖をつきながらも、ひさしぶりの聡に見入っていた。

思えば出発前日、何もない部屋での逢瀬を邪魔されて以来の聡。

5月も下旬の日本は、気温もあがっている。

聡は黒い半袖の開襟シャツを着ていた。

それは冬の間、スーツを着込んでいた頃より、ずっと体のラインを強調していた。

あんまり見たらいけない、と思うけれど、聡から目を離すことができない。

ちなみに……『もう付き合えない』聡だけど、将はこっそり聡への土産を持ってきていた。

アロマ好きの聡のために、モロッコ産のダマスク・ローズのオイルの瓶をポケットにしのばせている。

放課後の補習のときにでも、さりげなく渡せれば、と思っていたけれど、HRによると補習はクラスマッチの練習のために今週は休みだという。

渡すのは難しいかもしれない、と将は落胆した。

一瞬の視線の邂逅だけでHRはむなしく終了した。

 
 

「将、起きろよ。昼だぜ」

「……んア?……もう、そんな時間」

あっという間に午前中の3時間が終わったらしい。

時差ぼけのせいか、眠気を抑えられなくて、授業中ずっと机で爆睡していた将である。

井口に揺り起こされて、大きく伸びをすると、ボリボリと首の後ろを掻きながら、井口と共に学食へ向かうべく立ち上がった。

将が廊下に出ると、どこからともなく、

「キャー」

「鷹枝さんよ」

「ヤバい(=カッコいい)」

という下級生女子の囁きが聞こえた。

下級生の女子が、将が出てくるのを遠巻きに見ていたのだ。

4月のmon-mo、そして5月のメンズファッション誌、とその時点では一般人扱いながら大きく雑誌に写真が出た将は、すでに校内では有名人だった。

特に下級生はすでに、将をアイドルのように崇めているようだ。

ちょうどそのとき、隣の3年1組での授業を終えたのか、聡が廊下に出てきた。

将も聡もお互いを一瞬で見つけた。そして二人の視線が再びつながる。

「先、行ってて」

将は、井口にそういうと、聡のほうにつかつかと向かってきた。

聡はその大胆な行動に『えっ』という表情を隠せなかった。

「キャー、ヤダ!」

「ちょー、噂本当なんだ。鷹枝さんがアキラ先生に……って」

とあからさまに噂する黄色い声が聞こえる。

しかし、将は……身を硬くした聡の肩越しをすっと通り抜けた。

立ち止まりもせず。言葉もなく。視線もくれずに。

聡に残されたのは、3週間ぶりの……ほのかな干草のような香りだけ、だった。

将は聡を無視すると、そのまま3年1組の向こうにある、便所に入ってしまった。

聡は……そしてまわりのギャルたちも、唖然とした。

 
 

あっという間に放課後になった。

橙色がかった光が窓から差し込む中、クラスメートは、各々、クラスマッチの練習をすべく、着替えを持って楽しげに更衣室へ移動し始めた。

そんな中、将は、どうせ卓球の練習をしても、クラスマッチへの参加は無理だろう、と一人サボって帰る準備をしていた。

武藤が『6月は忙しいわよ。覚悟しなさい』と言っていたから。

そんな将のポケットの中にはあいかわらず、ローズオイルが入っている。

結局渡しそびれてしまった。さっきの、昼休みも。午後の英語の時間も。

万が一聡が教室に戻ってくるかも、とわざとノロノロしていた将は、ついに見切りをつけて立ち上がった。

黄色い声の下級生も、今はいない。

カバンを肩にひっかけ、入り口をくぐるようにして廊下に出た将に、ジャージ姿の女子が一人駆け寄ってくるのが見えた。

星野みな子だ。

「鷹枝くん!」

「どうしたの、星野サン」

息を切らして駆けてくるみな子に、将は立ち止まった。

「……これ。休んでいる間の、ノート」

みな子は走ってきた勢いでノートのコピーを差し出した。

将は口を半ばあけて、みな子を見つめた。

みな子は将の顔ではなく、自分が差し出したコピーのあたりに視線を固定していた。

そんな様子に、将の口からは思わず素直にお礼の言葉が出た。

「……ありがとう」

みな子は、首をぶんぶんと横に振ると

「くっ、クラス委員だからっ……。当然のことだよ」

と早口で言った。危うく声がうらがえりそうなみな子だ。

――あっ『この間、助けてくれたから』を忘れた!

そう気づいたが、いまさら付け加えるのも逆に不自然だ、とみな子は黙った。

将は、それを受け取ると中身を広げた。

とても丁寧に記録してある内容に、将はその場で読み込んでしまった。

「だっ、大学、受けるの?」

将の手が届きそうな範囲に黙って立っている緊張に耐えられずに……みな子は質問を投げてみた。

将の視線がノートに移ったので、少し安心して将の陽に焼けた顔を見る。

「んー、わかんない。……でも受けられたら受けたいのは変わんないけど」

将はコピーを閉じて、みな子に笑いかけた。

将と視線があってしまい、みな子はあわてて、目をそらした。

「ノート、これからも取っといたげようか」

「いいの?」

「……いいよ。どうせついでだもん」

「ありがとー、助かる。星野サン」

あいかわらずそっけない口調のみな子だが、将にはそんなところが、可愛らしく思えた。

前も思ったが、聡の高校生時代もこんな感じだったんだろうか。

「ね。手ェだして」

将はいたずらっぽくみな子に促した。

「なに?」

「いいから」

みな子はいぶかしげな顔をしながら左手を差し出した。

将は、ポケットからあのローズオイルの瓶を取り出した。

聡への土産のつもりで持ってきたものだ。

それをみな子の手の上に置いた。

「これさ。モロッコ土産。……お礼にあげる」

オイルの小瓶は将の体温でほんのり温かかった。

みな子は思わず将の顔を見上げた。

黒く焼けているが、今までみたこともない優しげな笑顔があった。

「……いいの?」

将は微笑んでうなづくと、

「じゃ」

と歩き出した。

「ねえ!」

みな子は1歩ずつみな子から離れていく将の背中にむかって叫ぶように声をかけた。

将は立ち止まると振り返った。

みな子はばら色の頬をして、小瓶を両手で握り締めて立っていた。

午後の光が、みな子のすぐ近くのサッシに反射している。

「今度、モロッコの話、聞かせてね」

将は、口元に微笑を浮かべて「ああ」と答えた。それは、

――ああ、この人が、芸能界に入るのがわかる。

とみな子に思わせるような、とびきりの笑顔だった。

将が行ってしまった後、みな子は、ローズオイルの瓶をあけてみた。

将の熱い血潮で温められた瓶からは、甘い香りが立ちのぼり、みな子は一瞬めまいがしそうになった。