陽が長くなったにもかかわらず、聡が明るいうちに帰れる日は少ない。
今日もすっかり暗くなっている。
部屋に戻った聡はすっかり疲れていた。
今年度から1年生が3クラスになったというのもあり、もともと仕事量自体が増えている。
その分の疲れが蓄積されている、というのもある。
しかし、今日の疲れはことさらだ……たぶん、将が久しぶりに登校したから。
将の姿を目にしたせいで、いつもより余計に心臓が脈打ち、そのせいで血液が体をめぐる速度は尋常じゃなかったはずだ。
つまり、いつもより激しい代謝が行われたせいで疲れているというのも、もちろんあるだろう。
聡は、無意識にミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出して飲むと座り込んだ。
夕食にするつもりのコンビニ弁当はローテーブルの上に置いたまま、スイッチが切れたように脱力する。
遠回りして、バイトしていた弁当屋さんにいく気力もなかったのだ。
無意識のまま、手は携帯を開く。
職場で開くことはまずないから、待ち受けは将のままにしている。
画像の将は、疲れて無意識になった聡に感情を回復させた。
「将……」
付き合えない、と言い出したのは聡のほうなのに、こうして将の顔を見ると、
聡の心には小さく固めた水中花を水の中に沈めたときのように、一気に将への想いが花開く。
心という容器に収まりきれない想いの花びらが、吐息や呟きとなって口から漏れた。
さっきも……久しぶりに将の顔をみた聡の心は、体を抜け出して将のすぐそばに飛んでいきそうだった。
でも社会的立場を持つ肉体を抜け出すことができない心は、聡の中でひどく暴れた。
それを押さえつけながら、何でもないように教壇に立ち続けた聡は、ただひどく消耗した。
そして昼休みの前、聡のほうへ歩いてきた将。
一歩一歩、こちらへ近づいてくる将は、まるで磁力を持つように、聡の全身の産毛を引き寄せた。
将は聡を見つめていた。陽に灼けて黒くなった顔の中で、際立つ白目。
それはその中心の瞳が見つめるものを強調した……将の瞳は聡を射抜いていた。
本当に矢が刺さったように、聡はその場から動けなくなった。
地球に確実に衝突するコースで彗星が近づいてくる。
なのに、何もできずに地球は宇宙に浮かぶしかない……そんな風に聡の体は固定されてしまっていた。
動けなくなった肉体の中で……彗星が近づく地球上の人類のように、心が恐慌を起こしていた。
この肉体を脱出したい、と心は徒に暴れていた。
バカな心の奴は、体を脱出して近づく彗星にもっと近寄りたがっている……一体化したがってさえいる。
その熱さは、大気圏たる皮膚を破る勢いで、聡は肺もが灼けたように呼吸をするのを忘れていた。
しかし。聡に定められていた将の軌道は……すんでのところでずれた。
聡まで、あと3歩というところで、将の瞳は聡からふい、と離れた。
地球に衝突するかと思われた彗星は、急に軌道を変えてすり抜けていった。
聡は振り返ることも出来ずに、気が抜けた。
3週間ぶりの、干草の香りだけが、聡に残された。
それは、彗星が地表に撒き散らしていった流星群のように、聡の心にキラキラときらめくせつなさだけを残していったのだ。
ほっとしたような、がっかりしたような脱力。弛緩。
しかし、聡はわかっていた。
――あれは将の、決意の表れなのだ。
開いた携帯はメールの着信を示している。案の定、将からだった。
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さっきは無視してゴメン。
本当はすっごくしゃべりたかった。
でも、我慢したんだ。
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その下は何行か改行による空白があって見えなかった。
それは、将の沈黙なのだろう。
沈黙のあとには、たぶん決意がある。
聡は予感しながら、スクロールボタンを押して移動して続きを見る。
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俺、本気で聡と距離を置こうと思う。
みんなが、俺と聡が無関係になった、と思い込むほど、徹底的に。
つらいけど、二人の将来のために我慢する。
今は、我慢のときだけど、その先にはきっとずっと一緒にいられる未来がくると信じたい。
だけど……ときどき、こうしてメールを送るかもしれない。
寂しすぎるときもあるだろうから。
それだけは許して。
無視してくれて構わないから。
将
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聡は、携帯にしては少し長いメッセージを繰り返しスクロールさせて読んだ。
やはり、あれは将の決意の表れだった。
それを確認して安心しつつも、すでに聡は寂しかった。
将が、表面上とはいえ、自分から離れていく。
自分で決めたことなのに。
自分で言い出したことなのに。
将のためだと、理性ではわかっているのに……。
聡の本心は、将を恋しがって叫びをあげていた。
将に会いたい。
将と語らいたい。
将と触れ合いたい。
将と抱き合いたい。
聡は、それらが叶えられないかわりに、せめて将の記憶を脳裏から引き出そうとした。
だけど、求める心に対して、それは薄すぎる気がして、聡はベッドに倒れこんだ。
もう疲れて、座っているのすらつらいのだ。
ベッドの上で聡は目を閉じる。ここは傷ついた将を受け入れた場所だ。
あのときの将は、荒々しい波のようだった。
聡は浜辺の砂のようにただ、それを受け止めるしかなかった……。
聡は、やっと鮮やかに蘇った記憶に、思わずため息をつくと天井を見上げた。
やっと静まった将の髪を撫でながら、見上げたあのときの、せつないまでの彼への愛しさも蘇ってくる。
寂しさは恋しさを訴えたが、蘇った愛しさは冷静な忍耐を聡に諭す。
――今は……見守るしかない。
将の成長を。
将が輝かしく活躍するであろう様を。
もしかしたら、その過程で聡は忘れられていくかもしれないけれど、それすらも見届けることが聡に出来ることなのだ。
聡は、携帯をもう一度開く。
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メール、ありがとう。
ずっと、見守ってるよ
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短いメッセージに、聡は宇宙ほどに膨らみきった将への愛しさを詰め込む。
将の中で水中花のように、聡の心が花開きますように、と聡は願って送信ボタンを押した。