第226話 恋しさと愛しさ

陽が長くなったにもかかわらず、聡が明るいうちに帰れる日は少ない。

今日もすっかり暗くなっている。

部屋に戻った聡はすっかり疲れていた。

今年度から1年生が3クラスになったというのもあり、もともと仕事量自体が増えている。

その分の疲れが蓄積されている、というのもある。

しかし、今日の疲れはことさらだ……たぶん、将が久しぶりに登校したから。

将の姿を目にしたせいで、いつもより余計に心臓が脈打ち、そのせいで血液が体をめぐる速度は尋常じゃなかったはずだ。

つまり、いつもより激しい代謝が行われたせいで疲れているというのも、もちろんあるだろう。

聡は、無意識にミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出して飲むと座り込んだ。

夕食にするつもりのコンビニ弁当はローテーブルの上に置いたまま、スイッチが切れたように脱力する。

遠回りして、バイトしていた弁当屋さんにいく気力もなかったのだ。

無意識のまま、手は携帯を開く。

職場で開くことはまずないから、待ち受けは将のままにしている。

画像の将は、疲れて無意識になった聡に感情を回復させた。

「将……」

付き合えない、と言い出したのは聡のほうなのに、こうして将の顔を見ると、

聡の心には小さく固めた水中花を水の中に沈めたときのように、一気に将への想いが花開く。

心という容器に収まりきれない想いの花びらが、吐息や呟きとなって口から漏れた。

さっきも……久しぶりに将の顔をみた聡の心は、体を抜け出して将のすぐそばに飛んでいきそうだった。

でも社会的立場を持つ肉体を抜け出すことができない心は、聡の中でひどく暴れた。

それを押さえつけながら、何でもないように教壇に立ち続けた聡は、ただひどく消耗した。

そして昼休みの前、聡のほうへ歩いてきた将。

一歩一歩、こちらへ近づいてくる将は、まるで磁力を持つように、聡の全身の産毛を引き寄せた。

将は聡を見つめていた。陽に灼けて黒くなった顔の中で、際立つ白目。

それはその中心の瞳が見つめるものを強調した……将の瞳は聡を射抜いていた。

本当に矢が刺さったように、聡はその場から動けなくなった。

地球に確実に衝突するコースで彗星が近づいてくる。

なのに、何もできずに地球は宇宙に浮かぶしかない……そんな風に聡の体は固定されてしまっていた。

動けなくなった肉体の中で……彗星が近づく地球上の人類のように、心が恐慌を起こしていた。

この肉体を脱出したい、と心は徒に暴れていた。

バカな心の奴は、体を脱出して近づく彗星にもっと近寄りたがっている……一体化したがってさえいる。

その熱さは、大気圏たる皮膚を破る勢いで、聡は肺もが灼けたように呼吸をするのを忘れていた。

しかし。聡に定められていた将の軌道は……すんでのところでずれた。

聡まで、あと3歩というところで、将の瞳は聡からふい、と離れた。

地球に衝突するかと思われた彗星は、急に軌道を変えてすり抜けていった。

聡は振り返ることも出来ずに、気が抜けた。

3週間ぶりの、干草の香りだけが、聡に残された。

それは、彗星が地表に撒き散らしていった流星群のように、聡の心にキラキラときらめくせつなさだけを残していったのだ。

ほっとしたような、がっかりしたような脱力。弛緩。

しかし、聡はわかっていた。

――あれは将の、決意の表れなのだ。

開いた携帯はメールの着信を示している。案の定、将からだった。

 

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さっきは無視してゴメン。

本当はすっごくしゃべりたかった。

でも、我慢したんだ。

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その下は何行か改行による空白があって見えなかった。

それは、将の沈黙なのだろう。

沈黙のあとには、たぶん決意がある。

聡は予感しながら、スクロールボタンを押して移動して続きを見る。

 

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俺、本気で聡と距離を置こうと思う。

みんなが、俺と聡が無関係になった、と思い込むほど、徹底的に。

つらいけど、二人の将来のために我慢する。

今は、我慢のときだけど、その先にはきっとずっと一緒にいられる未来がくると信じたい。

だけど……ときどき、こうしてメールを送るかもしれない。

寂しすぎるときもあるだろうから。

それだけは許して。

無視してくれて構わないから。

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聡は、携帯にしては少し長いメッセージを繰り返しスクロールさせて読んだ。

やはり、あれは将の決意の表れだった。

それを確認して安心しつつも、すでに聡は寂しかった。

将が、表面上とはいえ、自分から離れていく。

自分で決めたことなのに。

自分で言い出したことなのに。

将のためだと、理性ではわかっているのに……。

聡の本心は、将を恋しがって叫びをあげていた。

将に会いたい。

将と語らいたい。

将と触れ合いたい。

将と抱き合いたい。

聡は、それらが叶えられないかわりに、せめて将の記憶を脳裏から引き出そうとした。

だけど、求める心に対して、それは薄すぎる気がして、聡はベッドに倒れこんだ。

もう疲れて、座っているのすらつらいのだ。

ベッドの上で聡は目を閉じる。ここは傷ついた将を受け入れた場所だ。

あのときの将は、荒々しい波のようだった。

聡は浜辺の砂のようにただ、それを受け止めるしかなかった……。

聡は、やっと鮮やかに蘇った記憶に、思わずため息をつくと天井を見上げた。

やっと静まった将の髪を撫でながら、見上げたあのときの、せつないまでの彼への愛しさも蘇ってくる。

寂しさは恋しさを訴えたが、蘇った愛しさは冷静な忍耐を聡に諭す。

――今は……見守るしかない。

将の成長を。

将が輝かしく活躍するであろう様を。

もしかしたら、その過程で聡は忘れられていくかもしれないけれど、それすらも見届けることが聡に出来ることなのだ。

聡は、携帯をもう一度開く。

 

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メール、ありがとう。

ずっと、見守ってるよ

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短いメッセージに、聡は宇宙ほどに膨らみきった将への愛しさを詰め込む。

将の中で水中花のように、聡の心が花開きますように、と聡は願って送信ボタンを押した。