「俺さ、アキラが頼ってくれて、めっちゃ嬉しい」
最初の角を曲がる前に将ははずんだ声で告げた。
「頼ったなんて……」
反射的につい、意地をはったセリフがこぼれてしまった聡だが、今回の場合は明らかに『頼って』いたことに相違ない。
「……そうね。どうもありがとう」
と素直に感謝の言葉に言い換えた。が
「手間をかけてごめんなさいね」
と『大人』を強調しようと、気遣いの言葉も末尾に付け加えた。
「何いってんだよ。いくらでも頼れよ。俺アキラのためなら何でもやるんだから」
信号待ちになり、将は顔を軽くこちらに向けてくる。ヘッドライトにてらされた左頬に線のような傷があるのを聡は見つけた。
「頬の傷、どうしたの」
将は傷にいままで気付いていなかったようだ。バックミラーで確認して
「ほんとだ。あのヤロー」
と小さくつぶやいた。夕方に松岡を助けたときに、前原のナイフの先がかすったらしい。しかしそんなことは聡に言う必要はない、と将は判断した。
「なんでもないよ」とミラーを戻すと、
「さーて、どこに行こうかー?」とおどける。
「バカいわないの。明日も授業あるでしょ」
将は「チェー」といいながらも
「でもちょっとぐらい夜のドライブに付き合ってよ。呼び出したお礼にさ」
と車線を変更した。
聡は本当は疲れているから、早く帰りたかったのだが、まあ仕方ないか、とあえて異論は唱えなかった。
車は首都高に乗った。進む先には星を撒いたような都心部が、空に半月を浮かべて展開していた。
「で、井口くんの事情って何なの」
まるで恋人のような雰囲気に抵抗するため、聡は教師としての責任感を前に出した。
「ああ」
将は井口に引きこもりの兄がいることを説明した。
「たしか、アキラと同じぐらいのトシじゃなかったかな。すっごいベンキョーができたみたいで、××大に進んで、一流企業っていうのかな。……に入ったんだけど、1回仕事で失敗しただか、でそれっきり」
親も黙って見ているだけでなく、いろいろするらしいが、そのたびに修羅場になり、それが井口に飛び火することも少なくない、という。
「……ちょっと可哀想なやつなんだ」
「そう……」
でも聡はあのピアスだらけの風貌の井口がどうしても恐ろしい。
「だからさ、あんなふうにオッパイみられて悔しいと思うけど、アイツを許してやってよ」
将からそんな言葉を聞いて、聡は顔が熱くなった。それを見られないように、窓の外の夜景に目を移そうとしたが、あいにく防音壁があり、それほどよくは見えない。あのとき、一瞬だったとはいえ、たぶん将も聡の裸の胸を目にしたはずなのだ。
それを思い出したとき、悔しさではなく、恥かしさが、しかし、ときめきに似た感情が聡の心を支配した。それを振り払うように、聡は
「知らない」
と肩をすくめた。
沈黙する二人の行く先では夜を彩る光の色合いがどんどん派手になってきた。街を区切るように赤いテイルランプが連なる道路同士が並行し、上下し、交差する。
色とりどりの光の海に光の網を投げたようだ。車の中も赤い光、オレンジの光につぎつぎと照らされた。
「あ……」
聡の目の前に東京タワーが現れた。鉄柱のあちこちにランプをつけた姿は季節外れのクリスマスツリーのようだ。
上のほうには赤い光が点滅している。
「こんなに近くでタワーを見たの、初めて」
窓に張り付くようにして見上げる聡が、将には嬉しくて、すぐ近くに見える月までドライブできそうな気さえした。
今度は聡のおごりで軽く食事を済ませた後、二人は湾岸の遊歩道を歩いていた。ドラマなどで、よく恋人同士がデートする場所だ。
今日もまだ平日だというのに、若い恋人同士がよりそいあって歩いている。
実は聡も博史とではないが、学生時代に付き合っていた男と一度歩いたことがある。
「高級フレンチをおごってもらったのに、ごめんね」
聡は手すりによりかかって対岸の夜景を眺めながら言った。狭くなった東京湾は対岸の夜景をゆらゆらと水面に映している。聡がおごったのはごくごく普通の値段の店だった。
「アキラとだったら、それだけでなんでも旨いよ」
本当は聡の肩に腕をまわしたい。それをぐっとこらえて将は聡の隣の手すりに体重をかけた。腕同士がふれるかふれないか、そんな距離は、将に聡の香りを感じさせた。
香りは、将の理性を少し蹴飛ばした。
左にいる、香りの源をのぞきこんだ。すると、聡も将を見ていたのか、至近距離で運命のように目が合った。聡の視線ははじかれたように夜景に戻っていった。
将も鼓動が手すりから聡に伝わりそうな気がして、湾に背を向けて、手すりによりかかった。
その前を、まだ付き合いはじめ、のような初々しいカップルが手をつないで通り過ぎた。二人がつなぐ手に将の目は釘付けになった。
今まで付き合った女のコとは、手をつなぐ前に、いきなり肩や腕を組んでいた。肩は男のほうからさりげなく抱くものだ。
『イケメン』の将だからだいたいの女の子はそうされても嫌がらず、むしろうっとりとして体重を預けてきたものだ。
腕のほうは女の子のほうからたぐってくるもので、それも将はたいてい拒んだことはない。
だけど、『手』はお互いの手が握り合うものだ、ということに将は気がついた。
握り合った手は想いあう二人の象徴なのだ。
将は、聡とあんなふうに手をつなぎたい!という思いでいっぱいになった。再び聡と同じ方向に向き直った将は、隣の聡に
「ね、手。出して」
と言った。聡は唐突な将の申し出に、
「なあに?」と言いながらも右手を差し出した。
その右手を、将は左手でガシッと握り締めた。柔らかくてしなやかな聡の手。
「?」
聡はわけがわからず、目を丸くしている。
――だめだ、こんなんじゃない。
将は聡の手を握ったままうなだれた。聡のほうは、いきなり聡の手を握り締めた、将の熱い手に困惑していた。博史の固い手とも違う、若者らしいみずみずしさが残る、手。
「アキラ、俺のことどう思ってる?」
急に投げられた質問と視線に聡はますますとまどった。
「どうって」
「男として好き?嫌い?」
男として。たしかに聡の手を握り締めて、見つめるその顔は『男』だ。
「そんな……」
いよいよ視線を熱くする将の瞳を見ることもできず、聡はうつむいた。
「手を離して」
「……ゴメン」
将は素直に手をはなした。聡はなぜか、もどかしいような思いにとらわれた。このまま手を離さないでほしい、そんな想いがどこかにあった自分に言い訳をするように
「私には結婚を約束した人がいるから……」
とかろうじて言った。
「博史?博史のどこが好きなのさ」
将は不満そうに少し頤をあげた。
「そうね……。おだやかなところとか、大人なところとか、かしら」
わざと、将と真逆のことを言いながら、聡はちくちくと心が痛んだ。
「あと、安定した収入とか?」
不機嫌そうに将は付け足すと、すぐに反論した。
「俺だっていつまでも17じゃない。すぐ大人にだってなる。収入だって、博史なんかに負けないぐらい稼ぐよ」
「そんな……だけど私は……担任教師だし、9歳も年上よ」
「関係ないよ」将は聡の言葉がおわる前に即座に言ってのける。
「そんなの関係ないよ……アキラ」もう一度言い聞かせる。
目の前の揺れる波がそのゆらぎを大きくした。沖のほうで船が通ったのだろうか。
「私の……いったいどこがいいの」
聡は波に問い掛けるように小さく訊いた。将は訊かれてしばし沈黙した。何を伝えたらいいのかわからない。
「どこが、なんて。……わかんないよ」
将は聡と同じように、波に答えるように答えてさらに考える。時間だけが流れていく。
足元の岸壁に波がうちよせる水音だけが聞こえる。将は意を決したように答え始めた。
「全部好き。知れば知るほど。毎日好きになる。アキラと毎日逢えるだけで嬉しい。マジで超好きだから……どこなんて言えないよ」
将は少しだけ大きな声でいうと、照れてうつむいた。
聡は同じ質問を博史にしたことを思い出した。あのときもこんな風に二人並んでいたと思う。
『私のどこが好き?』
博史の顔をのぞきこむ聡に、博史は微笑みを返しながら
『そうだね』と考え込むふりをした。
『まずは顔。それから感度抜群のボディ』
エッチ、と聡は博史を殴るふりをする。それをかわしながら
『若くて素直な性格。まずまずの教養。語学堪能なところ。どこに出しても恥かしくない嫁さんになってくれそうなところ』
と続ける博史。あのとき聡は博史に認めれたようで、嬉しかった……。
だけど、目のまえの若い男は、全部が好きだという。マジで好きだから、どこなんて言えないといった。毎日逢えるだけで幸せだともいった。
何かが聡の心のなにかを強く押し流していくのがわかる。
せつない気持ちでいっぱいになって、ただ「ありがとう」とだけつぶやいた。
泣きたいような気持ちになった。