第267話 叶わぬ恋(7)※改題

262~266話までのあらすじ:
将と聡は巌の過去の「恋バナ」をきいている。
小学生の巌は若い女教師の史絵に惹かれたが、まもなく縁談で史絵は巌の前から去ってしまう。
史絵がいなくなってから巌は自堕落な中学生となるが、そんな巌の前に子供ができなくて離縁された史絵が戻ってくる。
幸せだったのもつかのま、史絵は肺を患い再び故郷へ帰ってしまう。
受験に合格し、晴れて一高生となった巌は、夏休みに史絵の故郷を訪ねるが…

 
 

史絵は、巌が来る10日前に亡くなったという。

森村の家の人は、はるばる東京から訪ねてきた史絵の教え子である巌に大変に親切にしてくれた。

……はずだが、巌はほとんど何も覚えていない。森村家には勧められて1泊した。

史絵が、巌からの手紙を一通も無くさずに大事にとっておいてくれたことと、翌朝、墓参りへの道すがら、つゆ草が涙のような色の露をいっぱいにためていたことだけが印象に残っている。

「ワシは、位牌に線香をあげながら、騙されているような気さえしていた。先生の死があまりにも唐突すぎて信じられなかったんじゃ……」

当時の巌に自分を重ねた将は、思わず聡の横顔を見た。

生きてそこにいる聡をたしかめて、ホッとする。

聡も、当時の巌の気持ちを、その鋭敏な感受性をいっぱいにして想像しているのか、横から見たその目に涙がたまっているのがわかった。

「でも、ヒージー。先生の気持ちは結局、確かめられなかったんだろ……」

それが一番哀しいと将は思った。

「直接はな。もしかしたらワシの一人相撲だったのかもしれん。だが、その後な……」

 

夏の終わりに、一人の男性が祖父の家に巌を訪ねてきた。

麻のスーツを着た30歳ほどの男は、史絵の兄・慶介だと名乗った。史絵が巌の先生だった頃、帝大に行っていたというあの兄だ。

帝大に留まり、講師をしながら英文学の研究を行っているという慶介は、

「君が鷹枝巌くんか……」

と、初めて会うのに懐かしそうな顔で巌を見つめた。

慶介は、巌を近くのミルクホールに連れ出した。今でいうカフェである。

「妹は、結婚に失敗し、もう懲りたから、一人で生きていくのだ、とよく言っておりました」

コーヒーをすする慶介は、わずかに垂れた前髪の下の広い額あたりが、史絵によく似ていた。

史絵とは、互いに学問好きなこともあって、仲のいい兄妹だったという。

『僕にも、同じことをおっしゃっていました』

そういおうとした巌だが、慶介は巌をもう一度懐かしそうに見つめると、話を続けた。

「7月のはじめでしょうか。妹が危ないということで僕は、夏休みを繰り上げにして一度実家に帰ったのです……」

慶介が帰ったとき、史絵は思ったより元気だった。

梅雨のさなかだったが、慶介の帰りを歓迎するように晴れた。

青空に、むせるほどの草の香りが、濡れた地面から立ち上っていた。

気温もあがって暑かったので、慶介は氷をかいて黒蜜をかけたものを史絵につくってやった。

それを匙でそっとすくいながら、史絵は嬉しそうに打ち明けたという。

『お兄様、私ね、教え子から求婚されてるのよ』

『奇特な子がいるもんだなあ。出戻りのお前を貰いたいなんて』

慶介は、軽口を叩いた。これくらいのことは、言い合える仲のよさだった。

『ねえ。そうでしょう』

史絵もくすっと笑った。そして軒の下に横たわる青い空を見上げた。

『でもねえ……。嬉しかったなぁ……。感激して溶けるかと思ったくらい』

空に語りかけるようにして、夢見るような妹の顔。

こけた頬に浮き出た鎖骨は、いよいよ死期が迫っていることを物語っていたが、その瞳だけは天上にいるかのようだったという。

それを聞いた巌は、ついに涙をこぼした。

大の男が人前で、という理性はとっくに失われている。

森村家では辛くもこらえた巌だったが、もう限界だった。

史絵が自分の気持ちを喜んでいた……受け入れられていた、という喜び。

なのにその人は……自分のたった一人の女性は、この世にいないという悲しみ。

それは交互に激しく巌に押し寄せて、混じりあい……いつか悲しみ一色になった。

狂おしいほどの悲しみは、いつも涙となって巌を襲う。一度ほとばしり出ると止めどがなかった。

「結婚して、子に恵まれても……。80年以上経った今も……、その悲しみは、ときおり不意打ちのように……来るんじゃ」

巌は最後にぽつりと言った。

 
 

将と聡を乗せたシトロエンは高速道路を走っていた。西嶋さんが運転して送ってくれているのだ。

「ポトフ、すごく美味しかったね。……あゆみさんの店、こんど美智子にも教えてあげよう」

将の隣で、聡がつぶやく。バックミラーは聡を映し出している。

夜9時すぎ高速道路は、車もそう多くないが、将は用心のために、眼帯の上に薄いサングラスをかけている。

密室なら肩に手をまわしてもっと近くに抱き寄せたい。

とは、思うけれど。西嶋さんの手前、あまりくっつくことも躊躇われる。

二人はぽつりぽつりと言葉を交わしながら、ただ隣り合っていた。

 
 

巌の悲しい恋の話が終わって、まもなく夕食の準備が整った。

あゆみが「うちの店の自慢」というだけあって、それは大変美味しいポトフだった。

悲恋話に少ししんみりした将も聡も、その滋味深い味とあゆみの明るい話術にかなり救われたところがある。

他にもリエットやらハムやらサラダ、デザートなど、ビストロ自慢の味を堪能しての帰り際。

「将、そしてあきらさん。森村先生の墓が見えるところに、わしの骨のカケラを埋めてくれる約束……頼んだぞ」

巌は、将に念を押した。

もうすっかり暗くなっていて、巌のまわりは蚊帳がつるされていた。

行燈の光に照らされた巌の顔は彫が深く見えた。しゃべりすぎて少し疲れたのかもしれない。

「そんなのまだ先だろー」

と将は『もう』とばかりに、怒って見せた。が、もしかして寂しいのかも、と思い直し

「……仕事の都合つけて、すぐまた来るから。リハビリ頑張れよ」

と、付け加えた。

「あきらさん。将をお願いしますよ」

「はい……」

たった、それだけなのに……さっきまで、聡は西嶋さんが運転するシトロエンの中で涙をぬぐっていた。

「アキラ、泣くなよ。ヒージーはまだ大丈夫だから」

「うん……」

なのに、聡はしばらく涙を流し続けていた。

死を予感した巌のことを悲しんでいるのだろうか。

それとも巌の悲恋の話に、何か自分の恋との共通項を感じてしまったのだろうか……。

……叶わなかった悲恋との共通項?とんでもない、とばかりに将は、聡の膝に置いた左手に手を伸ばすと、それをぎゅっと握り締めた。

自分たちの恋は、いずれ成就するのだ。今は……世間的に離れているけれど。

将はそれを体温で伝えようとしたのだ。

聡の左手は温かい将の手に包まれた。

と、そのとき、西嶋運転手が「将さま」と声をかけた。

将は少しビクッとして、

「何?」

と答える。

「弟がお世話させていただいております、島大悟くんのことですが……」

将はハッとした。

覚醒剤依存症で、矯正病院に入れられた大悟。西嶋の弟の隆弘が、そんな大悟の保護者を続行してくれるのか。……恐れつつも知りたかったことだ。

「弟夫妻は、矯正病院に会いに行ったそうです。ですが、まだ面会が出来ない状態だそうで……」

会いにいったということは、保護者を続行してくれるのか。

「心配だと思いますけれど、弟夫妻は、島君の更生を信じているし、それを支援する、と申しておりました。

……いちおうそれはお伝えしておかねばと思いまして」

「本当?西嶋さんの弟さん、大悟の保護者を続けてくれるの?」

将は思わず、前のシートにしがみつくようにした。

「もちろんです。無事更生できたら、養子にしたい気持ちは変わらない、ということでした」

「よかった……。本当に良かった」

将は前のシートに頭をくっつけるようにして、安堵した。

やっと涙が止まった聡も、そんな将を嬉しげに見つめた。

 

車はあいかわらず夜の高速道路を進んでいる。

将は顔をあげて、聡の顔を見つめた。

暗い車内だからか、少し青白く見えた。

ふいに……巌の話が将の脳裏に蘇り、それは不吉なことを想像させた。

もしも、聡が、先に逝ってしまったら。

「アキラ」

ふいに、将は傍らの聡を呼んだ。それはさっきから語り合っている声より少し大きめだった。

将を振り返った聡は、将のあまりに真剣な顔に驚く。

「ねえ、アキラ。貧血って、本当になんでもないよね」

「え、なんで?どうしたの?」

聡は目をまん丸く見開いた。

「心配なんだよ。検査とかしたの?」

「大丈夫だってば。ただの夏ばてなんだから」

「だから、検査はしたのかって聞いてるの」

将は鋭い瞳と強い口調で、聡を責めるように訊いた。

「したよ」

「本当に?」

執拗に訊き返す将に、聡は可笑しそうに

「本当だってば。……血もとったでしょ、頭のCTスキャンもとったし……どこも悪くなかったよ」

と笑いながら話した。

「俺さ……ヒージーみたいなことになったら……、後を追うからな」

将はやや俯くと、少し苦しげに呟いた。

「そんなことになんか、絶対ならないわよ。……あたし健康なんだから。ちょっと今年は異常に暑いからバテたけど」

いつもの温かい低音で答えた聡は、そこまで言って、やや口を尖らせた。

「……将こそ、そんなに傷だらけになって……あたしすごく心配したわよ」

「ごめん」

思わず将は、体を起こして傍らの聡に目を走らせた。

「最初、腫れ上がった顔を見たときは、心臓が止まるかと思った……」

聡はそういうと、ゆっくり将に、頭をもたれた。

聡のほうから頭をもたれかけてくるなんて……将は、久方ぶりの甘い幸せを噛み締めた。

もしこの車が、星もない宇宙の果てに二人を連れて行くにしても、こんな風に寄り添えるならきっと幸せだろう。

将はこっそりと手を聡のほうに伸ばして、聡の手をとった。聡も握り返す。

少しだけ聡の方に近寄ってみる。西嶋さんはわかっているのか、黙ってハンドルを握っている。

聡も少しだけ将のほうに首を傾けてきた。近づいたのはほんの数センチなのに、甘い聡の香りが鼻をくすぐる。将は深呼吸するようにそれを吸い込んだ。

大きく吸い込みすぎて、ひびがはいった肋骨がちょっと痛んだほどだ。

バックミラーには、これ以上ないほど幸せそうな恋人同士が映っていた。

しかし、二人が今から帰るのは、教師と生徒を演じなくてはならない東京の街だ。

車が願わくばいつまでも着かないように……将と聡は、それぞれ祈っていた。